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連載小説 hGH:3


 怪我が治らないということで押し通した。今回の怪我と加齢と勤続疲労でもう肉体が限界だ、と。事前に球団として公式に声明をだした。会見の場でも、井本本人の口からそういわせた。
 選手として引退を惜しまれ、青年スター監督の誕生に球界がわいた。それ以上に、世間がわいた。急な展開の人事を訝る空気も若干あった。それには注意深くアンテナを張った。数日ようすを見た。問題はないようだった。hGhやドーピングに関連する発言や文字は、どこにも引っかかってこなかった。
 引退就任会見は、可もなく不可もなくといったところだった。井本の表情がさえなかったのは、現役に対する未練と肉体の限界というもどかしさ、と思われるよう球団広報に情報操作をさせた。会見にはGMの私も同席して、井本の発言を後押しした。
 井本には、今後も公の場での言動には細心の注意を払わせなければならない。
 あとは、本人の胸の内の問題だった。監督という職業自体、だれでもなれるものではない。やりがいは、まちがいなくある。そうのち、考えも前むきにに変わっていくだろう。
 オフシーズンは、例年以上に注目度が高かった。だいたいこの時期は淡々と業務が進んでいく。そういった意味でも、井本の監督就任は成功だった。話題性があり、メディアの露出も多かった。注目は、球団にとっても経済効果があった。
 極秘のミーティングで、四人いる幹部にだけは事実を伝えた。完全に事後報告だった。できるだけ少人数の胸の内におさめておきたかった。話の性質上、柴田とふたりだけで済ませられる話ではなかった。
 ひとつ、問題が残った。
 選手井本の抜けた穴だった。控え選手からのくりあげだけでは、どう算段しても穴は埋まらない。他球団で獲得できそうな選手も見あたらなかった。急遽決まったことなので、国外の選手にもとくべつ焦点をあてていなかった。
 選手の獲得の指示を正式に米国支局にだそうとした矢さきだった。見はからったように、その米国支局にいる大島から連絡が入った。
「ひとりよさそうな選手がいます」
 大島は来月日本にもどってくる。すでに辞令はだしていた。出向前と同じGM直属の幹部のポストだ。
「くわしく聞かせてもらおうか」
 電話で話しながら、大島がパソコンにメールを送ってきた。その選手のデータだった。それを見ながら、大島の解説を聞いた。井本の穴埋めに、私もちょうどいい選手に思えた。
 もしかすると大島は、以前から井本の事案を薄々感づいていたのかもしれない。私が下す決断の時期と内容まで予測していた可能性もあった。私はそれをそれとなく訊いてみた。大島は口を濁して答えなかった。
「まあいい、わかった。では急で悪いが、すぐにでもむこうの代理人と接触してくれ」
 今回大島からあがってきたのはメジャーで準レギュラー級の選手だった。ポジションは井本と同じファーストで、打撃スタイルもよく似ていた。俊敏性は井本よりいくらか落ちる。パワーは一段上だった。セイバーメトリクスなど数字上はほぼ同等で、NPBとMLBのちがいを考慮しても、選手としてほとんど同格に思えた。日本の文化が好きで、旅行で何度か日本にきているとの情報もあった。井本より八歳若く、なにより本人が日本球界に興味を持っている。
 条件的には申し分なかった。プレイスタイルも日本むきだ。ただ、高い。むこうでは高給とりでないとはいえ、昨季の年俸は日本円で約五億だ。五億といえば、日本球界ではかなりの高年俸になる。今季の井本より一億高い。
 柴田をGM室に呼び、そのあたりを相談した。
「私も昨年からさまざまなシミュレーションをしました」
 柴田はいった。井本のドーピングを確信したあたりから、GM補佐の柴田には今後の展望を読む作業をやらせていた。柴田とはべつに私も同じ作業をしていた。あるていど結論がでたところで、おたがいのシミュレートをつき合わせた。詳細に多少の差異はあったが、ほとんど同じような過程と結果をだしていた。
「そのなかで、いまの状況が最善の形だと私は思っています。hGHが表沙汰になる前に井本を引退させただけではなく、そのまま人気監督として来季ベンチで指揮をとる。仮に五億かかっても、選手井本の穴が埋まるなら球団としてマイナス要素はないように思えます」 
 いい答えだった。
「では、交渉の細かい部分は大島と話を詰めていってくれ」
 柴田がなにかいいたげな顔をした。
「どうした」
「じつはそれとは別件で、もうひとりとっておきたい選手がいます」
「ほう、だれだ」
 柴田が名前をあげた。国内他球団のベテラン野手だった。右投げ右打ちで、外野ならどこでもと、あとはファーストを守れるはずだ。今季はスタメンより代打での出場が多かった印象がある。ここぞという場面では勝負強い。特徴はそれくらいだった。三十六歳で、あと一、二年で引退だろう。年俸は、いま話していた外国人の十分の一にも満たない。
 今季かぎりでうちの外野の四番手の存在だった選手が引退した。かわりが務まると計算している選手はふたりいる。ファーストの井本の穴は外国人で埋める。獲得に、意味を感じなかった。
「なにかあるのか」
「ええ、まあ」
 めずらしく煮え切らなかった。
「外国人選手がとれなかったときの保険か」
「そういうわけでもないのですが」
 これくらいの選手であればすでにチーム内に何人かいる。
「どうした。はっきりいえ」
「うまく説明はできないのですが、とっておいたほうがいいように思えるんです」
 プレイに突出したものを持つ選手ではなかった。年俸は安い。私自身、強く否定も肯定もできなかった。
「なにかつながりがあるのか」
 球界にも、球団の垣根を超えた派閥がある。出身地や出身校などでつながっている場合が多い。私は、実力がともなっていたり、よほど人気や人望があって球団に利益がないかぎり、派閥のつながりで選手をとることはしない。
「いえ、ちがいます。とくにどこかの派閥に属している選手ではありません」
 そうなると、数年後の指導者の才覚を見すえているのか。
「それもないことはないのですが」
 やはり、歯切れは悪かった。
 われわれのような運営側の人間にも、勘みたいなものが働くことはある。それをやっていたおかげで、大事にいたらなかった、もしくはシーズンを成功に導いた。球団運営におけるさまざまな事象が対象になるが、それが単純に選手の獲得の場合もあった。そして選手の獲得は、つねにある意味保険であり、ある意味賭けでもあるのだ。
 私はそれ以上聞くのをやめた。
「けっして損はない、と考えています」
 なんとなく、その言葉を信じていいような気がした。柴田の選手を見る目はたしかで、球団運営の観点からも公平かつ適正な目を持っている。どのみち、失敗したところで金銭的な痛手はほとんどない。
「わかった。ではその二選手をとるということで話を進める。責任者はおまえがやってくれ」


 海野が現役を退いた。


    続 hGH:4




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