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「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い

 ここでは、総合人間学会の研究会誌『総合人間学』(書籍版16号、本の泉)に掲載された記事について再掲しています。

上柿崇英(2022a)「「ポストヒューマン時代」における人間存在の完結社会〉と「世界観=人間観」への問い」(『総合人間学』、総合人間学会、第16号、 pp.162-190)


1.はじめに

 ビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などの進展を通じて、われわれはいまや、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となっていく時代を生きている。それは、これまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる時代という意味において、「ポストヒューマン時代」と呼ぶことができるだろう。

 そして総合人間学の中心的な問いが、まさしく「人間存在の本質とは何か」というものであるとするなら、この時代の局面をどのように理解し、どのように意味づけるのかということは、総合人間学においても避けて通ることができない重要な課題となるはずである(1)。

 本論では、まず前述した諸々の「ポストヒューマン時代」の科学技術について、具体的に見ていくことからはじめよう。そしてその技術的現実が、われわれをいかなる世界へと向かわせつつあるのかについて、R・カーツワイル(R. Kurzweil)やY・ハラリ(Y. Harari)の分析を交えつつ、さらには独自に〈自己完結社会〉というキーワードを用いて考察することにしたい。

 〈自己完結社会〉とは、人々が高度に発達した社会システムに深く依存することによって、生身の他者と関わっていく必然性、生身の身体とともに生きる必然性を失っていく社会のことを指している。

 確かに「ポストヒューマン時代」の到来は、しばしば「人間疎外」や「管理社会」といった枠組みの延長線上で語られることが多いだろう。しかし事態は、それほど単純なものとは言い難い。この問題の難しさは、その矛盾の本質が、自由、平等、多文化共生をはじめ、われわれがこれまで希求してきた人間的理想と密接に関わっていることにある。端的に述べれば、われわれが信じる「あるべき人間(社会)」の理念に即すと、「ポストヒューマン化」は批判の対象になるどころか、その理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきだ、との主張が導かれうるからである。

 議論の後半では、こうした矛盾がなぜ生じるのかについて、われわれの認識や思考の背後にあって、それを加速させている〈無限の生〉の「世界観=人間観」というものから読み解いてみたい。〈無限の生〉とは、「意のままになる生」のことを指し、その「世界観=人間観」のもとでは、人間の使命とは、「意のままにならない生」の現実を克服し、それをあるべき理念に相応しい形に改変していくことであると理解される。そしてそこでは、その理想の形式が“現実否定”に基づくゆえに、ある種の「無間地獄」をもたらす様子について見ていこう。

 注目すべきは、今日においては、それが「あるべきこの私の生」と「現実のこの私の生」をめぐる矛盾となって現れているということである。ここから本論では、われわれが新時代の社会システムや科学技術を通じて「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」から解放されるほどに、かえって苦しみを深めていくメカニズムについて見ていくことにしよう。

 〈無限の生〉がもたらす理想の矛盾は、おそらくわれわれが身体を完全に捨て去った「脳人間」になるか、あるいは脳さえ捨て去った「思念体」になるまで続くだろう。その究極の“ユートピア”においては、人間存在の「自己決定」と「自己実現」は、かつてない水準へと上昇する。われわれはそこで、理念が指し示す「完全な人間」に到達するのである。しかしそこには、人間など、もうどこにも存在していない。このことは何を意味するのだろうか。本論では、順を追って説明していくことにしよう。

2.「ポストヒューマン時代」のリアリティ

(1)現代科学技術がもたらすもの

 それでは最初に、「ポストヒューマン時代」を特徴づける技術的現実のいくつかについて、具体的に見ていくところからはじめよう。

 最初に注目したいのは、情報/人工知能技術である。例えば今日、われわれの生活の背後では、インターネットの閲覧履歴、購買履歴、移動(GPS)履歴、通話履歴、監視カメラの履歴などを含むビッグデータが日々蓄積され、解析されている(2)。また、脳の神経回路を模した第三世代のAI技術であるディープラーニングは、膨大なデータのなかから特徴的な結びつきを自ら掘り下げ、自動的にある種の「概念」を構築することができる(3)。そこからもたらされるのは、車の自動運転やチェスで人間を打ち負かすAI、バッハ風の音楽を制作できるAIだけではない。われわれは今日、自らの買うべき商品、出会うべき相手、必要とされる医療などの「最適解」をAIが提案してくれる時代を生きているのである(4)。

 こうした技術は、もちろん社会政策にも応用されている。その代表は、さまざまなビッグデータを解析して、いつどこで犯罪が生じるのかをAIが予測する犯罪予測プログラムだろう(5)。また、個人の社会的な信用度をAIが評価する「信用スコア」は、結局実用化には至らなかったものの、もともとは個人の行動履歴を点数化することによって、ビジネスを効率化し、人々に善行を促すことを目的に提案されたものであった(6)。

 次に、サイボーグ/ロボット技術について見てみよう。例えばSFでお馴染みのパワースーツは、今日軍部においてだけでなく、疲労しない歩行を実現するアダプターとして、すでに民間の医療現場で実用化されている(7)。2021年には、全身マヒ(ALS)患者で、人工臓器を含むさまざまなデバイスを組み合わせ、全身サイボーグになることを選択したP・スコット=モーガン氏が話題を呼んだだろう(8)。しかし何より目を引くのは、念じるだけで機械のアームを自在に動かすことができる、ブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)である(9)。その目的は、もちろん医療や福祉を出発点とするものだったが、その技術自体は理論上、健常者であっても、第三の腕や、腕とは異なる何ものかを脳から直接遠隔操作できるようになることを意味している。

 またロボットに目を向ければ、その活躍の場は、今日組み立て工場だけでなく、介護やサービス業の現場、そして戦場となっている。なかでも人間の関与なしに自動で敵を殺傷できる自律型致死兵器システム(LAWS)に対しては、多くの人々が警鐘を鳴らしているところだろう(10)。他方で、人間を模した機械であるアンドロイドは、すでに「不気味の谷」を突破し、ある程度のコミュニケーションを実践できるようにまでなっている。人々と「会話」をし、より「人間らしい」振る舞いのために、話の間(テンポ)、表情、瞬きなどの微細な動作が再現できるようになっている(11)。

 確かにアンドロイドは、そのように振る舞うだけで、会話そのものを「理解」していないという指摘もあるかもしれない。しかしわれわれは、会ったこともない文通相手に対しても、悲しんだり、慰められたりしている。コミュニケーションにおいて重要なことは、その先に本当に生身の人間がいるかどうかではなく、あくまで心を持った何ものかがそこに存在すると思えるということであるとするなら、アンドロイドもまた、パートナーとして十分に成立しえるのである。

 最後に取りあげるのは、生命操作技術である。例えばゲノム編集と呼ばれる分野では、制限酵素のCRISPR-Cas9を用いることで、狙った遺伝子を破壊、変異、合成させることができるようになる(12)。2018年に中国でゲノム編集を施した人間の乳児が誕生したとされるニュースが話題を呼んだが、一連の技術は、肉の多い家畜、アレルゲンを含まない食品、バイオ燃料を生産する微生物の開発から、遺伝的な難病の治療に至るまで、すでに産業分野や医療分野において幅広い応用が始まっている。あるいは合成生物学と呼ばれる分野では、生物学を「工学化」し、人工細菌「ミニマムセル」のように、生命体そのものの人為的な合成が行われている(13)。

