見出し画像

真闇の洞窟


 山門からかなり登った高台に目指す寺院はあった。
 さらに進むと、秘境・奥千石峡に達する。懸崖が県境まで数キロにわたって続いている。
 正面の大門に掲げてある額に「隋唐寺」の寺号が刻まれていた。創建は一三〇五年(嘉元三年)。四国の山間奥地に、樹齢五、六百年の杉や欅などの天然木に守られるようにして建っている。
 大本山級寺院の境内はさすがに古刹の霊気が感じられる。本堂には本尊の釈迦如来坐像と観世音菩薩像が安置されていた。
 寺務所で簡単な手続きを済ませ、案内されるままに裏手の研修室のような部屋に入った。参加者はそれほど多くなかった。空いている席に腰を下ろすと、正面の壁に貼られた大判の紙が目に入った。
「『般若心経』――『空』の教え」
 と、墨書されている。本日の講話タイトルのようだ。
 入口で手渡された資料の中に総ルビをふった『般若心経』の経文が入っていた。
「騙されたと思って参加してみないか。きっと励みになるから」
 強く勧めてくれた友人のことを思い出した。
 ――励み? 助けになるって、なにを察してくれているんだろう? 
「講話と参禅会なんだけど、今の君にとって間違いなく助けになるはずだ」
 ――なに勘違いしてくれてるんだろう?
 思わず片方の口角が上がる。

「お待たせいたしました」
 定刻に作務衣姿の年若い僧侶が数名本堂の方から入ってきた。
「全員の方が本日初めてということなので、まずは何の先入観もなしに洞窟に入っていただきます」
 色の違う作務衣を着たリーダー格の僧侶が手もみしながら告げる。
「内部は全くの真っ暗闇で、何も見えません。壁に取り付けられてある手摺りだけを頼りに一巡していただきます。
 脅すわけではございませんが、再度確認です。持病のある方や障害をお持ちの方、閉所、暗所が病的に苦痛だという方はご入洞いただけません。事前の申告書では皆さん問題ないということでしたが、よろしいでしょうか。……問題ないようですね。
 火山噴火の溶岩流によりできた溶岩洞窟で、若干の起伏はありますが鉄道トンネルのような円状になっており安全でございます。念のため入口でお渡ししていますヘルメットと軍手を着用願います。全長50メートル弱ございます。なかなかのものです。あっ、余計なことを申し上げました。
 お荷物はここに置いていかれて結構です。貴重品はお持ちください。ただし洞内で落とされましても当日のご返却はできません。ご注意願います。ご心配な方は事前にお申し出ください。
 では、早速お一人ずつ間隔を空けて、前列の方から順にご案内いたします。私語は厳禁です」

 ……洞窟内は完全な闇。真闇の中を恐る恐る歩む。
 手が無意識に前に出る。突き出していなければ一歩も先には進めない。身体が勝手に防御の姿勢をとっている。
 足もとや壁は整えられているそうだが、手摺りから手を離す勇気は出ない。
 眼を見開いているのになにも見えない。眼の前に手をかざしても知覚できない。闇を見ているという感覚もない。遠近の距離感がない。闇にどっぷり浸かっている感じとでもいおうか、視覚は確かなのに瞬きしてもなにも映じない。生まれて初めて味わう異空感覚。
 完全なる、完璧な闇だ。真の闇とは、見ることも、触ることも、もちろん聴くことも、深浅を測ることもできないものなのだ。
 奇妙な感動を覚える。
 漆黒、深淵などという言葉をいかに軽々しく口にしてきたことか。これまで経験していた闇は、暗闇であり、真の闇とはいえないものだった。 
 梶井基次郎の小説『闇の絵巻』の冒頭の強盗の話を思い出した。
「最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることが出来るという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。
 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることが出来なかった。
 闇! そのなかではわれわれは何を見ることも出来ない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえ出来ない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことが出来よう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ばいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。……」

