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「続けること」より難しいこと

さて、noteでも書くかとPCを立ち上げる。
背中越しのTVからは流しっぱなしの「のだめカンタービレ」。
最近見始めた。
玉木宏、上野樹里の瑞々しい美しさに痺れる。
若いってそれだけでなんかもう無条件に、美しい。

そう思うようになったということは、それだけ私が年を重ねて、少しずつ若さから遠ざかっていっているということだ。

たぶんそれは若さの真っただ中にいる本人には100%の自覚は出来ない。

そんなことを思いながらふとTVのほうを振り返った時、鏡に映る自分と目が合った。
うわ~…
誰この美女。
え、アラフォー…?まるでハタチじゃん。

しばらく時が止まった気がした。
しげしげと鏡に映る自分と向き合う。

白いニット…似合ってんなぁ。
ピアスの小さなダイヤモンドが可憐に揺れてらぁ。(無駄に目がいい私)
顔も洗ってないのになんでこんな透明感あるんかなぁ…

鏡の表面がほんのり汚れていて、全体的にふんわりと映っているからなんだけどね。
鏡は少し汚しておくに限る!(掃除しろ)

さて、またしても無駄話が長くなりすぎてしまった。
代わりに本編を短くまとめようと思う。

頭頂部の毛を育て始めたうちの夫。
彼は去年の年末から、夜にウォーキングをするようになった。
あれから3か月。
夫は昨日も「めんどくさい」を100回言いながらも歩いた。
ウォーキングが毛の成長に関連しているかもしれないからだ。
何がどう作用しているか分からないからどの習慣も止められない、どの手順も変えられない。悲劇!!
私は運動するのが大嫌いなもんだから、3か月も歩き続けている夫のことを内心ちょっと偉いなと思っている。

毎日続けることはそれだけで素晴らしいことだ。
少なくとも私には出来ない。
でも、実は続けることよりもっとすごいと思っていることがある。
一度やめたことを再び再開することだ。

夫は昔から0か100か思考の持ち主で、それは彼を時に生き辛くするものだった。
例えばウォーキングだって、一度始めたなら雨の日も雪の日も、熱が出たって続けようとしてしまう。
そして、やむを得ない事情で一度でもその習慣が途絶えてしまうと、そこで終わり。
二度と再開はない。

「今日は大雨だから休んだら?明日晴れたらまた歩き出せばいいじゃん」
私がいくらそう言ったって、それが出来ない。
張り詰めた糸が切れたら二度ともとには戻らない。
本人も自分のそういう気質を知っているから、極限まで無理をする。
うーん、不健康。

ところが、今回のウォーキングは実はこれまで3回ほど歩かなかった日がある。
私の実家に泊まった時と、発熱した日だ。

普段ならもう再開はないのに、夫は切れた糸を再び張り、歩き始めた。
私はそのことがとても嬉しい。
ぶっちゃけ毛なんてどうでもいい。
一度やめたところから再び再開して頑張っている姿が嬉しい。

続けることはすごいことだ。
だが、人間そうそう強くはない。なまけ心が出ることもある。
やむにやまれぬ事情で続けることが困難になる日だってある。
そんなとき「続けること」の奴隷となってしまった人は、続けることが不健康な状態であるにも関わらず無理に無理を重ねてしまうことになる。

本当にすごいことは、一度やめても、再び立ち上がることだ。
体調が悪いときは休もう。
嵐の日は家にいよう。
どうしても気分が乗らない日は休憩しよう。

でも、そうじゃない日は続けよう。

意外とこれが難しい。
でも本当はこれが一番健全だ。

少しずつ自分の思考の癖と向き合って、そのたびに少しずつしなやかに強くなっていっている夫を私は実はちょっとだけ尊敬している。

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