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ニューロダイバーシティーからマイノリティーの問題を考える

Empire of Normality:
Neurodiversity and Capitalism

「正常性の帝国:ニューロダイバーシティーと資本主義」
by Robert Chapman
November 2023 (Pluto Press)

ニューロダイバーシティーである。
新しい言葉だ。
新しい概念だ。

例によってググってみると、すでにカタカナ表記で「ニューロダイバーシティー」と出てくる。

新しい言葉というのは、英語で初めに表された場合、それが日本語としてカタカナ表記になっているかどうか、なっているとしてそれが個人のブログでなのか、それとも研究者の論文なのか、あるいは公的機関のサイトの中なのか、そして検索ででてきた件数によって、普及度、信頼度を見極めていかなくてはならない。

今回はすでにカタカナ表記になっているし、しかもトップに出てくるのは経済産業省のサイトだ。これは一定程度の人たちにとってはすでに知られた言葉ということだ。

「ニューロダイバーシティの推進について」

ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)とは、Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)という2つの言葉が組み合わされて生まれた、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもあります。

経済産業省ホームページ「ニューロダイバーシティの推進について」より

ほかのサイトではこのように説明している。

ニューロダイバーシティ(Neurodiversity)とは、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)など、発達障害を神経や脳の違いによる「個性」だとする概念のこと。日本語では、「脳の多様性」あるいは「神経多様性」などと訳される。

神経学的少数派であるニューロマイノリティも、ジェンダー・人種・障害などと同じように、一つのカテゴリーとして尊重されるべきだという立場に立つものだ。企業や社会が脳の多様性を正しく理解し、当事者の特性が輝く社会の実現を目指す社会運動とも解されている。

IDEAS FOR GOOD 「ニューロダイバーシティとは?」より

従来は、知的障害、発達障害と言われ、「障害」とされたきたものを、それも脳の多様性、個としての特性、一つのカテゴリでしかないよ、その新しい考え方に新しい言葉を与えましょう、ということだろう。

考えてみればそりゃそうなのだ。私たちは自分の得意なもの、好きなものを仕事にしたいと思い、まあまあ向いていることをやっている(できていない人もいると思うが、少なくともほんとうはそうしたいと誰もが思っているよね)。だれも計算が苦手な人に経理をやらせようとは思わないし、対人恐怖症の人に営業をやらせようとは思わない。自分の特性を活かして生きていったほうが、その人のためにも社会のためにもなる。だれにだって苦手なことはある。それをどうこういってもしかたがない。むしろできないところは人に頼り、得意なことでだれかのためになれるような、そんな関係性が築ければ、それってとても幸せなことだと思う。

ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)といわれる人たちは、コミュニケーションや対人関係で困難を感じることは多いかもしれないが、一方で、高い集中力があったり、一つのことにのめりこみ、高度な専門性を獲得することにたけていたりする。その特性を活かし、伸ばしていく方向に、本人ではなく、周りが変わっていかないといけないということだと思う。

障がい者について、いつもどう接したらいいのか、ためらいがあった。障がい者の「障がい」の部分だけが前面にでてしまって、その人のほかの特性が見えなくなってしまうのだ。障がい者は障がい者であって、助けてあげるべき人、守ってあげるべき人、という固定化された見かたしか許されていなくて、そんな暗黙のルールに息苦しさを感じていた。そして、息苦しさを感じる自分に罪悪感を感じていた。

私が、いわゆる「障がい者」にたいして考えをあらためるきっかけとなった本がある。

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(文春文庫)というノンフィクションだ。

これは大泉洋さん主演で映画にもなったから、ご存知の方も多いだろう。
筋ジストロフィー症という、だんだん筋力が衰えていく難病患者の鹿野さんは、病院での入院生活をことわって、たくさんのボランティアの手を借り、一人暮らしを始める。人工呼吸器をつけているから痰が絡むと死んでしまうので、ひんぱんに痰の吸引をしてもらわないといけないし、指先が動くだけなので食べるのも、排せつも、寝返りですら人の手を借りないといけない。ボランティアは義務でもなんでもないので、気まぐれに辞めてしまう人もおり、鹿野さんはいつも人を探して電話をかけまくっている。まさに人の手を借りないと生きられない人が、人の手を借りまくって必死に生きているのだ。ボランティアに来る人も多種多様なのだが、なにより鹿野さんが全然人格者じゃなくて、ワガママいっぱい。ボランティアも聖人君子じゃやってられない。鹿野さんとなんどもいろんなことでぶつかっている。それでも鹿野さんのまわりにはいつも人がいる。とても不思議なノンフィクションだった。

