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定時制高校から世の中を見てみたら:定時制から考える、学校の果たすべき役割(藤井健人)

〔編集部〕不登校児童・生徒が約30万人います。小学校、中学校の先生方、不登校だった子がどんな進路を選んでいるか、そこがどんな場なのか、ご存じでしょうか。今、学びのセーフティネットと位置づけられている場所の一つが、定時制高校です。実際に小・中と不登校を経験し、定時制高校を卒業して早稲田大学・東京大学大学院に進学、そして定時制高校教員を経て今年度から文科省職員になった方がいます。藤井健人さん。ですが藤井さんは、私の経歴は「美談でもサクセスストーリーでもない」とおっしゃいます。ただ、「普通になりたかった」と。お話をうかがいました。

定時制への進学

――定時制高校で、学校生活はいかがでしたか。

小5から中学校を卒業するまでの5年間にわたる不登校を経て、私は定時制である埼玉県立戸田翔陽高校のⅢ部(夜間部)に進学しました。この学校は多部制の定時制で、朝のⅠ部・昼のⅡ部もあります。私は普通の高校生と同じような生活を送りたいと考えていたので本当はⅠ部かⅡ部に進学したかったのですが、どちらも倍率が1倍を超えていたせいで諦め、定員割れを起こしていたⅢ部を選びました。

高校は義務教育ではなく、出席日数や成績が及ばなければ留年や退学があり得ます。そんなことになったら本当に後がないと思っていたため、入学当初は学校に行こうとするだけで体調不良が頻発していましたが、どんなに具合が悪くても学校には通い続け、勉強も小学校4年生からのふり返りを並行しながら、授業の予習・復習を重ねていました。
このような生活を続けた結果、最終的には皆勤で卒業し、成績も体育以外はオール5となりましたが、これはけっして心機一転してがんばろうというポジティブな動機ではなく、そうしないと高校に通い続けることができなくなるという強迫観念のほうがはるかに強かったです。

夜間定時制の需要

――定時制の卒業生として、また大学院で定時制について研究され、さらに定時制の教員としてお務めになったご経験から、定時制のあり方についてもお考えがおありだそうですね。

はい。私は日本の定時制のあり方について、卒業生の立場からも教員の立場からも、全定併置を基本とした夜間の形態をとる必要はすでに存在しないと考えています。
さまざまな理由で定時制に通う生徒を包摂するにあたって、フルタイムで働くことが前提とされなくなった現状では、生徒の登校を17時まで待たせる積極的なメリットは薄くなったと言えます。
また、全定併置校の場合卒業に4年間かかるのが一般的ですが、全日制と比べて1年多い学びの時間が生徒の学習や進路の形成のために有意義な時間になり得ているのかと言えば、実情はただのモラトリアムになっていると言わざるを得ません。
埼玉県では、定時制高校で倍率が1倍を超えているのは3年で卒業が可能な単位制単独校の朝・昼間部だけであり、全定併置型の夜間定時制はすべて定員割れを起こしています。

多部制定時制は複数の夜間定時制が統廃合されて設立された経緯がありますが、定時制の再編整備計画は埼玉県に限らず全国的に見られた動きです。その際には反対運動も多数行われ、「夜間定時制に需要のある生徒の学びの場を奪うな」といった批判が行われてきました。
しかし、夜間定時制の需要という主張が何を指しているのかについて、私は一当事者の立場から疑問がありました。なぜなら倍率の低さは夜間定時制が生徒のニーズを適切に満たせていないためではないのかと思っていたからです。
その疑問をきっかけにして、私は東大院で修士論文を提出した際に、教育行政上の観点から埼玉県における定時制統廃合の過程を分析し、統廃合を推進する行政側と反対側のどちらの主張がより適切に定時制の生徒の需要を満たしているのかを分析しました。定時制の生徒の語りに注目した結果、先行研究では行政側が経済効率を優先して統廃合を行ったと批判されていたのとは異なり、生徒のニーズにより接近していたのは行政側であった事実を指摘しました。このような指摘を行った先行研究は管見の限り私以前には見当たりませんでした。

もう一つの思い出として、当時、朝や昼間部の倍率が1倍を超えて落ちる生徒が現れれば学びのセーフティネットとしての機能を果たせなくなると批判する指摘がありました。全日制にはその指摘が行われないのに定時制だけが学びのセーフティネットであることを当然のごとく要求されているのは序列化構造を肯定しているのと同じではないのかと思ったことを覚えています。

