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学校という社会の「多様性」

義務教育の学校という社会は、その地域に住む同じ学齢の子ども全員が対象という点で、多様性に満ちている。(地域性は多分にあるし、年齢層は同一だったりもするけれど。)

家族状況も、経済状況も、ひとりひとりの能力も個性も考え方も、SOGI(性的指向・性自認)も、国籍も、文化も、多種多様な子どもたちが、「同じ地域」「同じ学齢」という共通項でくくられて、学校という枠の中で、ともに学び、ともに遊ぶ。
ある意味、学校という存在そのものが、ダイバーシティであり、インクルージョンだ。

現実の学校の教育システムは、どちらかというと画一的で、意図的か必然か、多様性は覆いをかけられて、見えにくくなっている。個人情報の壁もあり、気が付きにくくもなっている。
制服のある学校で、靴の色、靴下の色まで指定されていたりするとなおさら。ひとりひとりの違いは目につきにくい。

義務教育の学習という共通目標に向かう上では、画一性は、全て悪いことばかりではなく、どこでも一定水準の教育を受ける権利が保障されているということでもあり。

多様性が見えにくいことで、差別や区別や、劣等感や優越感、コンプレックスなどが、過剰に浮き彫りにならなくてすむ一面もある。
(服が買えない、食べるものがない時に、制服や給食の存在が、どれほどありがたいことか!)

反面、学校の画一性が、強調されすぎると、窮屈だったり、息苦しかったり。その場にいること自体が、難しいひとも出てくる。多様性の排除や、差別につながることもある。
みんなと同じでないことに、不安を感じたり。人との違いに、ひとりで悩むひともいる。

わかりやすい違いは、良くも悪くも気付かれやすいのだけど。
意外と難しいのが、一見わかりにくい、気付かれにくい、見えない違い、隠れた違いだ。

発達障害や学習障害等、できることとできないことの差が大きすぎると、やらないのは怠けていると思われてしまったり。

思想や宗教、SOGIなど、内面的なものは理解されにくく、自分勝手、わがままと言われてしまったり。

経済状況、家庭環境などは、個人情報の壁に隠されて、知られにくい一方、配慮もなされにくい。

見ようとしないと見えない。
知ろうとしないと決して見えないものがある。

障害があるから配慮が必要なのではなく。
そこに困っている人がいるから、配慮や理解が必要なのだと思う。
ひとりひとりを理解するために必要なのは、アセスメント(知って理解すること)であって、ラベリング(名つけ・診断)ではない。

ひとりひとりの思想信条は、他者の権利を侵害しない限りにおいて、できるだけ尊重されなければ。自分の思いが尊重され、相手の思いも尊重される。
わたしたちは多様な思想や文化の中で生きている。
みんな違ってみんな良い。

家でゆっくり勉強ができない子どもたちにとって、宿題は諸刃の剣。
家に勉強部屋や勉強机があって、落ち着いて勉強できる子ばかりではない。
親が子どもの勉強をみるのも、当たり前ではない。そもそも家に両親がいるのだって当然のことじゃないし。
勉強以前に、衣食住や安心安全が脅かされている子どもたちがいる。
遠い国の話でも、テレビのニュースの中の話でもなく。同じ教室の中に。

宿題を忘れる理由はひとつじゃない。
朝ごはんを食べてこない理由もひとつじゃない。


…思いつくままに、つらつらと綴ってみたけれど。
このテーマは思うところがありすぎて、いっこうにまとまらない。
もしかしたら、永遠にまとまらないのかもしれないけど。
未完のままであげておく。

今日もまた。
学校という社会の中で、ひとりひとりみんな違う子どもたちが、ともに学び、ともに遊んでいる。


ひとりひとり違う場所で輝く、働き方の多様性


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