相談委員長の考えごと第6回

相談委員長の考えごと 第6回~自分を傷つける意味~

私たちは、NPO法人京都自死・自殺相談センター Sottoです。
京都で「死にたいくらいつらい気持ちを持つ方の心の居場所づくり」をミッションとして掲げ活動しています。
HP: http://www.kyoto-jsc.jp/

Sottoが行っている活動は幅広く、根幹となる電話・メールによる相談受付に加え、対面の場での居場所づくり活動、広報・発信活動などがあります。
各活動は委員会ごとに別れ、日々の活動を行っています。
今回から、電話相談を担当する「相談委員会」の委員長である「ねこ」さん(もちろんあだ名です)の、Sottoの活動を通して考えることを月刊連載としてお届けします。

Sottoの立ち上げ当初から活動に関わり、Sottoの文化を形づくることに貢献し、現在は電話相談ボランティアの養成を担当しているねこさん。
そんな立場から、Sottoの活動や、死にたいという気持ち、人の話を聞くということなど、様々なことについて考えることを語ってもらいます。
この連載が、読んでくださる皆さんにとって新しい気づきを得たり、死にたいくらいつらい気持ちについて理解を深めたりするような、そんなきっかけになれば幸いです。

第1回はコチラ→相談委員長の考えごと 第1回~死にたい気持ちについて~
前回はコチラ→相談委員長の考えごと 第5回~Sottoさんであるために~

相談委員長の考えごと 第6回~自分を傷つける意味~

 生きていれば誰だって悩みの1つや2つはあるでしょうし、悩みの尽きることはありません。
嫌なことで頭がいっぱいなとき、思考を止めて楽になりたいと願う気持ちは当然あるかと思いますが、不安や心配事ほど考えずにいられないものです。最悪の事態を想定することで精神的に予防線を張るという、一種の自衛行動なのかもしれませんが、それ自体に疲弊し参ってしまうというのもよくあることです。
しかし思い詰めずにいられている間は、つまり、何らかの工夫が功を奏し発散することができているということだとも思います。

 注射針が怖くて耐えられないときに、腕や足をつねって気を紛らわせたことがないでしょうか。
針自体の痛みは余程のことがない限り大したものではないものの、その直前の恐怖が頭の中で苦痛を何倍にも膨らませるのです。
しかし、体をつねるなどわかりやすく痛みを作り出し気をそらすことで、あたかもその恐怖や苦痛が消えたかのように錯覚することができます。
それが大きければ大きいほど楽になったようにすら思えることでしょう。
もともと無いものを無いと認識するだけのはずなのに、そこにカタルシスのようなものを感じるのです。

単に「錯覚する」ではなく、「錯覚することができる」としたのも、頭でわかっていてもどうにもできない部分に対処できるという学習が得られるところがポイントだと考えます。
無自覚な場合もありますが、いわゆるリストカットやオーバードーズなどの自傷行為は、頭の中で無限に膨らみ続ける苦悩を、リセットないし保留することができる特別な手段なのかもしれません。
しかしそういった事情に疎いと、傍からはただただ気味が悪くも見えるでしょうし、理解し難いことかとも思います。だからそれを禁止したり取り上げたりしがちですが、自衛手段の1つを奪われているのかと考えると酷な話です。

 もっと身近で考えると、痛みに限らずとも、何らかの刺激や、普段選択しないような非日常に身を投じることによって気分転換を図るようなことは意外とあるのではないでしょうか。
激辛のものを食べるとか、コーヒーに砂糖を6ついれるとか、夜中にジャンキーな食事をするとか、朝までカラオケにいくとか。単純に楽しんでいる場合は少し違うかもしれませんが、嫌なことを忘れるためにちょっと悪いことしちゃったかもくらいのことは、広い意味での自傷と言えなくもありません。

つい先日の話ですが、電話相談の当番帰り夜中3時に寄り道をして、千本鳥居で有名な伏見稲荷に1人で登ったことがあります。
お参りしたことがある方はご存知でしょうが軽い登山のレベルで、とても夜中にいくようなところではありません。
しかし息を切らしながら望んだ京都の夜景にはいろんなことから解放されたようにも感じました。
私の場合はこういう夜遊びの類が多いですが、一見おかしなことをすることに言い知れぬ高揚があったことを告白します。朝までゲームをしたりシリーズ動画を一気に観るなんてこともよくします。

伏見稲荷

▲午前3時の伏見稲荷。妖しく鳥居の朱色が反射しています。 撮影:ねこ

 別に相談を受けるのがストレスでその発散をしにいったという話ではないのですが、普段の生活を含めて、何らかのバランスを取っているのかもしれません。
それをもし非常識だとか何とか理由をつけて取り上げられたらと思うと、とても平気ではいられないでしょうし、それを埋められる別の何かを求めるかと思います。
しかしその人が時間をかけてたどり着いた最適解の1つであれば、そうそう代替手段は見つからないでしょう。
そうなるとまあ、怒られないように隠れてするようになるだけですよね。

相談委員長 ねこ

つづき⇒第7回「先生ではないけど、専門家?
マガジントップ「相談委員長の考えごと

Sottoのボランティアの一人が、自身にとっての「自分を傷つける意味」を語ってくれました。
あなたにとって共感できるところはあるでしょうか?

~とあるSottoボランティアの「自分を傷つける意味」~


 私は激辛料理と煙草が好きです。去年、「激辛ぺヤング MAX END」というぺヤングの中で最上級の辛さを誇るぺヤングが期間限定で販売されていたのですが、これに大いにハマってしまい、午前5時に寝ぼけながら食べたり、途中水を一切飲まずに食べるという縛りプレイをあえてやったりしていました。(当時は相当暇だったんでしょうね)
煙草も、一時期は禁煙していたのですが、数年前に復煙(造語です)して以来、やっぱり日常的に吸ってしまっています。

 激辛ペヤングを食べることも喫煙することも、自分にとっては趣味の一種であり個人的な嗜好です。
しかし、どうやら私はそうした行為を通じて自分を緩やかに傷つけていて、また、心のどこかでささやかに傷つくのを望んでいるのではないかと最近思うようになりました。
目の前に悩みや不安があって、その度合いが強いほどに激辛料理を無性に食べたくなったり、紙煙草(IQOSでなく)を吸いたくなることを自覚したのです。
それに、そういう気分の時に激辛料理を食べたり煙草を吸っても、いつもみたいにおいしくなくて、むしろ不快ですらあるのに、どうしてもやりたくなる。
そもそも激辛料理は健康に良いとはとても思えないし、煙草は吸い続ける限り健康もお金も損なっていくものです。

 でも、こうやって一見非合理的な行動を取り続ける自分の、その人間臭さが、我ながら嫌いじゃなく。
私は、自分を傷つけることを通じて自分の中にある自己破壊的な欲望に気づきました。
そして世の中を見てみると、美しいアート作品や、私の好きな人たちの中に、私が抱える矛盾と少し似たものが見えたりもします。私だけじゃない、と感じます。
このように得られた視点は、私にとっての「自分を傷つける意味」と言えるのかもしれません。

Sottoのとあるボランティア

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