 注目すべきは、人工臓器や遺伝子治療(太りやすい体質などの)をこえて、エンハンスメント(能力強化)や「老いの治療」とも呼ぶべき技術の開発が進められていることだろう(14)。近年軍部では、睡眠が不要となったり、記憶力や集中力が飛躍的に高まったりする薬やデバイス(脳神経インプラント)が研究されている。また、老化の因子は次々に特定されてきており、それらを総合的に除去することによって、われわれはこの先、若々しい肉体のまま、250歳近くまで生きられるようになるとも言われているのである。

(2)「ポストヒューマン時代」をどう評価するのか

 こうした技術的現実から理解できるのは、前述したように、われわれがすでに、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となる時代を生きているということである。それでは、われわれはこうした時代をどのように評価することができるのだろうか。またわれわれは、ここからどのような未来へと向かうことになるのだろうか。

 最初の参照点となるのは、R・カーツワイル(R. Kurzweil)の主張である(15)。カーツワイルによれば、人間の創出する技術は「収穫加速の法則(law of accelerating returns)」によって指数関数的に増大を続け、われわれはまもなく自らの存在様式が劇的に変容する「特異点(singularity)」を迎えるという。

 その契機となるのは、脳の構造/機能の全容解明とその応用(リバース・エンジニアリング)、設計能力を獲得した機械(とりわけ機械が自らの知能を繰り返し改善していく)、ナノボット(分子レベルで設計されたロボット)による身体能力の強化、そしてバーチャルリアリティの拡大であり、それらを通じてわれわれは、近い将来、ついに生物学的な身体や脳の限界を超越する。そしてそれはDNAの進化、脳の進化、科学技術の進化に続いて、科学技術と人間の知能の融合、科学技術が生命のあり方を支配する新たな進化の段階を意味すると言うのである。

 確かにこうした「特異点」をめぐっては、しばしば2045年にAIが人間の知性を凌駕するとの予言的な言明ばかりが注目され、批判の対象となってきた側面がある(16)。とはいえ前述してきたように、一連の技術的現実が人間の存在様式を変容させる予兆は十分にある。

 例えばバーチャル世界の拡大で言えば、VR技術は、ゲームなどの分野においてはすでに真新しいものではなくなっており、「ショッピング街」や「会社」をバーチャル化できれば、いちいち外出することなく、人々は自分好みのアバターとなって「生活する」ことが可能となる(17)。また、特定の故人のビッグデータをAIに学習させ、その人らしい言動ができるロボットを造りだす「人格」のアップローディングや(18)、特定の個人の脳のニューロンマップを電子空間上に完璧に再現する「脳」のアップローディングは(19)――それを「死者の再生」や「不老不死」と呼べるかどうかは別としても――われわれに自らの存在様式をめぐる大きな揺らぎを直感させる試みであると言えるだろう。

 もちろんこうした「ポストヒューマンの時代」の到来を、ある種の“ディストピア”として論じる人々もいる。例えばY・ハラリ(Y. Harari)は、われわれ以上にわれわれのことをよく知るアルゴリズム(AI)が、戦争から医療、教育、芸術にまで拡大していくなかで、われわれは次第に、アルゴリズムが提案する“最適解”に意志を委ねていく可能性があることを論じている。そしてその先に待ち受けているのは、サイボーグ化や生命操作によって“超人”となり、アルゴリズムを管理している一部の人々と、人体改造の恩恵を受けられず、“超人”たちとアルゴリズムとに支配され、何ひとつ社会的に期待されることのない多数の「無用者階級(useless class)」という、想像を絶する格差社会の出現であるという(20)。

 そうした社会では、人々は人間を含む生命を、ますます解析可能なアルゴリズムとして理解するようになり、人間中心のヒューマニズムに代わって、情報の自由な流通こそが神聖化される「データ教(Dataism)」が成立する。「データ教」の世界においては、個人としての人間は、かけがえのない存在であるとは見なされない。人間は依然として必要であると見なされるが、重要なのは、あくまでデータに関わるものとしての人間集団であって、ひとりひとりの人間存在ではないからである。

 もちろんこうした「格差社会」の出現は、ハラリ自身も認めているように、未来を見据えて描きだされる、ひとつの“可能性”に過ぎない。例えば、数10年前にはきわめて高価で、一部の研究者しか使用できなかったコンピューターは、いまやスマートフォンという形で多くの人々が手にすることができるものとなっている。

 そのことを思えば、たとえサイボーグ化や人体改造、アンドロイドであったとしても、それらが一般社会に普及する可能性は十分にあると言える。むしろ世の中の“標準”が変われば、健康で文化的な最低限の生活のために、それらが公的な保険や福祉の対象となる時代が来るかもしれない。それどころか、あたかも今日の富裕層が高価な自然食品やエステに精を出すように、未来の裕福な人々は、サイボーグだらけとなった庶民を尻目に、「天然物」の身体を誇らしげに愉しむといった事態さえ想起することはできるのである(21)。

3.〈自己完結社会〉への目なざし

(1)「持続可能」で、〈自己完結〉した社会の成立へ

 とはいえここからは、「ポストヒューマン時代」の人間のあり方について、以上とは別の角度から考えてみたい。というのも現代社会においては、人間の存在様式をめぐる変容が、ハラリ的な「格差社会」から連想できるものとはやや異なる形において、すでに始まっている側面があるからである。

 それは、われわれが高度に発達した市場経済や行政機構、インターネットからなる、ある種の複合的な「インフラ」――これを本論では〈社会的装置〉と呼ぶことにする――にますます依存しながら生きるようになること、またそれを通じて、ひとりひとりの生の文脈においては、「生身の他者と関わりながら生きる」ことの必然性、あるいは「生身の身体を持つ存在として生きる」ことの必然性がますます失われ、人々がその意味を感受できなくなっていくという事態である。

 こうした社会の動向のことを、筆者はこれまで〈自己完結社会〉の成立と呼んできた(22)。ここではその〈自己完結社会〉というものについて、大きく三つの論点に絞って見ておきたい。第一に、〈自己完結社会〉においては、市場経済、行政機構、インターネットの複合体としての〈社会的装置〉が、現代科学技術のもたらす情報、機械、薬剤などを通じて、われわれの生活世界の隅々にわたって浸透していくことになる。そしてそこではわれわれの行為の帰結が、〈社会的装置〉を媒介するがゆえに、個々の人々には意識されることなく、「持続可能」になるよう自己調整されるようになっていく(23)。

 想像してみて欲しい。〈社会的装置〉に依存するわれわれの姿は、あたかも空を覆い尽くすほどに巨大な“歯車”に、ひとりひとりが別々に接続しているかのようである。そのため人々は、それぞれがその巨大なブラックボックスの末端にあって、その機構の向こう側に誰がおり、何があるのか、また自らの行為の帰結やその意味について、ますます想像することができなくなる。と同時に、〈社会的装置〉が優秀な機能を備えれば備えるほどに、そうした想像力を働かせていく必要性もまた失っていくのである。

