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さびしい旅

目を閉じると、木漏れ日のようにきらめいてはうつろいゆく旅の記憶が自分の中を通り過ぎていく。

砂埃の舞う中で風を受け止めている、土と草のにおいのする山道をただ歩いている、クラクションの鳴り響く喧騒の中をさまよっている、いくつもの峠を越えて朝方やっと宿にたどり着く。

どの時も、さびしさを抱きしめていると実感する。
基本的に「旅」というものをするときは一人でいくことがほとんどだ。その上、特に目的や意図的にこれをしようといった目標のようなものを持たずに、その時その時で自分の気の向くままに行動することが多い。どこへたどり着く必要もない、たどり着いた先で何かをする必要もない、ただそこを通り過ぎたりたたずんだりする自分のことを信じている。同時に、多くの時間ひとりであることや、その場所で出会った草花、動物、人々とのつながりを感じ、別れることへさびしさを感じ続けている。

2017年冬、キルギスのイシククル湖に行ったときのこと。前日宿泊した、首都ビシュケクにあるゲストハウスのオーナーさんに、「イシククル湖に行こうと思う」と話すと、近くのバスターミナルからマルシュルートカ(中央アジアの国々でよくみられるミニバス)でチョルポン・アタという場所で降りれば見に行けると教えてくれた。早速翌日バスターミナルへ歩いて向かったが、窓口が分からなかったので、「チョルポン・アタに行きたいのだけれど、どのバスに乗ったらいいか?」と、バスターミナル広場を歩く人に聞いて案内してもらった。教えてもらったバスで、運転手らしき人に料金を支払い座席に乗ったが、30分過ぎても出発しない。どうやらある程度の人数が集まらないと出発しないようだ。1時間ほど待って、ようやく人が集まり始め、バスのエンジンがかかる音がした。3~4時間(正確な時間をもうほぼ忘れてしまった)揺られ続け、チョルポンアタについに着いた。真冬の2月だったので、あまり人がおらず、あたりは閑散としていた。空は灰色で、冷たい空気が漂っていて、足裏の奥の方から冬の寒さと静かな冷たさが身体に流れ込んでいる。ひとまず歩こう。空気の震える音だけが聞こえる木々の茂った公園の中を通り、人通りのない、かつ途中で見える生活感のなさそうな家々のそばを通り過ぎながら思った。本当に知らない場所に一人で来てしまったと。
目の前に広がったのは、天山山脈の雪の白さと湖の藍色が溶け合った風景だった。一人、浜辺を歩く老人がおり、その人の横顔は冬の湖そのもののような静けさをまとっていた。座って湖を眺めていると、水面が揺れる音が聞こえ、静寂がより自分の中で満たされているような気持ちになった。朝、降り積もる雪のにおいをかいだ時の、すべての音がなくなるような冷たさがあたり一面に広がる。まるでバッハのミサ曲を聴いているかのような、柔らかく冷たいうつくしさだった。
ひとりぼっちだ。山や湖を美しいと感じる以上に痛みが自分の中ににじんでいく。
オフシーズンのためオープンしている宿がほぼなかったのだが、バス停にいた現地の男性が近くにあるゲストハウスのオーナーさんに交渉してくれて無事にあたたかい部屋で眠ることができた。翌日もあてもなくうろうろしたり、ぽつんと佇んだ食堂でラグマン(中央アジアの麺料理)を食べたりした。目の前に広がるだだっ広い道と山があまりにもうつくしい。ほかにもう何もいらないのではないか。
マルシュルートカへ再び乗り込むと、この地を離れることのさびしさが胸に広がる。湖を、山脈を、湖の浜辺を歩く老人を想う。その時感じるのは、目を閉じればそばにいてくれるという安らぎでもある。

さびしさを自分自身でめいっぱいに受け止め、抱きしめること。
さびしいという、胸の奥を刺すような痛みと、そのさらに奥からにじみ出る、夜空の星がともるようなあたたかさを身体に沁み渡らせるということが、自分を照らすやわらかな光となると、教えてくれる。さびしさがあってよかった。さびしいと感じるたびに、私はどこへだって行けるのだ。



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