「闇」は「光」の対語として用いられてきた。神話や宗教においても、幸不幸、善悪の象徴として位置づけられている。仏教寺院でもしかりで、「闇」が地獄で「光」が極楽を意味する。闇世界の地獄、光世界の極楽浄土という位置づけ、意味合いとなっている。この寺院でも洞窟入り口に地獄絵が掲げられていた。おそらく出口のどこかに極楽浄土絵が掲げられているはずだ。
 さらに辿っていると、今度は幼児の頃の記憶が蘇る。
 古民家の六畳間に一人で寝かされていた私は、夜中に一度目が覚めると、それから暗闇が恐ろしくてなかなか寝入ることができなかった。なにをあんなに怖がっていたのやら、壁際に立てられた衣紋掛けの白衣が悪霊に見えたのか、天井板の節目が魔物の目に思えたのか、今となっては確認することができない。
 幽かな光もささない、完全な、絶対的な闇の前では、底知れぬ恐怖、絶望しかない。月の薄光りや街路灯の灯り、家々の灯もなく、安らぎなど微塵も感じられない。
 上がったり下がったり、右へ曲がったり左へ曲がったりと伝っていると、そんな思念をあざ笑うかのように、安堵と安息の感情が生み出されてきた。暖かく、ゆったりとしたものが流れ込んでくる。自分の身体がいままさに仏陀のお腹、腸の中を運ばれているような錯覚が起こる……。 
 さすがに50メートルというのは長い。行けども行けども出口に到達できない。安堵、安息の感情は瞬く間に掻き消え、いつもの慣れ親しんでいる小賢しい意識が立ち上がってくる。長すぎる。辿りつけるのかという不安が頭をよぎる。 
 ――いけない、いけない
 自分を𠮟りつける。
 ――なにも考えるな、すべてを受け入れるのだ……。
 やがて光が見えてきた。ようやく出口に達したのだというほっとした思いが射す。
 真闇の洞窟の中で生まれた安堵・安息とはまるっきり異なる安堵・安息感が湧いてくる。わが小躯が吸収体にでもなったかのように、溢れんばかりの爽快な解放感で満たされていく。
 外光に慣れてくると生命力溢れる緑葉の世界が眼前に広がった。
 果たして出口近くの目につく場所に「極楽浄土」をイメージさせる図絵が掲げられていた。

        *

 研修室に戻り、確認したところ、まだ十数人が洞窟の中に入っているという。参加者全員が揃うのを待つことになる。この隋唐寺参禅会が定数予約制だというのが頷けた。
 全員が戻ったのが確認されたところで、住職の陵慧老師による「講話」の始まりの時刻が告げられた。研修室で振る舞われた緑茶をいただきながら体感したばかりの真闇の印象や感情に浸かっていると、瞬く間に時は過ぎ、それほど長く待たされたという感じを受けなかった。
 予告された時刻になり、萌黄色の作務衣姿の陵慧老師が講壇に立たれた。

 真っ暗な洞窟はいかがでしたでしょうか。どんな印象を持たれましたでしょうか。
 今回が初めてだという方ばかりだと聞いております。なぜ真っ暗闇の洞窟を歩かされたのかと不審に思われたのではないでしょうか。
 これまでに「感動した」「覚醒された」など、我々もびっくりするくらいの衝撃体験をなさった方もいらっしゃいましたが、「なぜ?」「どうして?」と思われる方がほとんどでございます。
 種明かしをいたしますと、非日常を体験していただくというのが目的でございました。
 闇夜でも、月明り、星の瞬き、何かしらの灯は存在します。真っ暗な、完全な闇というのは日常生活にはありません。そんな環境に我々は慣れっこになっています。
「慣れる」というのは実は恐ろしいことで、人間はどんな環境に置かれても「慣れる」ことによって無限に無自覚、無感覚になれるものなんですね。「慣れる」ことで何も考えなくなるし、何も感じなくなる。進歩も成長もなくなる。
 真っ暗闇の洞窟体験で、ちょっとでも非日常のなにかを感じていただけたのであれば、気づいていただけたのであれば幸いでございます。
 これからは、日常生活の一刻、ちょっと立ち止まって内観していただきたい。自分の内面を覗いてもらって慣れっこになってしまってないかとチェックしていただけたらと存じます。
 さて、前置きが長くなりましたが、本日は『般若心経』のお話でございます。
 まず初めにそもそも『般若心経』とは何ぞや、ということですね。すでにご承知の方も多かろうかと存じますが改めてお話しさせていただきます。
 正式名称は『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』で、仏教の始祖である釈迦が弟子の舎利子に説いた教えを古代インドのサンスクリット語で記した経典です。作者は不詳です。
 そもそもお釈迦さまは経典を残していません。皆、口伝です。
 それを中国の訳経僧・玄奘(602~664年)が漢文に訳したものが、今日広く流布しております『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』です。
「自力成仏」「自立本願」を旨とする宗派で読誦されておりますが、お手元の資料をご覧いただきながら私説をお聞きください。

