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誕生から幼稚園時代

こんばんは、今日花です。

今日は生い立ちの一番始めの部分を書かせていただきます。
誕生から幼稚園時代ということで、0〜6才くらいまでかな。

1980年代の雪降る真冬。
第一子(長女)として生まれました。

夜泣きもおねしょも一度もしたことがない超優秀な赤ちゃんだったようです。
(その頃から気を遣ってたのかな…)

立ったり、喋ったり、発達は多分普通。

だけど虚弱体質で風邪等をよくひき、熱が42℃以上出たり、3才頃に肺炎で2度入院。
幼稚園も半分も行ってないくらい病弱で休んでいたようです。

両親の影響で音楽が好き。
家族で外出する時は必ず童謡のカセットテープの入った缶を持ち歩いていました。

3才で美空ひばりさんの「川の流れのように」に感動。
演歌歌手になるのが夢という、なんとも渋い子供でした笑

5才の時に弟が生まれ、6才でエレクトーンを習い始めます。

少食で背も小さく痩せ気味(幼稚園での並び順はいつも一番前)。
それを両親は心配してか、気持ち悪くてもう食べられないのに吐くまでご飯を無理矢理食べさせられることがしばしばありました。

全て食べないと父親から手を上げられることもあったし(跡が残る程ではないが)、夜に窓の外に締め出しをくらったり、電気もエアコンもない倉庫に閉じ込められることも。
もちろん幼い私はギャン泣きです。
(ほぼ毎日なので、今の時代だったら通報案件ですね…)

また、母親自身が嫌いな食べ物が多く、私には好き嫌いが無いようにしたかったよう。
母親自身は苦手なものを一切食べないくせに、私は苦手なものでも食べられないと…

次の食事、そこで食べられないと更に次の食事、そこでも食べられないと更に更に次の食事に冷蔵庫に保管されていた同じ食べ物が出ました。
苦手な上に時間が経過しているので食べ物も劣化してドンドン味も落ちるし干からびます。

調理方法を変える、見た目を変える(小さくする、可愛い・美味しそうな盛り付けをする等)等、私が食べやすいような工夫があれば、私も頑張って食べようという気持ちになったかもしれません。

いや、食べようとはしたけど反射的に受け付けなくて戻してたのよ(汚くてごめんなさい)。

うちの母はずっと同じ調理方法、見た目等で出し続け、私が食べやすいようにしてくれる工夫等は一切してくれませんでした。
盛り付けを美しそうにするとかも一切ありません。
可愛く動物やお花の形にするなんてこと、まずありえなかった。

食材の例を挙げると…
例えばピーマン。
私は生のピーマンは苦くて嫌いでしたが、火を通せば食べられました。
だけど火を通してくれなかった。
また同じ栄養素がある他の食べ物に置き換える工夫等も一切しなかった。

これらのことから私は食事に苦手意識が芽生え、食事の時間や食べることが嫌いになります。

また、いつからお留守番をしたか忘れましたが、3才頃には一人にされた記憶が…

弟が生まれてから、母親は弟の育児と祖父母の介護ばかりをし、私は放置されることや我慢させられることが多くなりました。

「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい!!」
という訳の分からない理由で、
嫌な思いをしてもいつも飲み込んでいました。

赤ちゃんだった弟が汚いところをベタベタ触った手であちこち触れたり、直接汚いものにあてたものを家中に置かれ、私はそれが嫌で嫌で仕方なかったのに、
「家族なんだから汚くない!!」
とこれまた訳の分からないことを言われ、
私の嫌な気持ちは一切聴いてもらえませんでした。

「家族だって汚いものは汚いよ!!!」
私の心の中でいつも響いていた言葉です。

そして6〜7才、小学生になった頃くらいから強迫症(強迫性障害)の片鱗が見え始めます。

次回、小学生時代。

ではでは、またね*˙︶˙*)ノ"

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