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入院生活の中の人間模様

交通事故で搬送された老人病院の話」の続き

転院先は、整形外科単科のクリニックだった。
入院生活は劇的に改善された。

何より、エアコンがきちんと作動するのが嬉しかった。
ギプスは相変わらず暑苦しく、利き手が使えない不便さはあったけど。
エアコンも無く、金欠になると食べるものにも事欠く、これまでの長屋生活と比べても、入院生活は快適で、避暑に来たみたいだと思った。

整形外科単科なので(高齢で介助が必要な方や、大怪我でベッドから離れられない方はいたけれど)重病人はおらず。
殆どの患者たちは、どこかしらの怪我のほかは元気そうで、いつも談話室に集まって話をしていた。
入院している患者さんの家族や、付添婦さんも時にそれに加わった。

前の病院と違って、完全看護では無いらしい。
介助が必要な方のところには、家族か、家政婦協会から派遣されたヘルパーさんが、簡易ベッドで付き添っていた。
利き手が使えないわたしも、何かと不便なことがあって、母が頻繁に顔を出していた。

談話室には暗黙の序列があった。
一番上座は、古株のボスの指定席。ボスはむちうちで首にコルセットを巻いていた。事故での入退院を何度も繰り返していて、保険金で生活しているらしい。
特別個室には華奢なマダムが入院していた。部屋は広くてホテルのようで。一泊の値段もホテルのようだった。時間を気にせず(イヤホンも使わず)にテレビが見られるのはいいなぁと思った。

クリニックの小さな入院病棟。
どこの部屋にどんな人が入院しているのか、みんなが知っていた。
入院患者の中ではわたしは、最年少だった。

となりの病室のお兄さんとは特に仲良くなって、連日遅くまで話し込んだ。
お兄さんは片足ギプス。松葉杖を片手で振りながら、片足ケンケンで病室にやってきた。

お兄さんは、数日前、水の事故で弟さんを亡くし、そのショックでお母さんが倒れて亡くなり、ふたりの葬儀中、やけになって、壁を蹴って骨折してしまった。と、話していた。
あまりに不幸続きの話だったが、淡々と話した後は、たわいも無い話で盛り上がり、お互いが持ってきたゲームや無線機で消灯近くまで遊んでいた。
(あまり遅くまで騒いでいると注意されたが、看護婦さんは事情を知ってか、優しかった。)

右足ギプスの彼は「(主治医に)車の運転ダメって言われたけど。」こっそり車で来て停めていると話した。「迎えに来る人いないしさ。」と。しーっと唇に指を当てて笑い、いつものようにケンケンしながら出て行って、ひとりで退院していった。

わたしの入院の話をききつけて、みんながお見舞いに来てくれた。
その中に通信制高校で同じ支部だった、顔見知り程度の彼がいた。

ひとりでやってきた彼とは、これまであまり親しく話した記憶が無かったけれど。お見舞いに来てくれたのは嬉しかった。
彼はベッドサイドで、延々と自分の話をした。
わたしと(付添いの)母は、もっぱら聴き役だった。
わたしより少し年長の彼は、長距離トラックの運転手だった。
トラック運転の仕事の話と、刺青の話が話題の中心だった。

トラック運送の時間(期限)は、厳密に決められていて、飛ばさないと間に合わない。遅れると大変なのだと話した。トラックの中には、仮眠をとれるスペースもあるらしい。たくさんの苦労話は未知の世界だった。

背中一面に刺青を彫っているのだと話した後、腕をまくって見せてくれた。刺青を彫るのは大変な痛みらしい。
大変な思いをして入れたのだけど、歳をとって体が弛んできたら…維持が大変なのだと話した。(刺青を入れた後の老後の話など、それまで考えたことも無かったワタシ。)消したいと思うこともあるけれど、消すのも大変なのだと話していた。

彼は、長時間居座った。
母が勧めるお菓子や飲み物を遠慮することもなく。
翌日も彼はやってきた。話のネタは前日と変わらず。トラックと刺青。
そして3日目も彼はやってきた。

はじめはうれしかった面会が、3日目になると苦痛になっていた。
となりのお兄さん(遊びに来ても面会者がいるとすぐ帰ってしまう。)や、談話室の他の患者さんとも話したかった。
連日の長時間の面会に、わたしも母も疲れていた。
母が、少し面会の頻度を控えて欲しいと伝え、それから彼は来なくなった。


骨折の経過は順調だった。
「若いから治りも早いのね。」と、皆に言われた。
(ギプスで固定された右肘が固まっていて、リハビリは必要だったけど。)ほどなく退院許可が下りて、夏の終わりとともに、入院生活も終わった。

交通事故で搬送された老人病院の話



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