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僕の恩師

僕は、小学3年生になる春に神奈川から青森に親の仕事の都合で引っ越すことになった。


神奈川から引っ越すのはとても悲しかったが、青森には祖父母がいて、一緒に暮らすことは少し楽しみでもあった。


青森のほぼ中央部に位置する十和田市というところに僕は朝引っ越した。


小学校転向初日、僕の担任になる先生は熊谷先生言う男の先生だった。見た目は180センチほどあるガタイもよくスポーツ選手のようだった。


熊谷先生はとても声が大きくて、明るい先生だった。直感的にすぐに好きになった。


青森の小学校は三年生から入れる部活があった。母がママさんサッカーをやっていた影響でサッカー部に入ることにした。


昼休み時間になると僕はサッカー部の友達やクラスメイトとサッカーをよくやった。


その時に熊谷先生も一緒にサッカーをしてくれた。

とても汗っかきな熊谷先生はtシャツをビショビショにして遊んでくれた。昼休みの終わりの5時間目の授業ではいつも着替えていた。


なぜか僕はその衣替えをどんな服を着るのか少し楽しみにしていた。


後にも先にも昼休みに一緒に遊んでくれる先生は熊谷先生ただ1人だけだった。


授業もとても面白かった。なんと表現すれば良いのかわからないが、教えるのがとてもうまかった。


授業で僕らクラスが少しだれるとよく、話をしてくれた。



僕が覚えてるのは、


熊谷先生が小学校の遠足の時に友達がバスで吐きそうになり窓を開けてゲロを吐いてしまった、すべらない話。


パスタを食べる彼女よりそばを一緒に食べられる彼女を作れという恋の話。


絶対に、かかとを踏んで靴を履いてはいけない理由。


必ず20年以内に大地震に来るという都市伝説的なもの


とても色々なジャンルだった。


どれもクラスは笑いに包まれ大爆笑を取っていた。


同じように他のクラスのやつにその話をしても、全然笑ってくれなかった。


同じように話してるのになぜ笑わないんだと悔しい思いをした。


これが僕のお笑いの原点だったのかもしれない。


僕は掃除の時間が嫌いだった。


熊谷先生は噂や好きな人が誰で、両思いな奴がいるという類の情報が好きだった。


掃除をさぼりたい僕は噂や情報を友達から書き出し、掃除の時間になると誰々があの子の好き人がどうですよ。と言うような話を熊谷先生に耳打ちする。


そうすると僕を体育館倉庫に連れて行ってその話を入念に聞いてくれた。そうして僕は掃除をサボって話をする。楽しそうに喜んでくれる熊谷先生との時間がとても好きだった。


授業参観の時は、理科の授業だった。


よく覚えてないが、ジュースの味をどのように味付けているというものだったと思う。


この透明な液体を誰か飲んでくれないか?


という急な問いに、


僕はすぐに手を挙げた。他のクラスメイトは授業参観に緊張していて誰も手をあげていなかった。


「酸っぱーーい!」


クラスメイトは笑い、熊谷先生も笑っていた。



そこには甘味料が入っており、ジュースの味をどう出しているか化学調味料はどんなものなのかというのを知ってもらうような授業だった。



この授業参観では本当はカラクリがあった。あのタイミングで誰が手を挙げようと僕にを差すことが決まっていた。

授業中いつも手を挙げてトンチンカンなことをいっていた。そんな僕を先生は面白がってくれていた。


「授業参観の時この飲み物を出すから手をあげてくれ」


というものだった。僕は前日にそれを飲んで味を知っていた。本当に酸っぱかったが、わかりやすくとても大きいリアクションを取った。


小学3年生の僕らにはとてもレベルの高い授業だったと思う。




しかし熊谷先生はいつもそうだった。




バスタを食べるよりそばを食べる彼女を作るべきだという話は、お互いに恥じらいを包み隠さずに、全てを出せるような関係がいいという事だった。


かかとをつぶさずに靴を履けと言うのは緊急事態にすぐに動けるようしなさいと言う教え。


大地震が来る話をした時に、

「そんな話をしないでください」

という女の子がいたが、

「いや本当に来るからね?」というような真剣な眼差しだった。そして本当に来た。

3.11東北大震災




僕らを小学3年生でも子供扱いせず同じ人として見てくれていたんだと思う。


家庭訪問の時僕の母は、「私の息子は字も汚くて…」というようなネガティブな話をしていた。


熊谷先生は


いつも授業中に手をあげてくれて面白いことを言ってくれる。字は筆圧が濃くて一生懸命でとてもいい。そして僕は和洋がとても好きです。


という話をしてくれたと母から聞いた。


僕のことを認めてくれる先生がさらに好きになった。


僕のことを「和洋」、かずひろと名前で呼んでくれる先生も唯一だった。



別れは突然訪れた。



小学四年生になる年に青森から離れ元からいた神奈川に戻ることが親の仕事の都合で決まった。


お別れ会をクラスでやってもらって友達からもプレゼントをもらった。先生からは特に言葉はなかった。





引越しの前日、家に姉の先生とともに熊谷先生が来た。


親と僕に挨拶をしてくれた。


元気にやれよ!


その一言


別れを惜しむ一言には全てが詰まっていた。


先生の弟さんは鹿島アントラーズに所属するサッカー選手だった。



サッカーをやっていた僕は


熊谷先生の弟に憧れていた僕にユニフォームを持ってきてくれた。


とても嬉しかった。




そして僕は青森を旅立った。




引っ越した年明け、熊谷先生から年賀状が届いた。


あけましておめでとうという挨拶とともに




次男が生まれたという報告だった。




名前は僕と同じ


かずひろ

だった。


漢字は違うし関係ないとは思うが


なぜか少し嬉しかった。




数年後青森にいる友達と呑みに行ったときに熊谷先生は教頭になったときいた。


当たり前だ、熊谷先生は人の上に立つべき人だ。










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