夜間中学校

定時制と関連性が深いものとして、今、全国的に夜間中学校の存在が話題にのぼっています。私は中学校3年間を全く通わないまま卒業を迎えたため、私にとっても他人事の話ではありません。文科省は夜間中学校の全国への設置拡大を政策として進めているため、文科省職員となった現在においては二重の意味で当事者性を有していると思っています。

埼玉県では2019年に公立で初の夜間中学校が開校し、2022年3月には初めての卒業生を輩出しました。卒業した第一期生のうち進学希望者の多くが夜間定時制へ流れていったことを踏まえると、構造的に連続性を持つ夜間定時制との関係は今後も結びつきを強めていくことが予想されます。
このことは夜間定時制が抱えている問題を夜間中学校も同様に背負っていく可能性を示唆しています。定時制に需要のある生徒を包摂するうえで、夜間定時制はそもそも夜間である必要がないことを何度も指摘してきました。夜間中学校が学びのセーフティネットであることを期待されているのであれば、夜間定時制と同様に、夜間中学校が夜間である必要はないと私は考えています。

学校の機能①:社会格差の是正

――藤井さんは、今日の社会において学校が果たす役割は何だとお考えでしょうか。

私は、学校が社会で果たすべき機能は二つあると思っています。一つ目は社会の格差を是正し階層間格差の拡大を食い止めることです。
教育社会学が提起してきた問題に従えば、学校は階層間格差を縮小するどころかむしろ拡大させる方向に機能している実態が指摘されています。それでも私は、社会移動を実現させることができるのも、学校と教育の力に待つべきものだと考えます。
ここで言う教育が必ずしも学校教育を指す必要はありませんが、質的にも量的にも最大の教育資源を持っているのが学校以外に存在しない以上は、学校教育に格差是正の機能を求めることは必然であると考えます。

この点からオルタナティブに位置づけられた定時制の存在を考えると、どうなるでしょうか。
勤労青少年のための学び場であった1960年代までは、まだ生徒に社会移動を促す場としての機能を定時制は有していました。しかし、全日制への進学率の急上昇に伴う生徒層の変容によって定時制は学びのセーフティネットに位置づけられていき、居場所機能を優先的に果たすことが求められた結果、社会移動を行う場としての機能を期待されることはなくなりました。
全日制を前提とした学歴秩序のなかで下層に位置づけられていったこと自体の問い直しは行われず、かといって学びのセーフティネットとしての役割を積極的に受容したうえで制度的な自己改革に努めることもなく、ただそうなってしまった結果の上に今の定時制の現実が成り立っていることはすでに触れたとおりです。

私は定時制の夜間部を卒業して大学に進学しましたが、自分の同期の半分は卒業までに消えていき、残った半分のなかで4年制大学への進学を希望したものはほとんどいませんでした。
進学を希望したとしても、大学への指定校推薦は過去の合格実績に基づいて大学から与えられるのが一般的で、ある程度レベルの高い大学からの指定校は皆無で、学力的な積み重ねも伴わないためAOや自己推薦入試に流れていくのが定時制の進学形態の特徴です。
社会移動とは、自分が今いる階層から別の階層に移動することを指すため、定時制から手の届く範囲にある選択肢を選んでも、それは階層の平行移動に過ぎず、ひいては階層の再生産にしかならないのではないかと私は考えていました。
定時制に入学してからの私が意識していたのは、両親が二人とも障害を背負っているためこの先も働ける見込みがなく、定時制を卒業してすぐに就職しても家族と自分の運命が好転することはけっしてないという実感でした。であれば時間的・金銭的なリスクを背負ってでも、社会的評価の伴う大学に入ってから就職するほうが、私にとって最も合理的な生存戦略になると思ったのです。

私の母校の先生方は、私が大学に進学したいと言ったときに応援してくれました。ですがレベルの高い大学を目標にしていることを伝えると、暗に自分の実力を考えろと諭されました。このことは、定時制が生徒に上昇的な社会移動を期待しておらず、階層の再生産を強化させていると感じさせた原体験の一つでした。
学校が格差の是正という機能を果たしていくためには、教員自身がこの機能を自覚している必要があります。そのためには、教員養成課程や学校現場で実施される研修において、教育社会学の知見を広く全体で共有するしかありません。
不登校問題だけでなく、日本の学校現場では生徒が抱える問題への認識と対応枠組みが心理主義に偏っていると言うことができます。むろん、ここで私が指摘したいのは心理的対応自体の問題ではなく、社会的要因への視座が欠けていることの問題です。
大学における教員養成課程では教育心理学が必修となっていますが、教育社会学は選択必修止まりです。結果として、教職課程を履修する者は心理的対応への親和性を宿すことにはなっても、教育社会学が提起する格差といった概念にはなじみを持たないまま教壇に立っていくことになります。この枠組みは教育行政にも引き継がれ、不登校対策にあたっても心理的対応の充実という面だけが強調される傾向を全国的に生み出してきたと言えるのではないでしょうか。

