阪神大震災から28年、当時を知らない若者たちが“誰か”の体験を伝える意味
「どうして私のことを取材しようと思ったのですか?」
昨年11月、阪神大震災を語り継ぐ人々にお話を聞く中で出会った米山未来さん(28)は、取材者である私にそう尋ねました。
あの大災害の発生から28年。当時の状況を直接知る世代も高齢者が増え、記憶や教訓の継承と風化の防止が年々大きな課題になっています。
神戸支局で阪神大震災の取材を担当している私は、今年の取材テーマを「震災を経験していない世代の継承活動」に決め、こういう記事を書きました。
記事でも紹介した米山さんは、被災当時の状況やその後の復興について伝える「語り部」の父・正幸さん(56)のもとに育ち、自身もまた同じ志を持って活動する「語り部2世」です。
頑張っている人のことを読者に伝えたい。取材者として、そういう思いはもちろんありました。
でも、個人的にはもう一つ、震災を経験していない若い語り部だからこそ話を聴きたいと考えた理由があります。
それは彼女たちの活動と、私たち記者の仕事との「共通点」にありました。
(神戸支局・森脇江介)
■ 「経験者」しか語れないのか
取材の中で「最初は語り部になることに抵抗があった」と語った米山さん。立ちはだかった壁は「語り部は『経験者』が担うべきだ」と考える人たちからの批判でした。
阪神大震災の発生当時、彼女は生後2カ月。語り部として伝えている「被災直後の状況」は自分自身が経験したことではありません。ライブ動画配信サイトなどで発信していた時には「あなたの話に信ぴょう性はあるのか」と問われたこともあるそうです。
「どんなに話を聞いて勉強しても伝聞調になってしまう」。そんな若い世代ゆえの悩みにどう向き合ってきたのかを尋ねると「他の被災地の語り部の人でも、同じような批判を受けた人がいる。それを知ってからは、私と同じ悩みを抱えている人がいると思えるようになって少し楽になった」と話してくれました。
経験がないことは米山さんにとって課題であり続けています。それでも活動を続けようとする背景にあるのは「誰かが継いでくれると期待するのは無責任なのではないか。継ぐなら自分しかいないのではないか」という切迫感でした。
心のどこかで「自分しかいない」という決意や覚悟を持ち、迷いを振り切りって課題と向き合う。米山さんの真摯な姿勢に私も多くを学びました。
■ きっかけが伝われば…
自分が経験していないことを、人に聞いて言葉で表現する。その営みは、私たち記者と本質的には同じです。
記者の業務も「人のことを書くのが仕事。決して主役にはならない」と言われます。誰かから聞いた話を、使える言葉や字数が限られた中で、記事の形にまとめていく。私の場合、その結果できあがった文章が、どこか自分の言葉ではないような気もしていました。
私が書いた言葉は、誰かに伝わるのだろうか。
直接の被災経験を持たない語り部の人たちを取材しようと思い立ったのは、そういう不安と向き合う中で出た一つの答えでした。
私たちと同じように、自分の経験ではない、人に聴いた話を誰かに伝えようとする若い語り部たち。その活動を知った時、私は彼らとともに考えながら、記者生活8年目に入った自分自身の仕事も見つめ直したいと思いました。それが、米山さんに取材をお願いしたもう一つの理由です。
長年、語り部として活動してきた米山さんの父、正幸さんには「相手に全てを分かってもらおうというのは無理です。何か一つでも考えるきっかけになることが伝わればそれでいいのです」という言葉をもらいました。温かいエールをいただいたと思うと同時に、少し肩の荷が下りた気がしました。
■ 「想像力」のその先に
東日本大震災の被災地を訪れたことがきっかけで、防災啓発への意識を持った語り部もいました。三重県出身で神戸大4年の堀田ちひろさん(22)。彼女は、災害ボランティアとして訪れた被災地の風景を見て「自分の故郷と似ている」と感じたことがきっかけで、その故郷もまた「災害に襲われる可能性があるのではないか」と考えたそうです。
記者として、その豊かな想像力に圧倒されたことを伝えると「自分では、そう思ったことはないんですけど…小学校の通信簿に『感受性が豊か』と書かれるようなタイプではありましたね。小説とか、没入して読む人間だったので」とほほえみながら答えてくれました。
そんな堀田さんも、語り部として人に話す時に相手のことをうまく捉えきれていないと感じることがあるそうです。「高校生を相手に初めて語り部をした時には、相手が何を考えているか分かりませんでした」と打ち明けてくれました。
日々、相手の気持ちに思いを馳せ、伝わる語りを目指して試行錯誤する堀田さん。彼女が想像し、悩む姿を見て、私も記者として可能な限り想像を巡らせていくことの大切さを再認識しました。
■ 伝え続けることの意義
震災から28年となった1月17日、私は追悼行事が開かれた神戸市中央区の東遊園地で早朝から夜まで取材をしていました。一昨年、そして昨年とコロナ禍で来場を自粛していた人が押し寄せ、会場は犠牲者の遺族や友人、元同僚といった人たちであふれかえっていました。
遺族の方に声を掛けると、最初は戸惑ったような表情を見せながらも、徐々に言葉をつないでくれた人が何人もいました。
ある遺族は「自宅の…仏壇が倒れて、母が下敷きになって…」と当時の様子を思い返しながら、ぽつりぽつりと語ってくれました。
話を聞いていて「つらかっただろうなあ」という想像が働くと同時に「この人は今この場所で、他の誰でもない、私に話を引き継いでくれているのかもしれない」という感慨と切迫感で胸がいっぱいになり、涙が出そうになりました。
第三者として赴いたつもりが、自分もまた、集い、聞き、語る人々の一部になっていたのだと気づかされました。
どんなに丁寧に聞き取ってもこぼれ落ちるものはあるし、どんなに丁寧に語っても語り尽くせないことがあります。職業としての記者は、相手と距離を取って客観的に物事を捉え、冷静な視点で文章を書かなければならない時もあります。
そうであってもなお、記憶の媒介者として話を聞き、語り続けたい。どんな時代になっても、この媒介者としての仕事はきっとなくならないし、なくさないためにも丁寧に取材したい。この取材を通じて、改めてそう思いました。
「語り部2世」に関する森脇記者の解説はPodcastでも配信中です↓
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