 第二に、〈自己完結社会〉においては、人々は一度〈社会的装置〉に接続され、そこから財やサービスや情報を得られる手段を確保することができれば、究極的にはあらゆる直接的な関係性、ないしは人格的な関係性をなおざりにしてもなお、生きていくこと自体は可能となる(〈生の自己完結化〉)。

 実際われわれは、〈社会的装置〉に接続するための“貨幣”さえ入手できれば、必要となるあらゆる“モノ”を、クリックひとつで調達することができるし、直面している社会的な問題は、どこか遠くの専門家が対処してくれる。多少の孤独に耐えることさえできれば、あとはtwitterやYouTubeでお気に入りの何ものかと「交流」することだってできるだろう。“歯車”の比喩を用いるならば、人々はいわば投げ縄を掛けるようにして、ひとりひとりが別々に〈社会的装置〉にぶら下がっているのであり、人々はそこで縄が切れれば落ちて死んでしまうが、逆に縄さえしっかりとしていれば、その巨大な“歯車”を通じて、大抵のことなら成立させられるのである。

 こうしてわれわれの生が〈社会的装置〉との間で「自己完結」していくにつれて、人々は目の前にいる生身の人間に対しては、直接的、ないしは人格的な関係性を取り結ぶ必然性を感じられなくなっていく(24)。それどこか、日々遭遇する生身の他者の存在は、自らの個人的な生を脅かす負担やリスクとして感受される傾向が強くなる。互いに互いを必要としていないという感覚、あるいは互いが互いに迷惑な存在になりえるという感覚が、関係性の心理的な障壁を拡大させる。そうして人々は、〈社会的装置〉を動かしているのが、まさしくひとりひとりの人間であるにもかかわらず、互いに生身の関係性を取り結び、それを維持していくことが困難になっていくのである(「関係性の病理」)。

 第三に、〈自己完結社会〉においては、高度な科学技術によって、人々はますます自らの身体を用いる必然性が失われていき、また身体それ自体も、自らが望む形にコントロールできるようになっていく(〈生の脱身体化〉)。

 実際われわれは、すでに本当の意味において、汚いもの、臭いもの、痛いもの、醜いもの、残酷なものに触れずにすむためのさまざまな機構に囲まれて生きているだろう(25)。そしてそこに、AIやロボットや人体改造をめぐる技術の出現が拍車をかけることになる。人工臓器や「老いの治療」のみならず、例えばアバターとなるロボットを通じて会議に「出席」したり、バーチャルな商店街に「外出」したりする生活が成り立つのであれば、われわれにとって現実の身体がどうであるのかということは、それほど重要な問題ではなくなっていく。そうしてあらゆる直接的、間接的な「人体改造」が進行することによって、身体に由来するさまざまな要素や属性は、われわれの生において決定的な意味を持たなくなっていくのである。

 しかしそれは同時に、若者であること、老いるということ、男性であること、女性であること、結婚すること、子孫を生み育てることといった、これまで生の前提となってきた諸概念が意味を失うということでもある。そこで人々は、自らの生に対してあらゆる選択肢が提供されるが、かえって人々はその膨大な可能性に混乱する。あるいは、自らの生の位置づけや意味をめぐって混乱するのである(「生の混乱」)(26)。

 注目すべきことに、こうした〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉は、互いに互いを加速させる傾向をもっている。例えば糞をするペットに代わって、この先人間そっくりのロボットが「家族」となる時代が来るかもしれない。アンドロイドはパートナーの容姿を気にしなければ、その人の年齢や性別がどうであるのかについても関心を持たないだろう。身体が意味を持たなくなるという点においては、これもある種の〈生の脱身体化〉だと言うことができる。また賢いロボットは、望み通りの容姿で、優しく労りの声をかけ、決して批判することもなく、本人が望むのであれば、怒ったり、反発したりさえしてくれるかもしれない。そしてもし、その人がここで生身の人間を疎ましく思い、アンドロイドとの生活を優先するのであれば、ここにはある種の〈生の自己完結化〉が生じることになる。

 さらに、一度ロボットに依存するようになった人間は、ますます生身の人間と関わっていく自信を失ってしまうかもしれない。リアルな人間と関わるためには、相手もまた生身の身体を持つ者だからこその、さまざまな気配りが要求される。こうして人々が生身の人間と関係性を築くことができず、身体の意味を消してくれる新しい道具や機械にますます依存するようになるのであれば、また新たな〈生の脱身体化〉が進行する、といったようにである(27)。

(2)「ポストヒューマン時代」のどこに矛盾が存在するのか

 こうして見ていくと、われわれは迫り来る「ポストヒューマン時代」が、ますます極度の「人間疎外」や「管理社会」であるとの印象を強めることになるかもしれない。つまりわれわれの生が、ビッグデータやロボットによって、ますます「人間らしさ」を喪失していくと同時に、われわれはますます不可視化された権力によって抑圧され、自由を剥奪されていっている、といったようにである。ところが事態は、それほど単純なものではないのである。

 例えばわれわれは、サイボーグ化やエンハンスメントの話題を聞いて、確かにそれらを「不自然である」と感じるかもしれない。しかしそれらは、古代社会に見られたタトゥーやピアス、あるいは美容整形と、本質的に何が異なっていると言えるのだろうか。あるいはそれらを許容できるとすれば、なぜBMIや、“性格が陽気になる薬”の服用は許容できないと言えるのだろうか。また心臓病患者が、傷ついた生身の心臓を人工心臓に取り替えた結果、健康時よりもさらにQoLが向上する場合、どこまでが「治療」であり、どこまでが「改造」と言えるのだろうか。

 数100万年にわたって自然に手を加え、自らの存在様式を変容させてきた人類の歴史を想起すれば、そもそも「自然な人間」なるものを定義すること自体がきわめて困難であるということが分かる(28)。同様にして、〈生の自己完結化〉や〈生の脱身体化〉もまた、たとえそれらが目に見える形で出現したのが現代であったとしても、それらがもたらされた原理そのものについては、人間存在の根源的な部分に根ざしていると言えるかもしれないのである(29)。

 また、確かにこの先、AIやロボットが生活世界に進出していくことで、われわれはますます自らの生を、そうしたものによる「管理」に任せていくことになるだろう。例えばここで、前述したビッグデータが、権力者によって恣意的に活用、操作されるとするなら、確かにそれは危険なものだと言わざるをえない。とはいえ、権力者に乱用されると危険なものといえば、軍隊にはじまり、警察、ダム、原子力発電所など、いくらでもあげることができる。近代的な生活を維持するためには、われわれは自らの生を支える巨大な“仕組み”を必要としており、それ自体、何ものかによって管理される必要がある。

 その意味においてわれわれは、すでに相当程度、高度な「管理社会」を生きているのである。その点、AIが注目するのは、あくまで膨大なデータに潜在している特微量であって、ひとつひとつのデータの中身ではない。ならば何ものかが不正を働くことがなければ、AIはむしろ、人間よりもはるかに公正で、平等で、効率的な社会の「運用」を実現するとも言えるのである。実際、AIがビッグデータを解析して、犯罪が起きにくい町づくりや、温室効果ガスが排出されにくい行動をアシストする町づくりを提案してくれるなら、人々はそれを喜んで受け入れることになるだろう(30)。

