「黒い私」と「病みの軌跡理論」

こんにちは、きょうこと申します。

今日は「黒い私」が溢れ出す日だと感じています。

↓ マイノリティの立場で、溢れ出す思いに蓋をしなければならない苦しみを歌った曲。よろしければBGMにお聴きください。


病気を辞めたい

なぜ私は病気なんだろう。それも根本的な治療法がない精神疾患。

自殺率は10%を超え、精神疾患の中でも特に高い部類に入る。それほど苦しい病気ということなのだろう。

有休をもらっても、通院でつぶれる。自分に合った医師のところに通い続けるためには、往復2時間の通院くらいは我慢しなければならない。それに加えて薬局(薬を受け取るまでに30分くらいかかることもある)。定期的にめんどくさすぎる市役所での手続き。休日なのに休日じゃない。

もちろん、休日をゆっくり過ごせる人ばかりではないことは理解している。仕事を持ち帰らされる人、家事や子育てや介護で忙しい人、リラックスできる家庭環境ではない人、お金がなく遊べない人など、色々な人がいる。

そういう人たちと自分を比べるつもりはない。どちらも大変、の一言で十分だと思う。

ただただ、病気じゃなかったら良かったのにと、発症から5年以上たった今でも思う。なぜ20代の時から毎月(多い時期は毎週)病院に通わないといけないのか。なぜ、休日にゆっくりすることも許されないのか。

闘病は無給の仕事だ、と言った人がいる。

「病みの軌跡理論」における「仕事」

看護学では有名な「病みの軌跡理論」という理論があり、慢性病者と家族が病気に対処しながら歩んでいく軌跡をモデル化している。

この理論の中心概念の一つが「慢性病者の仕事」だ。仕事は3つに分類されている。

①病の仕事

病気に直接関わること、つまり病院に通い続けること、治療を受けること、薬を飲み続けること、合併症を予防することなどが含まれる。

②日常生活の仕事

体調に合わせて活動量や職場での役割などを調整すること、病気を悪化させないよう日常生活に気を配ることなどが含まれる。病気のために休職・退職を余儀なくされる人もいる。

③生活史の仕事

病気によって将来の展望が変化してしまうと、生活史を編み直し、自分を新たに位置付ける必要性が生じる。また、病気に伴う様々な感情や自己像の変化と向き合うことも含まれる。

慢性病をもつ人は、これら3つの仕事を日々行っている。もちろん給料はない。福祉サービスを受けられることはあるけれど、そもそも健康なら必要のないものだ。もちろん税金を使わせていただいていることに感謝しているけれど。

これらの仕事をするにあたり、研修を受けたり、体系的にまとまった参考書を読んだりすることはできない。自ら助けを求め、試行錯誤しながら進んでいくしかない。助けを求める力を持たない人はどうすればいいのか、と思う。

「黒い私」との付き合い方

病気になんかなりたくなかった。楽になりたい。普通になりたい。そう叫ぶ「黒い私」とどう付き合っていけばいいのか、まだよくわからない。

でも、「黒い私」が溢れ出す日にすべきことは、こうして言語化してみたり、徹底的に休んだりすることなのかもしれない。昨日のつぶやきでも触れたように、mustを排除し、ただ心地良いと思うことをするしかないのかな、と思っている。

歌の練習、絵の練習、動画編集など、やらなければと思っていることはたくさんある。

でも、こんな日には勇気を出して休んでみようと思う。こうして宣言しておけば、少しは実践しやすくなるだろう。

また、「黒い私」が出てくるのは疲労のサインであると認識することも大切だと思っている。人によるかもしれないが、疲れというのは、かなり溜まってこないと自覚できないものだ。私のように持病がある場合、疲れたと感じた時にはもうほぼ赤信号と考えた方がいい。

ちなみに私の場合、疲労のサインには「イライラする」「日常動作が億劫」「ネガティブになる」「食欲が減退する、あるいは甘い物が無性に食べたくなる」「声が出にくくなる」「疑り深くなる」「身体がだるくなる」「寝つきや目覚めが悪くなる」「アップテンポの曲を聴く気がしなくなる」「部屋を片付けられない」など、様々なものがある。

「疲れた」という明確な感覚がなくても、何らかのサインに気付いて自分をいたわる。つい無理をしてしまいがちなので難しいけれど、少しずつ上手くなりたい。

愚痴を読んでくださり、ありがとうございました。 

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