私は、なるべく他人に迷惑をかけないように、なんでも自分でできるようになるのがいいと思っていたし、他人にもそうあってほしいと思っていた。だから、年をとって自分でできないことが増えていくのはイヤだし、そうなってまで生にしがみつくのはみっともないなぁと思っていた。「一人でも生きられる」が生きる基本だと思っていたのに、この本でそこのところをガンガン揺さぶられた。

他人に迷惑をかけない生き方が、はたして手放しでよいもの、と言えるのか。他人に迷惑をかけない、ということを突きつめていった先には、迷惑をかける人間は生きていてもしょうがない、という狭量で危険な思想に行きついてしまうのではないか。

そもそも、人は一人では生きていけない。人と関わらないと生きていけないのに、人に関わること=迷惑をかけることとかストレスを感じることと、マイナス面ばかり強調されるようにになってしまっているのはおかしい。もっと人と関わるプラス面を見ていってもいいのではないか。それが証拠に、鹿野さんとボランティアの人たちのつながりの、なんと濃密なことか。うっとおしいこともあるかもしれないが、人間関係が希薄な現代では、なんだかうらやましい。

さて、本書の話に戻ろう。

これは、ニューロダイバーシティーという考えが広まる前の世界では、なぜ「正常な」脳という神話が生まれたのか、その原因を資本主義社会に見いだし、資本主義を強化・発展させるために、「正常性」がいかに利用されていったかを歴史的に考察している。

資本主義社会では、生産性・効率性を上げるために、工場化、大量生産体制が奨励され、そのためには人も画一化したほうが効率としては一番成果が上がる。そんななかで、人と同じことができない人は「バグ」とみなされ、社会からふるい落とされていった。

社会がいかにマイノリティーを巧妙に隅に追いやってきたか。まるで生きづらいのは役にたたない自分のせい、とでもいうように。障がい者の方々は、長いあいだそう思いこまされてきた。もしくは異を唱えても聞いてもらえなかった。

岸政彦の『断片的なものの社会学』のなかに、次のような一節がある。

多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。
マイノリティは、「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しをされる。しかしマジョリティは、同じように「日本人」「ナイチャー」「健常者」「ヘテロ」であると指差され、ラベルを貼られ、名指しされることはない。
(中略)
一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。
そして、そのことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。

岸政彦『断片的なものの社会学』より

私はようやっと、「なにも考えなくてよい」身分が、いかにマイノリティーを隅に追いやっていたかに気づいた。それは本当に申し訳ないことだと思う。

でも一方で、私もラベルを貼られる側になることがある。そう考えると、「なにも考えなくてよい」マジョリティーでありながら、ある部分ではマイノリティーである、という人はじつは多いのではないか。

なにも問題を「だれにでもあること」というふうに平坦にして、なかったことにしたいというわけではない。むしろそういう考えにははっきり反対する。

ジェンダー問題で、女性が生きづらさを主張すると必ずと言っていいほど「男だって生きづらい」という反論が上がるが、あれには心底辟易する。

けれども、なんというかこの、マジョリティーでありながらマイノリティーでもある、そのグラデーションの程度が人によって違っていて、マイノリティーの度合いが強い人しかなにかを言ってはいけないような気になってしまうのってないだろうか。

ちょっと話がズレるかもしれないけど、3.11東日本大震災のあと、多くの被災者が「私よりもっと大変な目にあった人がいるから、私なんて」と言うのを耳にして、なにやらものすごくモヤモヤしたことを思い出す。その方式でいったら、一番被害のひどかった人しか弱音を吐いていいことにならなくなってしまうではないか。被害は、決して相対的に判断されるべきものではない。被害を受けた人のなかの絶対的な基準で判断していいものなのに、「世間」から見てどうなのか、他とくらべたらどうなのか、ということで、自分の苦しみを飲み込んでしまっている人がとても多いように思った。

だから、マイノリティーの人は、それが社会的に見てどうかということに関係なく、自分が苦しい、なんとかしたいと思ったら、声を上げていいのだと思う。というか、マイノリティーが、ためらうことなく声をあげられる社会にしていくのが、マジョリティーのせめてものつとめなのではないか。

なんだか話がどんどんズレていってしまったような。。

ところでニューロダイバーシティーであるが、そのような概念で、従来「障がい」とされてきた人たちを新しくとらえなおすのはとてもいいのだが、なんだか経済産業省が推進していることに一抹の不安を覚える。
それって、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)といわれる人たちのすぐれた能力を利用して、経済を活性化させようっていう、なんかまたしても人を資本主義の道具かなんかだと思って、「最大限効率的に利活用してやろう」みたいな魂胆なんじゃないの?
そこはくれぐれも変な方向に暴走しないよう、なにかしらのチェック機能を設けたほうがいい。だってそれって結局、「役に立つ人間ならこの世界にいていい」っていう考えから全然脱却してないってことじゃん。

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