 とはいえ、「ポストヒューマン時代」の到来が、これまでの人間の存在様式を激変させるだろうことは間違いない。たとえサイボーグ化や〈自己完結社会〉の進展が、その最も根源的な部分において人間本性と結びつく側面があったとしても、われわれが直面している変容そのものについては、例えば狩猟採集社会から農耕社会への移行、あるいは近代的社会様式の成立に匹敵する事態かもしれないからである。

 そしてそこには、やはり固有の“矛盾”が存在すると言わなければならない。この問題を難しくさせているのは、実はこの矛盾の本質が、われわれの望んできた人間的理想のあり方に密接に関わるものだからである。すなわち「ポストヒューマン時代」は、〈社会的装置〉への人々の依存を加速させるものの、その代償として人々が欲してきた自己決定と自己実現の機会と幅を着実に拡大させるということ、そしてむしろ近代的な理想としての自由、平等、多文化共生を拡大させようとするからこそ、われわれは必然的に「ポストヒューマンな存在」へと向かって進んでいくという構造が存在するからなのである。

 例えば前述したBMIは、人々が「第三の腕」を持つことを望んで開発されたわけではない。それはもともと難病や障碍に苦しむ多くの人々の自由と平等を実現するためにこそ必要となるものであった。そして実際にBMIは、彼らの「自由」と「平等」を拡大させ、多様な存在が共存できる世界を一歩前進させる。ならばそれと同様にして、「ポストヒューマン時代」の技術は、“老い”に苦しむ多くの高齢者やその家族の「自由」と「平等」を拡大させるためにこそ必要であるとは言えないか。

 そしてその論理の先に続いているのは、差別や偏見に苦しむ人々の「自由」と「平等」を拡大させるためにこそ、さらには生物学的な身体やその差異がもたらす、あらゆる桎梏に苦しむ人々の「自由」と「平等」を拡大させるためにこそ、「ポストヒューマン時代」の技術は必要であるという主張である。

 同様にして、もしもわれわれの生の理想、例えば自由、平等、多文化共生の理想が、自己決定や自己実現の極大化というものに集約できるとするなら、次のようにも説明することができる。

 例えばわれわれは、これまで〈社会的装置〉を整備することによって、居住すべき場所、従事すべき仕事、演出すべき容姿などが、少しでも「自己決定」、「自己実現」可能となるよう社会を築いてきた。ならばその延長として、われわれは「ポストヒューマンな存在」になることによって、臭い、汚い、痛い、眠い、疲れる、老いるといった生物学的な不条理を取り除き、さらなる「自己決定」と「自己実現」の拡充を図ることができるはずである。そして容姿や性格を含む「生まれつき」の不条理を取り除くこと、さらには気に入らない相手と無理して関わらねばならない不条理を取り除くことによって――まさしく「意のままにならない身体」と「意のままにならない他者」の〝克服〟を通じて――「自己決定」と「自己実現」は飛躍的に拡大されうる、といったようにである。

 つまりわれわれが向かっているのは、「ビッグ・ブラザー」や(31)、いわゆる「生‐権力」論が映し出す世界とは異なり(32)、自己調整機能を備えた〈社会的装置〉を土台として、ひとりひとりの〈ユーザー〉たちの「自己決定」と「自己実現」が極大化されていく世界なのである。人々が苛立っているのは、あくまで〈社会的装置〉の調整能力が不十分だったり、偏っていたりすることであって、それが適切に機能し、「運用」されるというのであれば、〈社会的装置〉そのものからの「解放」など、おそらく誰も望んではいない。

 そしてその根底にある論理が導くのは、人間存在の自由、平等、多文化共生の理想を実現するためには、われわれはむしろ「ポストヒューマンな存在」になった方が良いとの結論である。つまり「ポストヒューマン化」は、「人間らしさ」を破壊するのではない。それどころかわれわれが信じる「あるべき人間」、「あるべき社会」を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマン化」すべきである、との結論が導かれうるのである(33)。

4.「世界観=人間観」への着目

(1)〈無限の生〉の「世界観=人間観」

 それではなぜ、われわれはこうした奇妙な“矛盾”に直面することになってしまったのだろうか。

 ここでわれわれは、一度自らが追い求めてきた理想の形、理想のあり方そのものに対して目を向けてみる必要がある。「ポストヒューマンの時代」を促進させているのは、おそらく単なる人々の飽くなき欲望でも、欲望を肯定する功利主義の蔓延でもない(34)。それよりも重要なのは、近代的な人間の理想と深く結びついてきた、ある特有の「世界観=人間観」こそが、今日の「ポストヒューマンの時代」の到来を加速させてきた側面があるのではないか、という問題である。

 実際、自由や平等、多文化共生を含め、われわれが「あるべき人間(社会)」に言及するとき、そこにはきまって特有の論理構造が潜んでいる。それは第一に、現実からではなく、現実から切り離された想像上の理念から出発すること、また第二に、その理想状態こそ、しばしば「本来の(真の)人間性」が全面展開したものだと理解されること、第三に、その「あるべき人間(社会)」の理念から現実を照射し、まさしく理念とは異なるという理由でもって現実自体が糾弾されること、さらには第四に、理念と現実を合致させるべく、現実の方をコントロールしようとする点である。

 考えてみれば、こうした論理自体が奇妙であるとは言えないだろうか。例えばその理念が「本来の(真の)人間性」を体現するというのであれば、なぜそれは過去や現実のなかにではなく、新たに創出されるべき未来のなかに存在するのだろうか。またそれが未来に実現されるべきものならば、未だその完成された姿を誰ひとりとして目撃したことなどないはずである。それにもかかわらず、われわれはなぜ、それが「本来の(真の)人間性」であると確信することができるのだろうか、といったようにである。

 とはいえ、こうした「あるべき人間(社会)」をめぐる理想の構造は、実のところ、西洋近代哲学のなかでは広く通底してきたものなのである。例えばわれわれは、その最初の形態を、「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」というJ・J・ルソー(J. J. Rousseau)の言葉においてすでに見ることができる(35)。そしてそれは、I・カント(I. Kant)やG・W・F・ヘーゲル(G. W. F. Hegel)、K・マルクス(K. Marx)などを経ながら展開され、今日まで広範な形で引き継がれてきたと言うことができるのである(36)。

 本論では、こうした理想の構造を含んだ「世界観=人間観」のことを指して、〈無限の生〉の「世界観=人間観」と呼ぶことにしたい(37)。〈無限の生〉とは、人間存在にとっての「意のままになる生」と言い換えることができる。そこで語られてきたのは、人間が自らの英知によって「意のままにならない生」の現実を克服し、理念としての「あるべき人間(社会)」を現実のなかに打ち立てることができるという、“人類の物語”だったのである。

 われわれはしばしば、こうした「世界観=人間観」が、人類全体に普遍的に見られるものだと考えている。確かに人類は、古の時代から、世界に介入し、世界を改変してきたと言えるだろう。しかしその根底にある「世界観=人間観」は、〈無限の生〉とは本質的に異なるものであった。なぜなら多くの場合、それらは世界が本質的に「意のままにならないもの」であるとの前提に立ち、そこから人がいかに“より良く生きる”ことができるのかを問題にするものだったと言えるからである(38)。

