共感過剰社会

 「共感」…ほかの人の考えや言うことに、まったくそうだと感ずること。同じように思うこと。


 共感することって、大切だと思うのです。ただ、一方で、共感しすぎていないでしょうか。いや、共感することを求められていませんか。そのため、共感したようなフリをしていませんか。…なんて思うことも、しばしばあるわけです。いわゆる『共感過剰社会』っていうか。

 人間関係を構築していく上で、「共感・理解を土台にしないといけない。」そんな考えが、のび広がって、強く根付いていないかが心配です。

 人の言うこと、行動について、まずは「理解(よく分かります)」が求められているというか、理解できる状態へと自分をもっていく、いや、もっていかなきゃダメ。そんな思い込みを知らず知らずのうちにもっている。

 インターネット上では、「いいね」ボタンがありますよね。だけれど、「いいの?」「いいんだろうか?」「どうなの?」ボタンはない。きっと、それらのボタンが用意されていないのは、「共感」「いいね」をする人以外は「ない」「ないものといっしょ」とするため。そんな空気のあらわれなのではないだろうか。あたかも「いいね」という「共感した」人同士がつながりをもつ。裏を返せば、「共感しない」「承認しない」人とは、関係をもちにくい。何か発信した人が、マイナスイメージをもつようなコメントでもしようものなら、即座に「ブロック」されることもあるようです。また、「誹謗中傷」と言って、悪口などを書き込み、相手の「人柄」「努力して得た結果」を見下す、さげすむ、傷つける言動をつかって騒ぎ立てられ、攻撃の的に叩き挙げられるかもしれない。その他にも、「ミュート」という機能もあるようで、それは相手には分からないように、こちら側としては「私はあなたの存在をないものとします」という一方的遮断の機能です。実生活、現実世界、現実社会においては、これを「抹消」に匹敵する行為かと思います。そういったことが、オンライン上ではワンタップで、0コンマ数秒、その一瞬でできてしまうのです。

 ほかの集団において、何かを発信した時に、半分より多くの人が「共感」「いいね」をしいたとする。それは、たちまち「多数派」となり、「共感」「理解」「承認」「称賛」をしなかった(できなかった)人は「少数派」にまわることになる。

 いつからでしょうか。「多数派」が「よいこと」とされ、「少数派」が「わるいこと」とされるようになったのは。「多数派」が「常識」を創り出し、疑ってかからないのは。「少数派」というのは「ただ、その時点で半数以上の人の理解・共感を得ることがなかったこと」をあらわしているだけのことなのですが、「少数派」の人たちが「自分(たち)の考えは、まちがっているのではないか。」と自信をなくして、「共感したフリ」をしておこう、と「多数派」へうつる時があるようです。

 少数派でも平気でいてほしいものです。

 日本人全員が『真理は、必ず現実化する。現実化しないものは真理ではない。』という『ヘーゲル主義者』ではないでしょう?

 人間関係を構築していく上で、「共感・理解しよう」という「姿勢」「態度」は、確かに大切であると思います。あくまでも「姿勢」「態度」です。

 「ん?」「よく分からない。」となった時、「じゃあ、キミとはここまで。さよなら。」じゃないじゃない。だから、そこは「もっと話を聞かせてくれる?」「もっと知りたいな、そこんとこ。」というメッセージがキーワード、糸口になると思うんです。表面的な、見せかけだけ、形だけ取り繕った「共感・理解ごっこ」では、人間関係を構築していくことは難しいのではないでしょうか。ただ、見せかけだけの「ごっこ」は一時的には楽しく、楽にやっていけるとは思います。

 学校や、その他の教育の場でも行われる「多数決」。少数の意見・考えは「なかったこと」になる。これでよいのでしょうか。もしかしたら「ごっこ」をしている「空気を読む人間」が力を加えたために、集団、その全体が、好ましくない方に進むこともあるのではないでしょうか。

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