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洛中洛外を(もっかい)(一人で)歩く 路傍の石仏・後編

 2009年4月から1年間、京都新聞市民版で連載した「中村武生さんとあるく洛中洛外」。京都在住の歴史地理史学者の中村武生さんが、京都のまちに残る秘められた歴史の痕跡を紹介する内容だった。連載当時、中村さんと京都のまちを歩いた担当記者が、今度は一人でもう一度、興味のむくままに歩いてみた。

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その肆 洛中に出現した石仏群の話・後編

 京都市中京区のビルのはざまの一画に、真新しい基壇にまつられた30数体の石仏群がある。四条通に面した複合ビルを建設する際、同敷地内にまつられていた石仏を、彌榮自動車が新たにまつりなおしたものだということが、わかった。同社内には「焼け焦げたようなものもあることから、『本能寺の変』で焼けた仏様では」という話も伝わっていたという。江戸時代までは、久留米藩の京屋敷だった場所。果たして、石仏たちの由来は。どの時代のものなのか。

本紙のこの記事をより詳しく紹介しています。

 さて、やっぱり石仏がどの時代に彫られたものかを、ある程度は突き止めねばならないという思いに至った。しかし筆者には、石仏に詳しい人が身近にいない。普通は、そんな人、身近にはいないものだ。なので、もう一度、京都市文化財保護課に電話してみた。「埋蔵文化財に関わっておられる方って、石仏を見ただけで年代の推定とか可能なものなのでしょうか」。我ながら、なんとも失礼な問い合わせだ。にもかかわらず、調べてみてくださるという。ありがたい。早速、メールに石仏の画像を添付して送信した。

ついに石仏たちの正体が…

 メールを送信して、数時間もしないうちに筆者のスマホが震えた。電話をくれたのは京都市文化財保護課のAさん。石仏にお詳しい方のようだ。Aさんが言うには「画像に写る石仏の多くは、阿弥陀如来坐像ですね。『浄土信仰』の広がりによって、貴族にも町衆の間にも浸透していました。いまでも、街中のほこらなどにまつられているのを目にすることができます」という。

 「浄土信仰」についてかいつまんで説明しなければならない。浄土とは、阿弥陀如来の住む西方極楽浄土のこと。自分が死んだときに極楽に行けるように、その極楽を統べる阿弥陀様を拝む、というのが非常にざっくりとした内容だ。日本国内では、仏教が衰退する時代に入るとされた「末法」にあたる平安時代末ごろから広がり、京でも貴族から庶民に至るまで信仰があったという。有名なところでは、藤原頼通が寺院とした、宇治にある平等院鳳凰堂。もとは貴族の別荘であったものを浄土信仰に伴って、寺院となり鳳凰堂はその阿弥陀堂だ。

雪の日の平等院鳳凰堂

 「掘られた時代に関してですが、これはひとつに絞ることはできません。例えば、鎌倉期の特徴を持つものもありますし、江戸期の特徴のものも…」鎌倉時代? 心臓がドクンと鳴ったのを感じた。「そうですね。中世の石仏は彫り方が深いのです。後世になるにしたがって、彫りが浅くなる。そうした中世の特徴をもったものが複数あります」とAさん。

果たして本能寺との関連は…

 焼けたものについてはどうなのだろう。本能寺の変とのつながりについては…。Aさんは続ける。「石仏の多くは花こう岩です。おそらく白川のものでしょう。白川の花こう岩は割れやすく変質しやすいのが特徴です。土中に埋まっているうちに、鉄分などと反応して黒くなり、焼け焦げたように見えるものもあります」。だから「黒いイコール焼けた」と結びつけるのは難しいという。さらに「本能寺の変に限らず、京の街は数々の戦火や大火に見舞われています。そこの特定は困難でしょう」という。なるほど。納得だ。

 「京都市内に石仏はそれこそ、無数にあります。各町内のほこらもそうですし、化野念仏寺(京都市右京区)なども有名ですよね。今でも、住宅開発などで石仏が出てくることは珍しいことではありません」(Aさん)。では、30数体もまとまって見つかるというのはよくあることなのだろうか。「埋設された状況が不明ですが、それは珍しいことだと思います」との回答を得た。

石仏たちはこちらにおられます

地域の記憶を引き継ぐ作業

 なんだかとてもすっきりした。最後にひとつ質問した。そうした民衆の信仰を得た石仏が、開かれた形でお参りできるのは理にかなっているということだろうか。Aさんは「その通りだと思います。まさに町衆が大切にしてきた浄土信仰に沿っていると思います」と答えてくれた。この取材を始めてよかった。そんな気分になった。

 取材の成果を彌榮自動車のK次長に伝えることにした。「なるほど。ありがとうございます。ちょっと感動しています」。筆者と同じ思いだった。同社は祇園祭では複数の山鉾町に事業所を構え、祭にも積極的にかかわるいわば「町衆企業」だ。「こうした取り組みを通じて、町衆のスピリットを引き継いでいけたらよいですね」と感慨深げだった。

たかが石仏、されど石仏

 先日、上記リンクの記事が本紙に掲載された。三条大橋のたもとに置かれている石仏が所有者不明のため、撤去されるかもしれないという。なんだかとても悲しい気分になった。それぞれの事情はあろう。だが、なんとかできなかったのか。撤去された石仏はどこに行くのか? まさか府の施設の石垣に? そんなはずはないだろうが、それでも新たな設置場所を検討することはできなかったのだろうか。

 結局、府は物議を醸した張り紙の文言を修正し、石仏は近くの瑞泉寺に引き取られることになった。一件落着、と言いたいところだが、果たしてそう簡単に言えるのだろうか。

この石仏たちは大事にされているのですね

 たかが路傍の石仏かもしれない。だが一方で、地域の人の思いが込められていることに変わりはない。単なる放置物として割り切ってしまうことで、人々の引き継いだ思いを断ち切ることになりはしないだろうか。文化財的な価値を問うのも物差しの一つかもしれないが、一方で、路傍の石仏やお地蔵様にはそこにあり、人々が参拝してきたというもうひとつの事実がある。とりわけ、京都のような歴史都市には、そうした考え方も大きな意味合いを持つと思う。街の歴史に息づく人々の思いをどう伝えるか。もう少し、考えてみたい。


佐藤知幸


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