 〈無限の生〉が、人間のあるべき姿を「意のままになる生」の実現と、それを可能にする人間の無限の可能性に求めるものだとするなら、古の人々は「意のままにならない生」の現実を肯定し、より良き生を希求するという意味において、〈有限の生〉の「世界観=人間観」に立っていたとも言えるだろう。前者の理想が、あるべき理念によって現実を制圧しようとする「現実を否定する理想」だとするなら、後者の理想は、現実世界をより良く生きようとして人為的に構想されるもの、あるいはときに決して届きえない彼岸の世界に何ものかを託しつつ、現実世界を精一杯生きようとするという意味において、「現実に寄り添う理想」であったとも言える。〈無限の生〉は、実のところ人類史的に見ても、まったく特殊で、新しい理想の形式だったのである(39)。

(2)〈無限の生〉の「無間地獄」

 この〈無限の生〉に伴う「現実を否定する理想」の形式は、それが現実否定のエネルギーを梃子とするがゆえに、ときに巨大な破壊力をもたらすことがある。しかしそれは、同時に、しばしば予想外の破滅を導く力でもある(40)。そしてその原因は、その理想が、本質的に現実の外部からもたらされた理念から出発するものであるというところにある。

 重要なことは、こうした理想は、それゆえさらなる根源的な矛盾に直面するということである。それは、どれほど現実を理念に近づけようとも、両者が完全に一致する日など決して来ないということ、それゆえわれわれは、理念から照射される現実を見て、「この世界は間違っている」と常にそれを否定し続けていなければならないということである。その理想の形式は、必然的にわれわれを、終わりなき現実否定という、ある種の「無間地獄」へと突き落とすことになるのである。

 その様子を、ひとつの具体例をあげながら考えてみよう。例えばわれわれが、いまでもしばしば言及している「自立した個人」という概念は、まさしくその典型的な事例のひとつである(41)。

 その言説によれば、われわれは外的な権威や権力によって流されることなく、自ら思考し、自ら判断できる自立した存在とならなければならない。そしてそのためには、個人を抑圧する外力を取り除くこと、とりわけ日本社会においては、伝統的な集団主義や世間がもたらす同調圧力が克服されなければならないというものである。驚くべきことに、丸山眞男以来半世紀以上にわたって、この言説は少しも変わることなく語り継がれてきた。しかし100年前の庶民の生活を想起すれば、伝統、慣習、世間、隣人をめぐって、いかにわれわれがそうした“外力”から解放されてきたのかということが分かる。いまでもわれわれは、変わることなく社会的問題の原因を「自立していない個人」に求め、人々に「自立した個人」になるよう説いているが、この問答に終わりが来ることはないだろう。

 ここで人々は、目の前の現実が理念と異なっている点ばかりに注目し、われわれがすでにある程度「自立した個人」として生きている側面には目を向けようとはしない。というのも、そこでは想定される「あるべき人間」が、そもそも現実の外部からもたらされた理念であり、まさしくそれが「現実を否定する理想」として機能しているからなのである。

 したがってわれわれが、仮に自由や平等や多文化共生を、「現実を否定する理想」として語るのであれば、われわれは同じく「無間地獄」に陥ることになるだろう。

 実際われわれは、目の前の不自由、不平等、非共生ばかりに目を奪われているが、われわれの社会は、事実として、着実にそうした理想を現実化してきた側面がある。確かにそれは、未だ万人に行き届くものではないし、またそれは、前述した〈社会的装置〉への依存によって成し遂げられる、〈ユーザー〉としての「自由」、〈ユーザー〉としての「平等」、〈ユーザー〉としての「共生」に過ぎないのかもしれない。

 しかしそれが、われわれの想像していた“バラ色”のユートピアとは違って見えたとしても、それは確かに、理念が現実に具現化されたひとつの形なのである。われわれがひとつの「自由」を獲得するとき、われわれは同時に新たな「不自由」を発見するだろう。それは「平等」であろうと、「共生」であろうと同じである。われわれが完全無欠な「あるべき人間(社会)」の理念を掲げている以上、その道には決して終わりがないのである。

 そしてこのことは、なぜさまざまに試みられている「存在論的な抑圧」からの解放のプロジェクトが、ことごとく同じ矛盾に直面してしまうのかを考えるための手がかりにもなる。

 例えば境界のない世界を造りだすための運動が、抑圧された人々を救おうとして、なぜかえって新たな境界を造りだしてしまうのだろうか。あるいは何ものかの中心から抑圧されていた人々が、その中心から解放された途端に、なぜ別の新たな中心となって別の何ものかを抑圧しはじめてしまうのだろうか。われわれが目を向けなければならないのは、おそらくそうした試みの背後にある、「一切の境界が存在しない世界」や「一切の中心が存在しない世界」という、現実否定の理念の方なのである。

(3)“個人化”される〈無限の生〉

 とはいえ、「ポストヒューマン時代」という主題に議論を戻すのであれば、この「無間地獄」の構造が、よりわれわれに身近な部分に潜んでいるという点に目を向けなければならない。

 というのも、「意のままにならない生」の現実を克服し、「意のままになる生」の実現を希求する〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、かつてのように発展進歩していく“人類の物語”というよりも、いまや「自己決定」と「自己実現」がなされるべき「かけがえのないこの私」という、“個人の物語”として拡張されている側面があるからである。そしてここで生じている新たな矛盾とは、「あるべきこの私の生」に関わる理念と、「自己決定」と「自己実現」を果たし得ない「現実のこの私の生」との間に生じる新たな「無間地獄」である。

 歴史的に見れば、われわれはつい最近まで、一握りの富裕層でなければ、個人的な生の文脈において、「自己決定」と「自己実現」が全面的に許容されることなどほとんどなかった。しかし繰り返すように、〈ユーザー〉としての「自由」、〈ユーザー〉としての「平等」、〈ユーザー〉としての「共生」は、たとえ不完全なものであったとしても、われわれの「自己決定」と「自己実現」の機会と幅を着実に拡大させてきた。

 問題は、こうして居住すべき場所、従事すべき仕事、演出すべき容姿など、個人的な生における「自己決定」と「自己実現」の幅が現実に拡大していくなかで、われわれの生に対する理解の枠組みもまた、根源的に変容していったということである。端的に言いえば、われわれにとって、いまや「自己決定」と「自己実現」が極大化した生こそが、「かけがえのない存在」としての「あるべきこの私の生」の形であって、「自己決定」と「自己実現」ができない生とは、“誤った生”、“失敗した生”として認識されるべきものとなっている側面があるのである。

 もちろんわれわれは、一方で自らの生の現実が、決して「意のままになる」ものではないことを理解してもいる。それでも、「現実を否定する理想」として語られる「あるべきこの私の生」の理念に脅迫され、「自己決定」や「自己実現」を阻み、それを妨害するものは、ことごとく「不合理」で、「不当」で、「異常」なものだと感じられるようになっている。それゆえ「あるべきこの私の生」を実現できない不完全な自己存在をも受け入れることが難しくなってきているのではないか、ということである(42)。