仏説魔訶般若波羅蜜多心経
 
ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう(筆者注・読みは容易に検索できますので以下省きます)。 

 釈迦が説く偉大な「智慧と実践行により悟りを拓くための教え」。
 タイトルからしていささか「うむむ」という印象を持たれるのではないでしょうか。
 無理くり分かろうとはしないで、いまは聞き流していていただいて構いません。 

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 
照見五蘊皆空 度一切苦厄 

 観自在菩薩(観音菩薩)は、般若(智慧)の完全な波羅蜜多(実践行)を通して、五蘊(ごうん)、すなわち人間の肉体、そして感覚、意識、記憶、意志の五つの構成要素は、皆「空」、実体がないと見究め、そう悟り得たことで、一切の苦厄から解き放たれた、と。 
 六波羅蜜多、すなわち六つの実践行とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。観音菩薩はこの実践行によって悟りの境地に至った、と。

舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是

「舎利子」は、釈迦の十大弟子の一人です。呼び掛けているんですね。
「いいかい。色は空に異ならない。また空は色に異ならない」と、説く。形あるものは実体がないし、実体がないということも形で、即ち実体がない。
 人間のすべての精神作用もまた同じだ、と。
 この「色即是空」を誤った浅い解釈をして、己れの行為を正当化、肯定化して安んじておられる向きがあることを承知いたしておりますが、お釈迦さまもそうとるかとさぞかしびっくりされておられるのではないでしょうか。
 参加者の一部から笑いがこぼれる。

「色」は「いろ」じゃありません。あらゆる形あるもの。目に見えるものだけじゃなくて、見えないものも、人が知覚、意識し、認識できるものもまた「色」なのですね。
「色」を「有」、「空」を「無」に置き換えたら分かりやすいように思います。「有」は「無」、「無」は「有」。つまり「有るもの」はない、「無いもの」も有で、ない。……。
 仏門に入ったばかりの頃、「空」の教えをなんとか分かろう、体得しようと焦るばかりに、境内を掃きながら「有無、有無、有無、有無……。無有、無有、無有、無有……」とひたすら呟いておるのを先輩の僧に聴き留められて、合掌され笑われた経験があります。
 すべてのものが「空」、実体がない、捉らえることができないものだということなのです。実体がない、捉らえることができないものだから、目に見えるものも見えないものも、認識できるものもできないものもすべてないということですね。
 ………………

舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識

「舎利子よ。このようにこの世のあらゆる物や事象は『空』であり、実体がないのだよ」と。実体がないから「生」も「滅」もない。……
 ホワイトボードにマーカーペンでこれらの一文字漢字を板書されながら、お話は続く。

「垢」も「浄」もない。「増」も「減」もない。故に人間の肉体もないし、あらゆる精神作用もない。
 喜怒哀楽も実体のない、捉えることのできないものだから囚われることはないし、囚われるものではないということなのですね。
 ………………

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界
無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

 眼も耳も鼻も舌も身も心もない。形も声も香も味も触も感もない。
 意識界も無意識界もない。「無知」もないし「無知が尽きる」ということもない。
 さらに「老」も「死」もないし「老・死が尽きる」こともない。「苦」も「欲」も、それを「滅する術」もない。「智」も「得」もない。
 ない、ない尽くしですが、これが『般若心経』の「空」の教えの真髄です。このことを、実践行を通して身をもって感得、見究めることで至高の境地に達し、偉大なる悟りが拓けるというわけです。 

