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連載小説 hGH:4


 海野が現役を退いた。
 海野は現役生活十八年の生えぬきで、ここ数年は代打の切り札と外野の四番手という位置づけにいた選手だった。今季は春さきに脇腹の肉離れで戦線を離脱した。一般生活に支障のでるほどの重症ではなかったが、プロ野球選手としては致命的だった。三十八歳という年齢的なものも大きかった。結局一線には復帰できないまま、シーズン終了と同時に引退を表明した。井本の電撃的な引退、監督就任の影にに隠れて、長年チームを支えてきた選手のひとりにしては、ずいぶんひっそりとした幕引きといえるだろう。
 かりに怪我がなくても海野の来季の現役は難しいところだった。じっさい今季の契約もぎりぎりのところで交わしていた。昨季一度大きく年俸が下がった。成績があがらなかったため、また年俸が下がった。それでなんとか今季も契約にこぎつけたというのが現状だったのだ。
 本人と現場首脳陣の強い要望で、夏場をすぎたあたりに一度一軍にあげた。ほどなく二軍にもどした。シーズンの終わりころには、三軍に落としていた。あきらかに衰えの見えるベテランが、故障箇所をかばってのだましだましのプレイで通用するほど、プロの世界は甘くなかった。
 海野には、二軍の外野守備走塁コーチのポストを用意した。
 ふたつ返事だと思っていたところ、海野はいったん保留にした。
 私の部下で球団幹部の大島がもうすぐアメリカから帰ってくる。一度は自由契約にまで追いこまれた一昨年の大島との契約更改に、まだわだかまりがあるというのだ。
 私は柴田をGM室に呼び、そのことについて話した。
「大島と海野、どちらも生かしたい」
 私はいった。柴田は苦笑した。
「もともとあれはGMが発案した策ですし。大島は指示通り動いただけで恨まれる筋合いはないですからね」
 一昨年のオフ、かなり強引なやり方で海野の年俸を下げた。海野は手離したくない選手ではあったが、年俸とプレイパフォーマンスに大きな乖離があった。それを適正な価格にするため、私は策を練った。契約更改の際、われわれ球団からは、減額率がルールに抵触するのを承知で、当時の海野に適正と思われる低年俸を提示した。のらりくらりかわしながら、何度も設けた交渉の場でその金額を提示しつづけた。そういった状態で交渉をうまく長引かせ、最終的には海野のほうから破談にさせるよう仕むけた。時期的なことやネガティブな印象もあり、どこの球団とも契約できないまま春のキャンプシーズンを迎え、海野の心が完全に折れたところで、再度うちから海野にオファーをだし、こちらの思惑通りの低年俸であらたに契約し直したのだ。
 その海野との交渉を一任して矢面に立たせたのが大島だった。
「海野のコーチ就任を強く推したのが大島ということにしましょうか」
 柴田はいった。私もそれがいいように思えた。
 大島と海野。立場はちがうがどちらも球団として今後も必要な人材だった。遺恨を残したまま、それぞれの力を削ぎたくはない。
「よし、それを大島の正式な発言として現場に流してくれ。海野とは、私が直接話す」
 翌日の午後、私は事務所をでると本拠地球場にむかった。すこし体を動かす予定なので、アップがてら速めの速度で歩いた。十分もかからずに着いた。
 現場スタッフから、きょう海野がロッカーを片づけにくることは聞いていた。事前にこちらからはなにも伝えていない。ロッカールームに突然あらわれた私に海野は驚いていた。
「どうだ、いまの心境は」
 私はいった。海野とは公式戦の最終日に会っていた。そこで正式に引退の報告を受けたのだ。
「もう練習しなくていいのがなによりです」
 海野は笑っていた。私も笑った。引退した直後の選手のほとんどはこの言葉を口にする。そしてそのほとんどの選手が、しばらくすると練習と試合が恋しくなる。
「今後のことなんだが」
 私の言葉に海野の顔がくもった。
「指導者の道は考えていないのか」
「いえ、できれば今後も野球に携わっていきたいです」
「じゃあ、ほかになにか話でもきてるのか」