 つまり現代人は、「あるべきこの私の生」の理念と、決して意のままにならない「現実のこの私の生」との間で引き裂かれている。とはいえ、重要な話はここからなのである。

 本論では先に、われわれは自由、平等、共生といった「あるべき人間(社会)」を実現しようとするからこそ、必然的に「ポストヒューマンな存在」になるべきだとの結論から逃れられないとも述べてきた。そしてそれは「ポストヒューマン時代」の技術が、われわれにさまざまな形で「意のままにならない他者」や「意のままにならない身体」を超克する契機を与えてくれること、それによってわれわれは、さらなる〈ユーザー〉としての「自由」、「平等」、「共生」、そしてさらなる「自己決定」と「自己実現」の機会を手にすることができるからであった。

 このことが示唆しているのは、「あるべきこの私の生」を求めてやまない人々は、ここで「真の人間の生活」を夢見るがゆえに、やはり自ら進んで「ポストヒューマンな存在」になる道を選択するだろうということなのである。

 ところが、これまで見てきたように、「現実を否定する理想」は、結局のところ「無間地獄」へと続いている。たとえわれわれが、いかにAIやサイボークやロボットやVRを駆使して「意のままになる身体」や「意のままになる他者」を演出したところで、「あるべきこの私の生」をめぐる現実との亀裂は決して修復することはない。それどころか、逃れられると信じ込み、逃れようと足掻くほどに、その亀裂はかえって致命的に拡大していくことになる。「あるべき人間(社会)」に近づくことが、かえってわれわれの苦しみを深める結果になるのである。

(4)「脳人間」の世界

 しかしここで、一度立ち止まって考えてみよう。もし仮に、われわれの苦しみが〈無限の生〉の理想と、残された「意のままにならない生」の現実とがもたらした亀裂にあるとするなら、本当にそれは「無間地獄」に至るのだろうか。

 例えばわれわれが技術の力を極限にまで進化させ、「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」をめぐる人間の宿命を、文字通り完全に制圧してしまうことができたとしたらどうだろう。つまり「ポストヒューマン化」に伴う一連のプロセスを加速させること、その先に「無間地獄」の分厚い壁が突破され、われわれはついに、「あるべきこの私の生」と「現実のこの私の生」とが一致した、「真の人間の生活」に到達することができるのではないか、ということである。

 したがってここでは、〈無限の生〉の最果て、すなわち究極の「自己決定」と「自己実現」が実現した未来、先に〈自己完結社会〉と呼んできたものが極限にまで進行した世界とはどのようなものになるのか、ということについて考えてみたい。

 まずは、実際に起こりえる未来の生活から想像してみよう。例えばそこでは、卓越した〈社会的装置〉の調整機能によって、産業の自動化が進んでいるかもしれない。すべての必要物はドローンで自宅に届けてもらい、人々は会社にネットを介してアバターとなって出勤するようになっているかもしれない。彼らの傍らでは、自分好みのアンドロイドがさまざまな世話を焼いてくれる。そこで実現するのは、まさしく自室を一歩も出ることなく、基本的な社会生活が成立してしまう世界である。

 しかしこうした「通販人間」も、依然として途上の段階に過ぎないだろう。例えばそうした生活が成り立つのであれば、身体を持つことはそれほど重要な問題ではなくなってくる。刺激や快楽を得るだけなら、脳が直接それを感受できれば良いのであって、ならばいっそ脳だけになった方が、臭くて、汚い身体のメンテナンスからわれわれは解放されると言えるからである。

 バーチャル空間であれば、「意のままになる他者」を演じてくれるバーチャル人格にも事欠かない。すでに自身が多分に「情報」と化しているなかで、いまさら何ものかが本当に脳をもっているのかどうかなど、誰が気にすると言うのだろうか。こうして脳だけになったわれわれは、チューブと電極を介し、文字通り〈社会的装置〉に接続される。そしてそこで、あらゆる「自己決定」と「自己実現」を謳歌できるようになるのである。

 もっともこの状態に至ってもなお、未だ「意のままにならないもの」が残されている。それは「脳人間」の本体たる脳そのものである。だが「脳人間」の技術力があるならば、それを機械に置き換えることなど簡単だろう。そして脳が邪魔だというのであれば、おそらく彼らは身体の残滓たる脳さえ惜しげもなく捨てるのである。

 以上の思考実験は、何を物語っているのだろうか(43)。それは、〈無限の生〉の思い描く「あるべき人間(社会)」は、人間が身体を完全に抹消して〝タルパ〟のごとき「思念体」となってはじめて完成されるということ、換言すれば、ここにおいてはじめて人々は、「あるべきこの私の生」と「現実のこの私の生」の一致を成就させ、あの「無間地獄」の苦しみから解放されうるということである。ここに至ってわれわれは、はじめて本当の意味において「自由」な存在となる。しかし「完全な人間」が実現するとき、そこには人間などどこにも存在していないのである。

5.おわりに――〈有限の生〉の「世界観=人間観」を考える

 これまで見てきたように、われわれが「現実を否定する理想」のもとで「あるべき人間(社会)」を求めるのなら、あるいは「自己決定」と「自己実現」が極大化した生こそが「あるべきこの私の生」だと信じるのであれば、われわれは必然的に「ポストヒューマンな存在」になるべきだとの結論に帰着する。

 したがって、近代的な価値理念としての自由や平等や多文化共生を希求することと、「ポストヒューマン化」を「人間疎外」だと批判することとは、実は論理的に矛盾していると言わなければならないのである。そしてこのことは、人権擁護や富の再分配,抑圧の可視化や権力批判といった従来のロジックだけでは、「ポストヒューマン化」を批判することはできないということを意味している。

 確かにこの世界には、未だ基本的な自由や平等が欠乏している大勢の人々がいると言えるだろう。また本論は何も、例えば「言論の自由」や「民主的な政治制度」といったものが無意味であると言いたいわけではない。本論が主張しているのは、「ポストヒューマン時代」をめぐって真に問われているのは、われわれの「世界観=人間観」であるということ、そこに現れる理想の形式こそ、われわれが注視すべき問題であるということである。

 確かにわれわれは、身体を捨てた「脳人間」や「思念体」になることによって、究極の「自己決定」と「自己実現」を手にすることができる。しかし人々は、はたしてそのような生に意味を見いだすことができるのだろうか。すべてが実現可能な世界のなかで、人々は最初のうちこそ〈無限の生〉を貪り食うかもしれないが、やがて人々はやがて襲い来る「退屈」の波に押し流され。そして最後は、自ら生命維持装置の電源を切るのではないだろうか。

 もしもわれわれが、こうした未来とは別の道を模索するというのであれば、おそらくわれわれは、〈無限の生〉とは異なる「世界観=人間観」から出発しなければならないだろう。そしてその出発点となるのは、先に言及した、古の人々が共有してきた〈有限の生〉の「世界観=人間観」ということになるのかもしれない。

 前述したように、〈無限の生〉が「意のままにならない生」の現実を克服し、理念によって現実を塗り替えていくことを志向するとするならば、人間には、人間である限り逃れられない何かがあるということ、すなわち「意のままにならない生」の現実を肯定し、そこからいかに“より良く生きる”のかを志向するのが〈有限の生〉の立場であった。そして前者が「現実を否定する理想」を希求するとするならば、後者が希求するのは「現実に寄り添う理想」であると言えるのであった。

