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皆さん初めまして。
リアルゼミの運営をさせて頂いております、京都大学文学部3回生のピースと申します。今回は御挨拶も兼ねて私の自己紹介とこのゼミを通して最近考え始めたことについて書いてみたいと思います。
どうかお付き合いください。

見えにくい? / 見えない?

私は生まれつきの視覚障害があり、小さい頃は弱視で、今はもう全盲になった。いつからというのをよく聞かれるのだが、徐々に視力が落ちていったので、自分自身いつ全く見えなくなったのか分かっていない。

自分でも不思議なのだが、視力が落ちていくに連れて、目を使わない生活に移行していくので、視力を完全に失ったときには明るさをかろうじて感じ取れる程度の視力がいつまで残っているかということは、自分自身どうでも良かったのだと思う。

どんどん視力が落ちていって、不安はなかったかという質問もよくされるのだが、正直あまり記憶がない。もちろん不安はずっとあったし、今でも見えないことに不安や恐怖を覚えることはあるのだが、見えにくいのを無理して見ようとするのもけっこうしんどいことで、無理して見なくても良い生活スタイルに切り替えていく中で、楽になっていった部分も大きい。

文字を10倍に拡大して映した画面に鼻がくっつくくらいに顔を近付けて読むことを想像してもらえば、その大変さもなんとなく理解してもらえるだろうか。

一般校? / 支援校?

さて、小学校に入学するときはまだそれなりに見えていたこともあり、両親は私を支援学校ではなく近所の一般校に通わせてくれた。
結局その流れで中学、高校、大学と一般校を進み、現在に至っている。

支援学校ライフをほとんど知らないので、ちゃんと比較できるわけではないのだが、私は一般校に通い続けて良かったと思っている(今更後悔するより、良かったと思っている方が楽なので、そう思うようにしているところもある)。

特に高校時代は軽音部で活動をしたり、文化祭の委員をしたり、クラスメイトと研究発表したりと一生の思い出になるような経験もたくさん持てた。

一般校にいたということで、同じ校内にもう一人視覚障害者がいるというミラクルはさすがになく、ずっと自分一人だった。だから、自分のできないことを次々突きつけられる毎日で、おかげで負けん気がとても強くなった。

例えば、体育の授業で走り幅跳びをするにしても、調理実習で包丁を使うにしても、人一倍の勇気と、工夫と、周りの手助けが必要なのだ。計算をするのも、本を読むのも、体育祭のパフォーマンスのふりを覚えるのも、誰よりも時間がかかる。

中学のころ、入りたかった吹奏楽部への入部に学校側から猛反対されて、母親と泣きながら帰ったこともある。それでも、自分の障害を言い訳にしたくはなかった。そこには、それを言い訳にしてしまったら何もできなくなるのではないかという恐れもあっただろうし、単純にかっこつけたかっただけだというのもあるだろう。

「見えなくて大変なことはあるけど、みんながやってることは全部やって、あわよくばそれ以上のことをやってのけて、見返してやるんだ。」そんな物語の主人公みたいな思考回路でここまで来たように思う。

この考え方、体力的にはとても疲れるのだが、頑張らざるを得なくなるからそれなりに成果が付いてくるし、周りからの評価も自己肯定感も上がるから、精神的にはなんだかんだ楽だったりする。

今回は障害者のリアルに迫るゼミということで、視覚障害に関することをメインに自己紹介を書いてみたが、校内で自分一人だけという環境に居続けると、特別扱いされることに飽き飽きしてくるので、普段は歌が好きとか、しゃべるのが好きとか、負けず嫌いとか、そういうことをメインに話して、「視覚障害者のピース」というイメージを相手に与えないように心がけている。

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当事者?/ 健常者?

さて、自己紹介はこの辺にして、私が最近ゼミに関わる中で考え始めたことを書いてみようと思う。
私は今の京大リアルゼミのメンバーの中では、一番当時者性の強い人になるだろう。このゼミに参加しようと思ったのも、「自分が当事者だから」というのもあったし、今でもどこかに当事者として参加しているという感覚はある。

しかし、これまで運営に関わりながらゲスト講師のお話を聞いていて、自分といわゆる健常者との境界が曖昧になっていく感覚があった。医師からの診断という意味でも、日々感じる生きづらさという意味でも、私の当事者性のほとんどは視覚障害という言葉で語られるものだ。

だから、聴覚障害や、自閉症の講師の方のお話を聞いているときは、別の障害を持つ当事者というよりも、健常者として聞いている感覚になった。それでも、全てが自分の知らない世界や、経験のない感覚の話ばかりではない。

どの回にも、講師の方に共感する瞬間というのは必ずあった。
ところが、そのような共感を覚えているのは、自分だけではなかった。周りの受講生や他の運営メンバーの感想を読んだり聞いたりすると、自分が感じていたことに非常に近い内容のものがしばしばあるのである。

つまり、私がゲスト講師に共感したのは、障害種は違うにしても、障害当事者であるという共通点があるからというだけでは説明しきれないようだ。

これまでの生活の中でも、健常者の人と同じ考えを持ったり、同じ感覚になったりすることはよくあった。
しかし、それは、障害というテーマを掘り下げているときでさえ自然に起こることだというのは驚きであった。少し大げさかもしれないが、リアルゼミという場で、当事者性の強い私と、周りから健常者と思われ、おそらく本人も健常者だと自覚しているであろう人との境界がなくなっているような感覚になる。

障害当事者/健常者という分け方はよくなされる。
当然そのような分け方が有効な場合は多いと思う。しかし、どの場合にも当事者側に入る人、いつでも健常者に含まれる人というのはいないのではないだろうか。

これまで私は視覚障害という自分の特性をある程度受容し、当事者として生きてきた。そしてそれはこれからも変わらないだろう。

しかし、私の中の当事者という言葉は、今揺らいでいる。

これからのリアルゼミの活動を通して、この疑問に対する自分なりの納得解を求めて、考えを深めていきたい。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

花房君③

(photo by 髙木佑透)

次回は7月22日(水)投稿予定です。
他大から参加してくれている19歳の若いメンバーの自己紹介をお届けします。読み始めたら止まらなくなる文章になっているので、乞うご期待!!


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