私が埼玉県の教員採用試験を受けたときにも、教職教養の出題区分には教育心理が必ず含まれているのに、翻って教育社会学はそもそも領域にさえ含まれておらず、管見の限り教育社会学を採用試験の段階で問う自治体は見たことがありません。教員採用試験において教育と格差の結びつきを問わないということは、採用側が教員にその認識は不要だというメッセージを発信しているのに等しいと言えます。
今では学校は「貧困対策のプラットフォーム」としての位置づけまで与えられていることを踏まえれば、貧困や格差を扱う教育社会学の位置づけは、最低でも現在の教育心理学に与えられているものと同等の水準であってしかるべきだと考えます。

学校の機能②:社会の形成者の育成

学校が果たすべき二つ目の機能は、社会の形成者を育成することです。
義務教育の義務とは保護者がその子に教育を受けさせる義務であって、子どもが学校に行かなければならない義務ではないという主張が、私が不登校だった頃から今でもくり返されています。

それでは、そもそも日本社会において義務教育は何のために行われ、保護者は何のためにこの義務を背負っているのでしょうか。それは、義務教育が民主主義体制の維持と表裏一体の関係にあるからです。民主主義は主権者である国民一人ひとりが社会を担う責任を有する以上、市民としての自覚と能力の涵養が必然的に要請されることになります。教育が私事に委ねられず公教育として成立している理由は、日本が民主主義体制をとっているからであり、公教育として行われる義務教育の目的は、個人の利益のためだけに行われているのではなく、社会の形成者を育成し民主主義体制を維持するためでもあるのです。
学習権の所在は学習者本人に帰するにしても、何をどう学ぶかを決定する教育権は民主主義の維持を合意する社会の側にあり、そのもとに義務教育が成り立っています。しかしながら、この指摘は不登校の現場において全くと言っていいほど聞いたことがありません。

私には、教育の目的を確認することなく使われる「ありのままの自分」という言葉が、不登校生に対してこの社会の形成者の一員に加わることを最初から期待などしていないように感じられ、不登校生を包摂しているふうを装いながら、実際には社会から排除しているようにしか聞こえないのです。

「自分の周りに定時制を卒業した者がいるか」

――そんな問題意識をお持ちだったなかで、定時制の教員だったとき、生徒さんにはどんなお話をされていましたか。

私が東大院を卒業して定時制の教壇に立ったとき、私が生徒と接する際に唯一意識して行っていたことは、自分が今まで経験して感じてきたことを私自身の言葉で伝えるということでした。
卒業生数名を招いて在校生向けの進路講話を行った際、私からも卒業生に質問を行いました。進学・就職どちらにおいても、今自分の周りに自分以外で定時制を卒業した人間はいるか、と。在校生も含めて全体が若干の沈黙に包まれた後、卒業生たちはお互いに顔を見合わせながら、一人ずつ、そして全員が「いない」と答えました。その瞬間を在校生は真剣に聞いていたと思います。

卒業生の言葉をどう受け止め、どう理解するかは生徒それぞれの問題であり、私が口を出すことではありません。
今年の4月に離任式があり、かかわった生徒たちにお別れを言うために勤務校に戻りました。あのとき卒業生が発した「いない」という答えは私にとっても同じだということを最後に告げて、4年間にわたる教員生活は幕を閉じました。

なぜ、定時制に注目し続けるのか

私は人生の大部分を不登校や定時制の問題にかかわってきましたが、自分の経歴を踏まえてマイノリティの代弁者になろうと思ったことは一度もありません。 
全日制の生徒に対する定時制の生徒の割合は約3%に過ぎません。教育現場が抱えている問題はけっして定時制に限定されたものではないのに、なぜあなたは残りの97%の問題には注意を向けないのかと問われたら、私は何と答えるべきでしょうか。3%に注目し続ける理由を正当化し得る根拠はあるのでしょうか。

私はこの問題を自らに問い続けてきましたが、得られた結論は「正当化し得ない」ということです。この自覚にどう向き合い続けていくかを、これからも吟味していきたいと思っています。


※本インタビュー記事の「前編」は月刊『教職研修』23年12月号に掲載しております。ぜひ併せてご覧(ご購入)ください。

校長先生、教頭先生とその志望者の先生に支えられている専門誌です。一般の方にも読みやすい、おもしろい切り口と、うれしいご感想をいただいております。


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