 確かに古代人たちは、この〈有限の生〉の「世界観=人間観」を、神や神秘や来世などを仲立ちにすることによって展開させてきた側面がある。しかし神や神秘や来世の論理は、もはや現代人を動かす力にはならないだろう。その意味においてわれわれに問われているのは、現代という時代に相応しい形で、再び「意のままにならない生」を生きることの意味を問いなおし、そこから何が「現実に寄り添う理想」として提起できるのかを模索することだと言えるだろう。そして「意のままにならない生」を生きるための現実的な術、新たな作法や知恵の形というものが求められているのである。


  1.  筆者の研究グループでは、この問題意識を「現代人間学」という形でこれまで探究してきた。本論で展開した考察内容は、詳しくは上柿(2021a、2021b)を参照。また、関連する研究として、吉田(2021)、増田(2020)も参照のこと。

  2.  ョーンベルガー/クキエ(2013)、オニール(2018)を参照。

  3.  松尾(2015)を参照。

  4.  NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)を参照。

  5. NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)を参照。

  6. 梶谷/高口(2019)を参照。

  7. 中島(2018)を参照。

  8. スコット=モーガン(2021)を参照。

  9. この技術は、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)とも呼ばれる。

  10. 久木田/神崎/佐々木(2017)を参照。

  11. 青年団によるアンドロイド演劇『さようなら』では、「演技指導」を受けたアンドロイドが主役を演じていることで知られている。石黒(2015)を参照。

  12. 山本(2020)を参照。

  13. 須田(2018)を参照。

  14. ヘロルド(2017)を参照。

  15. カーツワイル(2007)。

  16. カーツワイルへの批判としては、ガナシア(2019)が有益である。

  17. 2021年、SNS大手のFacebook社が、社名を「Meta」に変更し、仮想空間メタバースへの本格的な参入を開始したのは示唆的である。

  18. 2015年、Google社がこのシステムの特許を取得し、話題を呼んだ。

  19. この技術はまだ思考実験の段階にあるものの、それが意味するものについては、カーツワイル(2007)、ケーガン(2019)を参照のこと。

  20. ハラリ(2018)。

  21. 例えば増田(2020)はこの問題に触れ、自らの心身を「人工物」に置き換えることによって〈環境からの自由〉を獲得した人々のうち、その上位に位置する人々が、今度は〈環境への自由〉という形で、自らの心身のあり方を選好する様子――ある部位が、最上級の「天然物」なのか、「養殖物」なのかといったように――について描いている。

  22. この節で言及している〈社会的装置〉、〈生の自己完結化〉、〈生の脱身体化〉、「関係性の病理」、「生の混乱」といった、〈自己完結社会〉をめぐる諸概念については、上柿(2021a)において詳細を論じている。

  23. ここでの「持続可能」という表現には、今日の持続可能性概念、あるいはSDGsをめぐる世間の風潮に対する皮肉が込められている。持続可能性(sustainability)概念には、もともと“持続不可能”なこれまでの社会様式を批判し、さまざまな限界のもと、いかに存続可能な世界を成立させるのかという視点が含まれていた。しかし今日の持続可能性概念は、環境という「阻害要因」を取り除いたうえで、これまでの社会様式をいかに持続させるのかというイメージに収斂しつつある。またその試みの行きつく先は、非効率な人間の意識に頼り切らない、高度な自己調整機能を備えた社会システムの設計へと移行しつつあると言えるだろう。

  24. 2016年には、神戸新聞に掲載された「住人同士の挨拶を禁止するマンション」が話題となった(「理解に苦しんでいます」2016年11月4日、夕刊、6頁)。それはあるマンションの管理組合理事を務める方からの匿名の読者投稿であり、経緯は次のようである。まず、小学生の子どもを持つ親から、子どもには知らない人間から声をかけられたら逃げるように教育している、誰が住人であるかを子どもは判別できないので、挨拶自体を止めてもらいたいとの提案があり。年配の方も、以前から挨拶をしても返してもらえないことを不愉快に思っていた、そうしましょうと意見の一致を見たらしい。筆者はこの投稿内容が事実かどうかを確認したわけではない。しかし現代社会においては、こうした事態が十分に成立しうる土壌があると感じている。

  25. それを象徴するのは、システム化された屠殺場の存在だろう。われわれはそうした“残酷”が目に触れないように〈社会的装置〉によって保護されているものの、“残酷”そのものは、一度として人間社会から消えたことなどない。そして“温室育ち”のわれわれは、そうした“残酷”から切り離されればされるほど、かえってますます生身の現実の“残酷さ”と向き合うことが難しくなっていくのである。

  26. このことは、後に言及する〈無限の生〉の「世界観=人間観」をめぐる問題とも密接に関わっている。人々は「意のままになる生」の幅が拡大するなかで、かえって意のままにならない「現実のこの私の生」を受け入れられなくなっていくからである。

  27. ここでの説明が分かりにくければ、〝アンドロイド〟を“インターネット”に置き換えてみればどうだろうか。インターネットの出現において生じた変化を注視してみれば、すでに〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉をめぐるサイクルが現実のものとなっている側面があることに、われわれは気づかされるだろう。

  28. われわれが「ポストヒューマン時代」に感じている違和感や、「人間らしさ」の喪失感は、もしかすると、前近代の農耕民が電車に揺られるサラリーマンを見て思うこと、狩猟採集民がギザのピラミッドを見て思うことと同じものかもしれないのである。

  29. 吉田(2021)は、「われわれはなぜ、そしていつポストヒューマンになったのか」という問いを通じて、この問題と向き合おうとしている。吉田によれば、今日われわれの目に「ポストヒューマン」として見えているものは、究極的には、人間存在の根源的な原理――他者によって暴力的に呼びかけられ、同時それが自らの存在の始原であるがゆえに他者を求めてやまない――に由来する、自己と他者を結びつける技術(メディア)の変化が引き起こしたものである。ところが、コンピューター(プログラム内蔵方式)とインターネット(通信の数学的理論)を核とした現代のメディアは、その特性によってわれわれの世界観を変容させ(デジタル化)、われわれが他者なしでも存在可能で、呼びかけは抑圧でしかなく、他者は自らの存在を強化するリソースでしかないと錯覚させるようになっていく。ここにあるのは、人間の根源的な原理に由来するという意味では必然的でありながら、しかしその存在様式に備わる「欲望の二重らせん」を破断させるという意味においては異常な事態である。ここから吉田は、一連の事態を「必然的異常社会」と呼ぶのである。

  30. もっとも「生-権力」的な観点からすれば、これこそが一種の「管理社会」であるとも言える。たとえその目的が「善行」に基づくものであったとしても、人々の行動が特定の形に誘導されるという意味においては、それは例えば「ホームレスを排除するために、ベンチを寝そべることができないものに変更する」、といった手法と本質的には同じものだと言えるからである。ただし後述するように、一連の事態を「生-権力」論だけで捉えることには限界がある。

