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俺はお前を超えていく

音楽を流しながらお読み頂けると
更に雰囲気がでます(笑)

小学校1年生の時に
地元のサッカークラブに入った。

プロのJリーガーを後年輩出するような
クラブだったから本気度は「鬼」レベル

小学2年生の夏にキーパー指名された
キーパーだけど練習は走る事だし
水は飲ませては貰えない。

散々疲れた末に待っているものは
コーチが目の前で丸くなるから
それをただ横跳びする練習

サポーターは着けているけど
当時の物など貧弱だし
ジャージは許されないから
生傷の絶えない毎日だった

クラブに入ったのは単純な動機だ。
友達だった子が入っていたから、
その子は2年生の時に辞めてしまった。

でも入ってしまえば辞められない。
そういう性格なんだ

練習は土日も含めて週5だった
ずっとキーパーでレギュラーだったけど
同じ学年の子は15人くらいだから
誇るほどのことではない。

だけど4年生の時グラウンドが使えなくなり
近くの学校で活動しているクラブと合併した。

一気に30人以上の同学年。
仲間が増えた喜びより大人数に戸惑った
気が合う子もいれば気を遣う子も増えた。

そして夏休み前のある日
練習に行ったら全体を見る監督に言われた

「お前はもうキーパーやらなくていい」
「え?」

サポーターを別の仲間に貸すように言われた。
親に買って貰ったものなのに
意味がわからない。

キーパーだからゴール前をうろうろ
していると監督から罵声が飛んできた

「キーパーやらせないよ?未練がましいな」

意味がわからなかったけど、
子供心に随分酷いことを
言われたのはわかった。
少年サッカーで本を出す人だったから
とても権威のある監督だった

普段は同じエリアに住む子供たち
楽しく話しながら帰るのだけど
その日は殆ど無口だった。

落ち込んでいるというよりは
何がいけなかったのだろう?
2週間前くらいに熱が出て、
試合を休んでしまったからかな?
迷惑をかけたからと自分を責めた

合同チームは30人以上いるから
1軍、2軍、そして1個下の上手な子供体が
上の年代に組み込まれた3軍に分かれ
3軍に落とされた。

今までずっとキーパーだったから
周りの子よりバランスが悪い。
そのくらいは解る小学4年生だった。

憤りや哀しさの前に意味が解らなくて
親父が仲の良かったコーチから話を聞けば
総監督と人数が多くなったことで
レギュラーではなくなった子の親御さんが
仲が良くて
キーパーにすればいいとのことだったらしい。

小学4年生には重すぎる話だ。
親父は相当憤慨してくれていた。

『もう辞めろ。辞めていいぞ
 お前が無理に頑張る必要はない。』

そんな親父の言葉に救われたのもある
でも、どこかキーパーは向いていない
気がしてもいたのもある。
辞めるにしても下がった状態で
なんとなく辞めたくないのも性格なんだ

晩年親父とは
喧嘩して実は死に目にあっていない
葬儀に出るのもいやで、オヤジの遺体をみても
何の感傷もないほど葬式の時は
心がやられていてんだ

でも、オヤジのポケットに入ってた手帳には
俺のこのころのサッカーボールをもった写真

死ぬ間際に俺を褒めていたらしい
それがこの時の言葉だ

「ここで辞めたら負け犬じゃないか」

俺は覚えてないけど涙が溢れた
景色が取り戻せたのはこの時のおかげかな

今じゃ生者は一方的に「ごめんなさい」
それしか言えない墓参りになる。
ずるい親父だ。

4年生の夏休みに入ると。
練習のある日もない日も
ボール一個もって近くの広場で
夜21時くらいまでリフティングをした。
もう本当にリフティングだけだ

つま先だけでボールを何度もつく
30回できた、50回できた
やったー!100回できた
128が今の最高か
いきなり200回と大更新したり

もうそれだけの夏休みだった。

元々集中力はあるほうなので
あほみたいにただボールを蹴るだけ。
でも夏休みが終わるころリフティング回数は、
周りが100回できると自慢する中で
つま先だけで400回できるようになっていた

それだけ練習すれば
流石にボール回しが上手くなる。
5年生の時には2軍に上がった。
6年生の時には全国大会もあるし

全国大会に出て優勝した!!
みたいなドラマは当然ないし
1軍に上がりたかったけど無理だった。

でも全国大会前にアクシデントがあり
俺の代わりにキーパーになった仲間
その子がゴールポストに頭をぶつけて
大怪我をしてしまい
全国大会に出れなくなって
上手いキーパーがいない状態になった。

それでも全国大会に臨まないといけない
「お前もう一度キーパーやらないか?」
と言われたけど断った。
そんなおこぼれ1軍は嫌だ。

それに2軍のキャプテンだったし
フォワードの方が向いていた。
キック力はあり割と
コントロールもいいから
コーナーキックからダイレクトに
何度か決めた事もある。

気持ちいいものだった。
キーパーの時は毎日泣くのを
我慢していたからだいぶ楽しい。
単純に楽しさを選んだだけかな。

全国大会に出るチームと目されていた一軍は
1回戦であっけなく敗退した。
6年の苦労は一瞬で瓦解した

皆、この時この瞬間を夢見て戦ってきたのに。
でも俺がキーパーをしても負けていた。
そんな気がする。

1クラブ1チームの出場だから
関係なく出れない2軍の俺達まで
巻き添えを喰らい罰として
永遠とマラソンをさせられたのはむかついた

秋になり
合併した学校の子達は林間学校だから
市の大会だけど参加することができず。
1軍の人数不足で補欠として駆り出された。

最初は自分に出番は回とてこなかったけど
準決勝の時に仲間の1人が負傷して
出番が回ってきたんだよね。

トーナメントで残り5分くらいの時に
かなり遠いところから
ロングシュートを決めた。
そう、コントロールには自信があるんだ
1体0で決勝に行くことになったんだ。

余談になるけど小学校でやる
キックベースは好きだった
4番にしてもらいホームラーン
10割打者だったから(笑)

話がそれた
迎えた決勝戦は
最初からスタメンにしてもらえた

2対1で優勝したんだよね。
都ではなく市にすぎない大会だけどさ
それでも優勝だ。

この時の2点は実は俺の得点なんだ。
1軍に昇格したよ。その地位は不動になった。

小学校が終わるとき
俺をキーパーから外した監督が尋ねてきた

「お前中学も続けるよな?」と

この時ははっきりこの人が嫌いだった。
「ごめんなさい。小学生で辞めます。」
と伝えたら結構渋られた。

親父にそのことを話したら
凄く嬉しそうだったことは確かに覚えている。

実家に帰れば強いチームだったから
全国大会こそ1回戦負けしたけど
いくつもの優勝トロフィーがある。

小学校の最後にそのトロフィーを
誰がもらえるのかの大会がある

それはリフティング大会なんだ
殆ど俺が取ったんだ
その時、総監督に言われたセリフは
覚えている。

「お前がもっていくのか」

当たり前じゃないか
火をつける相手を間違えたな
この時の間抜け面は忘れることはない。

あなたがくれた理不尽な挫折は
俺を強くしてくれた
だから感謝もしている

あの日悔しさを知ったから
あの日それを打ち返したから
少しだけ人の痛みが
わかる大人になれた気がする

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