 それ以後、老師の「生」「老」「病」「死」についての見識が説かれ、またご自身の若かりし頃の体験話がしばらく面白おかしく語られた。

 ……ここらで終講にしてもいいくらいの「大いなる教え」の記述、結論なのですが、もう少し参りましょうか。

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提

 悟りを拓こうとする者は、心に拘りがないが故に、恐れも迷いもなく涅槃に達する。
 過去、現在、未来の仏はそうした実践行により涅槃に達している。

故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪
是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪

 冒頭でこの経典のタイトルのお話しをさせていただきましたが、タイトルにすでに「大いなる教え」がズバリ言い表されていたのですね。
「智慧の完成を目指す実践行によって悟りを得ることができる」というのが、比類なき最高の真言であり、真言とは、すなわち、真実、真理、祈り、奇蹟、信仰の深淵且つ、偉大なる言葉である、と。

即説呪曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶

 最後は、古代インドのサンスクリット語音をそのまま漢字に当てはめた音写で、呪文のような祈りの文言で締めくくられています。
 サンスクリット語の音を紹介しておきましょうか。ですが、古代インド人じゃありませんので恐らく発音については怪しかろうかと存じます。
「ガアーテエー ガアーテエー 
バアーラアーガアーテエー バアーラアーサンガアーテエー
ボーデースヴーハー」
 三蔵法師さま、恐るべしです。……

 参加者全員の拍手が鳴るなか、陵慧老師は合掌し、礼をして退室された。

「これより本堂へ移動していただきまして、ご本尊の前で『般若心経』を読誦いたします。腑に落ちるまで数回繰り返して唱えます。本日は何回になるか、仏様のみぞ知る、でございます」
 皆の笑いを誘う。
 本堂で待っていると、紫の法衣を纏った陵慧老師が年若い黒の法衣姿の僧侶を従えて入堂してこられた。
 導師席の老師の厳かで堂々としたふる舞いと佇まいに崇高さを抱く。本堂内に気が満ちる。鐘が打たれ、その音が集中力を高めてくれる。
 粛々と朗々とした読経が始まる。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界
無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪
是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰 
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶
般若心経
 間を空けず、初めに戻り、さらに読経が続く……。                     

 読誦が終わって老師はじめ僧侶の面々が本堂を出ていかれても、私の中ではまだまだ読誦の声が響き続けていた。

        *

 隋唐寺の大門を出て少しばかり参道を下ったところで振り返ると、西空の薄水色の画布に、すっと刷毛でひと掃きされたような朱色の筋雲がたなびいていた。
 本堂での読誦が終わった後、参加者全員が坐禅堂に移動し、薄暗い静謐な部屋の壁に向かって各自が自分流の坐禅を組んだ。警策をいただくたびに集中力が高まり浄化されていくように思えた。
 ……眼を見開けどなにも見えない。なにも映じない。なにも知覚できない。真の闇とは、見ることも、触ることも、聴くことも、深浅を測ることもできない。概念すら存在しない。意識など差し挟む余地もない。まさに「無」であり、「空」である。  
 老師による『般若心経』の空なる思想、教えの講話は、なんの妨げも抗いもなく私の中にすとんとそのまま降りてきた。腑に落ちた。 
 ――あらゆるもの、すべての事象が「空」なる実体のないものと思い定めると、心が軽くなる。心底そのように思うことができる。
 執着や囚われがなくなれば、瑣末事に思い悩むこともなくなる。日々を自由に、解き放たれた身と心で生きていくことができる……。

 爽快な気分だった。今回の「隋唐寺参禅会」を強く勧めてくれた友人に感謝していた。
 浮世離れした友人の顔とわが奥さんの幼顔が同時に浮かんできて、思わず頬が緩んだ。
 またあの真闇の洞窟に足を踏み入れ、わが煩悩が少しでも軽くなることを願いながら、いま一度『般若心経』の説く「空」を体感したいと思った。

      

 引用の経典漢文は、唐三藏法師玄奘訳『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(649年)。訳文については、流布する諸解説・解釈を参考に我流意訳したものです。
 尚、巻頭写真は、弘法大師・空海が最初に創建した第一霊場・東長寺にある国内最大の木造大仏(福岡大仏)像。台座下に設けられている闇通路「地獄極楽巡り」体験がこの掌編執筆の動機になりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?