相談委員長の考えごと第4回

相談委員長の考えごと 第4回~話すということ~

私たちは、NPO法人京都自死・自殺相談センター Sottoです。
京都で「死にたいくらいつらい気持ちを持つ方の心の居場所づくり」をミッションとして掲げ活動しています。
HP: http://www.kyoto-jsc.jp/

Sottoが行っている活動は幅広く、根幹となる電話・メールによる相談受付に加え、対面の場での居場所づくり活動、広報・発信活動などがあります。
各活動は委員会ごとに別れ、日々の活動を行っています。
今回から、電話相談を担当する「相談委員会」の委員長である「ねこ」さん(もちろんあだ名です)の、Sottoの活動を通して考えることを月刊連載としてお届けします。

Sottoの立ち上げ当初から活動に関わり、Sottoの文化を形づくることに貢献し、現在は電話相談ボランティアの養成を担当しているねこさん。
そんな立場から、Sottoの活動や、死にたいという気持ち、人の話を聞くということなど、様々なことについて考えることを語ってもらいます。
この連載が、読んでくださる皆さんにとって新しい気づきを得たり、死にたいくらいつらい気持ちについて理解を深めたりするような、そんなきっかけになれば幸いです。

第1回はコチラ→相談委員長の考えごと 第1回~死にたい気持ちについて~
前回はコチラ→相談委員長の考えごと 第3回~ききかた、とは~

第4回~話すということ~

 普段、あなたが人に話をする場面を想像してください。

──ねえねえ、きいて

こんなことがあってねと、当然、事情の説明をすることかと思います。
内容によっては相手を選んだりするでしょうし、そこには相手を楽しませたい気持ちもあれば、話してもわかってくれないんじゃないかという不安もあるかもしれません。

しかし、一通りのことを伝えてなおもやもやが残るということがあります。前提として、どんなときに人に話したくなるか、話さずにいられないかということを考えると、何らかのショックや感動、少なからず「あっ」と思ったことを誰かに伝えようとするのではないでしょうか。
無意識だったり、最後まで言葉にはしなかったとしても、突き詰めて考えると、「こんなことがあって、こんな気持ちになったよ」ということをわかってほしいはずです。
それも、どんな風に、どのくらい、そういう気持ちになったのかということを。

 だから、仮に相手が話につきあってくれて、とりあえず何があったのかは理解してくれたとしても、肝心要の、こんな気持ちになったよ、という感情が伝わらなかったときに、もやもやしたり、「どう思った?」と感想を求めずにいられないのです。

自分が話すときの気持ちを思うと、わからなくもない感覚でも、いざ自分が話を聞く立場だったらどうでしょう。
世間話でも同じことなのですが、それがもし相談事であれば、あなたは自分の役割やその重きをどこにおくでしょうか。
状況整理、問題解決のための一助、むしろ肩代わりでしょうか、緊張もしますね。

きっと、まずは事情の把握に努めるでしょう。
理由を聞かないと話にならないと思いますものね。そして事実関係の確認をするかもしれません。
その主張がまっとうなものかどうか。
事の全容がみえてくると、自分の経験や価値観と照らし合わせて、相手の欠点の指摘に、最適解と思えるアドバイスをするでしょうか。

後々には現実問題をどうこうする必要もでてくるかもしれませんが、先に想像したように、話をする側の立場で発想すると、まず伝えたいことの一番大事な部分は、その体験を通じてどんな気持ちになったかという、「あっ」の部分です。

こんなに嬉しかった!
こんなに腹が立った!
悔しい!許せない!etc.

 どんな気持ちを、どれだけ感じたかを伝えるために、事情を話すわけなのですが、話を聞く立場になるとそれが全部すっぽぬけて、状況把握に注力することこそ話を聞くこと、問題解決に導くことこそ自分の役割だと、履き違えがちです。
結論的な感情の部分を話さない人も多いですが、潜在的に、わかってほしい、汲み取ってほしい部分は変わりません。

話を聞いてくれない、相談してもわかってもらえなかった、(もっと言うと)だれも助けてくれない、、という訴えの内実は、わかってほしい気持ちをわかってもらえない、受け取ってもらえなかったということなのです。
事実、その話し相手にしても、窓口の係員にしても、時間や労力を割いたということに変わりはないはずなのに、話すんじゃなかったと役立たず呼ばわりなことがあります。これではお互いに不幸です。

しかしそれはある意味、求められていることに対して無頓着であることが招いているのかもしれません。
逆に言えば、わかってほしい部分をわかろうとしてくれる相手は、たとえ親密でなくても信頼に足るということです。

 死ぬほど思いつめるようなことであればなおさら、その抱えきれなさを、まっすぐに受け止めてほしいものです。
視点を変えるだとか、まずは吐き出させるだとか、小手先の作為が透けるような対応をされようものなら、信じて打ち明けた気持ちを裏切られたようにすら感じるかもしれません。
話す以上はちゃんときいてほしいし、きいてもらえたかどうかは、すなわち、きちんと受け取ってもらえたかどうかです。
絶望の底にあればあるほど、親身になってもらえた感覚、それ自体が支えたりえます。
そうして初めて、話してよかったと、辛さや孤独のやわらぐような安心につながるのです。

つづき⇒第5回「Sottoさんであるために
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