  31. 「ビッグ・ブラザー(Big Brother)」は、G・オーウェル(G. Orwell)の小説に登場する人物であり、舞台となる世界では、思想のみならず、感情、言語さえ管理され、人々は「ビッグ・ブラザー」からの監視を日常生活のあらゆる局面において意識しなければならない。しかし〈社会的装置〉がもたらす〈ユーザー〉としての生は、ある種の「管理社会」でありながら、同時に「自由」と「平等」が拡大していく世界であり、それとはまったく異なるイメージを必要としているだろう。

  32. 一連の事態を「生-権力」から捉えてしまうと、われわれは〈社会的装置〉がわれわれの生にもたらす抑圧の側面しか見えなくなる。そこには確かに一定の抑圧が存在しているものの、より重要なことは、それを受け入れる代償として、そこでは「自己決定」や「自己実現」といった人間的理想が実現していく側面があることである。そして人々自身もまた、実際にそれを望んでいる側面があるのである。

  33. 〈自己完結社会〉に伴う先の「病理」とは、その意味においては、「あるべき人間(社会)」が具現化される際にもたらされる、ある種の“副産物”であったとも言えるのである。

  34. 確かに「ポストヒューマン時代」は、人々の望みや満足を拡大させるという点では、「最大多数の最大幸福」を謳う功利主義的な現象であると言える。しかしこの問題を単なる欲望や欲望の肯定としてとらえてしまうと、議論はありがちな功利主義批判にとどまってしまい、ここで論じる「現実を否定する理想」がもたらすさまざまな矛盾の局面を掘り下げることができなくなるだろう。

  35. ルソー(2005:207),Rousseau(1966:41)。

  36.  もちろん、西洋近代哲学は本質的に〈無限の生〉の「世界観=人間観」に根ざしている、とまで言ってしまうと、多くの人々は反発するだろう。実際、そのように主張するためには、綿密な哲学史の議論が求められ、本論にはそうした主張を展開していく余裕はない。しかし大局的に見れば、西洋近代哲学には、意のままにならない自然を「あるべき人間(社会)」に置き換えていく人類の物語や、「現実を否定する理想」の形式が色濃く内在していると思われる。

  37. 本論が言及している〈無限の生〉の「世界観=人間観」や、それがもたらす「無間地獄」の問題、またそれに対置するものとしての〈有限の生〉の「世界観=人間観」をめぐる論点については、上柿(2021b)において詳細を論じている。

  38. 例えば仏教では、世界は本質的に流転するものであると捉えられ、その「無常」の真理を受け入れたうえで、人はいかに生きるのかが問題とされる。また古典的なキリスト教では、人間はどうしようもなく罪を犯してしまう非力な存在であると捉えられ、それでも許しを与える神を前に、いかに生きるのかが問題とされる。確かにここで、人々は浄土や天国といった、“いまここ”とは異なる別の世界に想いを馳せていたと言えるかもしれない。しかしその地に至るためには、人々はあくまでこの世界でどう生きたのかということが問われる。つまりその知恵の真意とは、永遠の場所に何かを託しつつ、精一杯与えられた〈有限の生〉を生き抜くということではなかっただろうか。ここにあるのは、いずれも〈無限の生〉が映し出す「現実を否定する理想」ではなく、自ら有限な存在として生きることの「現実に寄り添う理想」だったのである。

  39. もしもわれわれがその理想の形式を継承しているなら、「大きな物語」を批判してきたポストモダンの試みを含め、われわれは「世界観=人間観」の次元においては、まだ一度も“近代”を乗り越えてなどいなかった、とも言えるだろう。

  40. われわれはここで、その一例として、数100万人あまりの犠牲者を出したポル・ポトの試みを想起しておく必要がある。

  41. 丸山(1961)。

  42. 近年、現代人の感じる“生きづらさ”の背景として、「自己肯定感の低下」という問題がさまざまな形で言及されるようになっている。本論の立場から言えば、ここにある「現実を否定する理想」の矛盾こそ、その背景にあるものではないだろうか。

  43. 本論で言及した「脳人間」をめぐる思考実験については、上柿(2021b)を参照のこと。またそこでは、この問題と関連して「自殺の権利」の問題についての考察も行っている。


参考・引用文献一覧

  • 石黒浩(2015)『アンドロイドは人間になれるか』文藝春秋

  • 上柿崇英(2021a)『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻)』農林統計出版

  • 上柿崇英(2021b)『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(下巻)』農林統計出版

  • NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)『NEXT WORLD――未来を生きるためのハンドブック』NHK出版

  • 梶谷懐/高口康太(2019)『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書。

  • 久木田水生/神崎宣次/佐々木拓(2017)『ロボットからの倫理学入門』名古屋大学出版会

  • 須田桃子(2018)『合成生物学の衝撃』文藝春秋

  • 中島秀朗(2018)『ロボット――それは人類の敵か、味方か』ダイヤモンド社

  • 増田敬祐(2020)「存在の耐えきれない重さ――環境における他律の危機について」『現代人間学・人間存在論研究』大阪府府立大学環境哲学・人間学研究所、第4号、pp.313-378

  • 松尾豊(2015)『人工知能は人間を超えるか――ディープラーニングの先にあるもの』角川EPUB選書

  • 山本卓(2020)『ゲノム編集とは何か――「DNAのハサミ」クリスパーで生命科学はどう変わるのか』講談社

  • 吉田健彦(2021)『メディオーム――ポストヒューマン時代のメディア論』共和国

  • G・オーウェル(1972)『1984年』新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫

  • C・オニール(2018)『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』久保尚子訳、インターシフト

  • R・カーツワイル(2007)『ポストヒューマン誕生――コンピューターが人間の知性を超えるとき』井上健監訳、小野木明恵/野中香方子/福田実訳、NHK出版(Kurzweil, R. 2005. The Singularity is Near: When Humans Transcend Biology. Viking.)

  • J=G・ガナシア(2019)『虚妄のAI神話――「シンギュラリティ」を葬り去る』ハヤカワ・ノンフィクション文庫

  • S・ケーガン(2019)『「死」とは何か』柴田裕之訳、文響社

  • P・スコット=モーガン(2021)『NEO HUMAN――究極の自由を得る未来』藤田美菜子訳、東洋経済新報社

  • Y・ハラリ(2018)『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来(下巻)』柴田裕之訳、河出書房新社(Harari, Y. N. 2017. HOMO DEUS: A Brief History of Tomorrow, HarperCollins.)

  • J・J・ルソー(2005)「社会契約論」『人間不平等起原論/社会契約論』小林善彦, 井上幸治訳、中公クラシックス(Rousseau, J. J. 1966. Du Contrat Social, Garnier Flammarion.)

  • E・ヘロルド(2017)『超人類の時代へ――今、医療テクノロジーの最先端で』佐藤やえ訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン. (Herold, E. 2016, Beyond Human: How Cutting-Edge Science is Extending Our Lives, St. Martin’s Pres.)

  • V・マイヤー=ショーンベルガー/K・クキエ(2013)『ビッグデータの正体――情報の産業革命がすべてを変える』斎藤栄一郎訳、講談社


(出典)上柿崇英(2022a)「「ポストヒューマン時代」における人間存在の完結社会〉と「世界観=人間観」への問い」『総合人間学』、総合人間学会、第16号、 pp.162-190

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