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【考察】 ドストエフスキー 罪と罰(下)

『罪と罰』(下)の考察です。前回の内容はこちらから。

前置き

前回では、貧は罪ではないこと、また貧困生活を送るカテリーナを例に、環境そのものが罪であることについて触れました。

「すべては環境に支配されています、人間自体は無に等しいのです」
ーレベジャートニコフ

では極貧生活に陥った平民らは、どのようにして貧しさから逃げ出すことができるのか?その手段は?この難題に対し、主人公ラスコは精神的に少しおかしくなってしまうほど悩み続けます。ラスコ自身も、先ほどのカテリーナと変わらずとても貧しい生活を送っていました。彼は時間をかけ、鋭い頭脳でじっくり考え抜いた結果(元法学部学生なので結構賢い)、最終的な手段として「金持ち老婆を殺す」ことを選択するのです。なぜ彼は老婆の殺人こそが最善の選択肢だと考えたのか。また、この彼の殺人は「罪」と呼べるものなのか。ちなみに物語では、彼が老婆をただ金銭目的のために殺していないことが明らかになっています(殺人後、老婆の金品を使っていない)。殺人の理由はもっと人道的で、彼自身の革命的な熱意によって実行されたのです。

テーマ2:老婆を殺したことは罪なのか

結論から話すと、ラスコは老婆を殺したことが罪だと微塵にも思っていません。彼の考えとしてはこうです:

人殺しも、良き目的を持ち、多くの人が幸せになるのであれば必要なことだ。現に、ナポレオンもたくさん人を殺し、世に必要な革命をもたらしたではないか!俺も、今の貧しい生活から母と妹を助けるために「革命」を起こしてみせる!

いきなりナポレオンってなんやねんという話ですが、ひとつひとつ紐どいてみます。

まず、この議論の一番の争点は、「一つの悪は、多くの良きもののために許されるのか」の部分でしょう。本文でこんな台詞があります。

「大きな目的が善を目指していれば、一つくらいの悪業はは許される......一つの悪と百の善業です!」ーラスコの主張

この「一つの悪と百の善業」という言葉は、本書で何度もくり返し登場します。果たして多くの人の幸福のために、一つの悪行は許されるのか。賛否両論あるところですが、ラスコは証拠として革命家ナポレオンを例として挙げます。彼の言い分はこうです:

ナポレオンは革命のためにたくさんの血を流したが、結果的に多くの国民に有益をもたらすことができたから尊敬されている。そうであれば、たとえ残虐な行為であっても、革命をもたらすためであれば少なからず悪業は正当化されて当然なのではないのか?

現に彼は「今まで歴史上崇められてきた偉人たちも、争いの中でたくさんの血を流してきたが、人類に有益さをもたらしたらか尊敬されているじゃないか」と指摘します。また、議論が白熱すると「偉人はみんなひとり残らず犯罪者だ!」とも主張します(なかなか過激)。この考えを自分自身に当てはめ、彼は「みんなに嫌われている、意地の悪い老婆を殺した方が世の中的にも徳だし、それによってお金ももらえるなら俺の家族も幸せになる。だったら殺した方がいっそ徳ではないか!」と考えたわけです。

この考えは功利主義が論する、「動機よりもその行動がもたらす帰結を重視する」考えが反映されています。ちなみに、この功利主義は1958年に主張された考えであり、ドスさんはこれに先立って主張していたといえるでしょう。まさに未来の預言者です。そんな彼の考えはこんな台詞でも反映されています。

「人にとって有益であれば高尚になる」ーラズミーヒン

どんな言動でも、結果が「有益」であれば、それらをもたらした言動はすべて「高尚」になる。シンプルですが、当時のキリスト教の教えを背き、古い価値観を壊す、とても新しい考え方です。まさに革命期に入ろうとした当時のロシアを象徴する、進歩主義者的思想だといえるでしょう。

ピョートルという人物

この「人にとって有益であれば高尚になる」考えをより色濃く描写するために、ラスコと比較描写されているピョートルという人物について少し触れてみます。

ピョートルはラスコの「老婆を良き目的のために殺した」、つまり「良き目的を持って残酷な行動をした」こととは対照的に、「残酷な目的を持って良き行動をした」人物です。まさに正反対ですね。

例をあげると、ピョートルがラスコの妹に婚約を申し込む場面があります。彼は婚約前に、「好きだから」という純粋な理由で、貧しい妹とその母に金銭的に援助をします。表上では妹を心から愛し、お金と地位がある、誠実で素敵な男性を演じるわけですが、実は彼女を利用しようという自分勝手な理由で婚約しようと考えていたのです。もう少しくわしく説明すると、彼は「貧しい女を妻にもらえば、彼女は一生俺を救世主として崇めるだろうし、また可愛いから社会的にも認められ上流階級に仲間入りできる」とにらんでいたわけです(こわすぎ)。そんな彼の「妹と婚約する」という行動と、「老婆を殺した」ラスコ。どちらの行動の方がより「人間的に高尚」だと評価しますか?自分の利益だけを求めて「お金を渡して婚約を申し込む」行動をしたピョートルか、自分の愛する家族を守るために「老婆を殺す」ラスコか。

先ほどの「人にとって有益であれば高尚になる」という考えや、ラスコ自身の「一つの悪と百の善業」という観点から見れば、より人間的に高尚なのはラスコの殺人であるといえます。しかし、彼が犯した殺人は無論世間的には法律上必ず「罪」ですし、そこでは本物の血が流されています。この矛盾点を、ドスさんはあえて読者に見せつけ、人間の本質的な高尚さとはなにか、人としての真の道徳心とはなにか、という核心に迫っているのではないのでしょうか。

最後に

身構えていたドスさん小説ですが、意外と読みやすかったです。今回は自分の考えは書かず、本書が訴えているであろう議論と、ドスさんの見解を「考察」してみました。正直、自分の脳ではまだきちんとした考えを持てずにいるので、ドスさんのことが詳しい誰かと話してみたいものです。どこかカウンターのある落ち着いた喫茶店で、オーナーさんが小説好きで、静かに小説について議論する、みたいな場があればいいのになあ(村上春樹ぶるな)。

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