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「花屋日記」17. もう「負けて」もいい。

 花屋の仕事は意外にハードで、私はなんと2ヶ月ごとにスニーカーを買い直さなければならなかった。毎朝、段ボールを踏み潰したり、台車や脚立を動かしたりしているうちにいつの間にか、穴が開いたり、ソールが剥がれたりしてしまうのだ。もちろん勤務時間はずっとカウンターで立ちっぱなし。たまに重い物を運ぶ際に首を痛めて、某バンドのドラマーのようなネックサポーターを着用したまま店頭に立ったりもした。
 甘いと言われるかもしれないが、今まで体育会系なノリを体験してこなかった自分としては、こんな肉体労働は初めてだった。ファッション編集部ではみんな着飾ってハイヒールで働いていたものだが、今や私が着用しているのはデニムとTシャツと、土で汚れたエプロンのみだ。

 しかし、たくさんの花に囲まれる環境は、やはり自分も他人も幸せにするものらしい。汗だくになって花桶を運んでいても、通りがかりのおばあさんに突然呼び止められ、
「あなた素敵なお仕事をされてるわね! お花を見て怒る人なんていないもの。羨ましいわ、輝いてて」
と言われたりする。知らない人にそんなふうに感じてもらえることが、なにより新鮮で嬉しかった。仕事なのに、仕事じゃないような反応を得ることが時にある。

 日々の業務はうまくいかないことの連続で、悩み、迷い、落ちこむことも多いが、こうやって他人目線で見られたときに私はやはり、好きなことをやれて幸せなのだろう。例えば嫌々作ったシェフの料理を誰も食べたくないのと同じように、花屋もまた、花が好きで好きで仕方ない人がやっているべきだと思う。私自身もつねに花が大好きな花屋でありたかった。

 ある日、お客様のアンケートに
「印象に残ったスタッフはカイリさん。他のお客さんにポインセチアの説明をしているのを聞いて、ほんとうにお花が好きでこの仕事をしている方なんだと思いました」
というコメントがあった。ほかの方への接客まで見てくださる人がいるなんて思いもしなかったし、そんなところを評価してもらえることも驚きだった。ファッション雑誌を作っていたとき、私は企画力や業績や強力なコネクションなど、そんなことばかりに振り回されていた。とにかく「負けないように」必死だった。でも今の私にはそれ以外の指針がある。

 毎日、いいことばかりではけっしてない。でも
「自分の仕事を愛し、その日の仕事を完全に成し遂げて満足した。こんな軽い気持ちで晩餐の卓に帰れる人が、世にもっとも幸福な人である」
というジョン・ワナメーカーの格言を、私はときどき思い出す。自分がどんな気持ちで帰宅してるか、日々確認しながら。

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