 海野が首をふった。うちのチームでコーチをする。そのこと自体に抵抗はないはずだった。むしろ、それが希望だと情報は入っている。やはり、引っかかっているのは大島との一件か。
「ちょっとグラウンドにいこうか」
「えっ」
「キャッチボールの相手をしてくれ」
 戸惑う海野にグラブとボールを持たせた。私は海野に予備のグラブを借りた。
 グラウンドにでると、来季にむけて選手たちが練習をしていた。活気がある。若手の姿が多かった。
 監督やコーチ陣が私に気づいて近づいてきた。視察の予告などはしていない。
「私のことは気にしなくていい。ちょっとキャッチボールをしにきたんだ。外野の空いているところを使わせてくれ」
 芝の上で、海野とおたがいかんたんに準備運動をした。十メートルほど距離をとった。戸惑いながら、海野から投げてきた。かなりの山なりで、私は難なく捕球した。遠巻きに、好奇の視線を感じた。
「もっと強く投げてもだいじょうぶだぞ」
 私はいって投げ返した。同じくらい山なりの球だった。
 十球ほどで肩が温まってきた。私はすこし力を入れて投じた。そこそこスピンのきいたボールが海野の胸の真んなかにいった。捕球した海野が、おっというような顔をした。
「もうすこし離れようか」
 塁間くらいまで距離をとった。私は腕だけではなく、全身を使って投げた。海野の球にも力が入ってきた。さすがに、ついこのあいだまで現役だっただけあって、海野の球はうなりをあげていた。
 私はその海野の力の入ったボールを、すべてグラブの芯で捕球した。送球と捕球。何度かくり返した。私のほうから、いったん間をとった。大きく息を吐き、軸足をしっかりと固めた。それから足をあげ、下半身から上半身へ力を連動させると、最後にボールにすべての力が伝わるよう、思いきり腕をふって投げた。ボールが空気を切り裂く音がした。海野の投球よりもさらに勢いのあるボールがいった。回転もいい。そのまま糸を引くように、海野が胸の前でかまえていたグラブにボールが吸いこまれた。捕球音が、グラウンド中に響き渡った。一瞬、あたりが静まり返った。
「GMが選手だったっていう話は聞いたことがないんですけど」
 海野はいった。
「私をただの偉そうにしてるおっさんだと思ってたか」 
 ボールが空気を切り裂く音。伸びのある球筋。その後もふたりの捕球音がテンポよくグラウンドに響いた。投げたボールは、おたがい胸のあたりからほとんどずれることはなかった。気づくと、選手やスタッフたちが物珍しげに私たちのまわりを囲んでいた。
「そろそろ終わりにしようか」
 自分の投球がブレだしたことに気づき、私はいった。全身に汗をかいていた。すでに肉体は悲鳴をあげている。しばらくは、体中いたるところの筋肉痛に悩まされるだろう。海野は涼しげな顔で近づいてきた。
「すごい球投げますね、GM。もし各球団フロントでチームを作って戦ったら、うちが余裕で優勝じゃないですか」
「そんなおっさんだらけの試合、怪我人続出で試合が終わるころには選手がだれもいなくなってるな」
 私は海野にグラブを返し、キャッチボールにつき合ってもらった礼をいった。まわりを囲んでいた選手たちには、もう練習にもどれと声をかけた。野手、投手、ほぼすべての選手の練習の手が止まっていたようだった。
「いろいろ思うところがあるのはわかってる」
 私は海野にいった。
「ただ、われわれが生きているのはプロの世界だ。それぞれがそれぞれにやらなければならないことがある。その上で、球団は将来きみに一軍の指導者になってもらいたいと考えている。そしてそのさきのことまで見すえている。その第一歩が二軍の守備走塁コーチだ。頼んだぞ」
 私は海野の返事を聞かずにその場を離れた。これでだめならうちとの縁はここまでだったということだ。大島との関係修復は、海野のコーチ就任が正式に決まってから、またあらためてやればいい。
 事務所まで車で送るというスタッフの申しでを断り、私はクールダウンをかねて歩いて球場をあとにした。



 柴田がGM室に進捗状況の報告にきた。


                                                 
  続 hGH:5



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