性善説と性悪説どちらが正しいのか
性善説と性悪説は真逆の思想ですが果たしてどちらが正しいのでしょうか?
私はなんとなく、性善説と思ってましたが、改めて正しい意味を調べて考えてみました。
性善説
性善説の「性」とは「人の本質」、「善」とは「道徳的に正しいこと」を指しています。
ここまでは、認識通りかと思いますが、性善説の意味は以下です。
人は本来、善であり、努力次第で立派になり得る
私はもともと「人は本来、善である」が性善説の意味だと思っていたので、思ったよりも意味が違います。
孟子の言う立派とは、様々な解釈がありますが、「後ろめたさがない人生を歩みあらゆる誘惑に負けない」が立派と言うのかと思います。後ろめたさがないとは、礼儀や言葉使いはもちろん、志も世間に顔向けでき、選択や進む道は正しいものを進むということです。誘惑とは、地位や金銭は心を乱されず、貧困や暴力にも屈しないということです。
そして、立派になるためには「道徳修養に専念」すべきということが性善説の教えです。
善とは「道徳的に正しいこと」と冒頭に書きました。つまり、人の本質は確かに道徳的に正しいのです。しかし、その本来持っている「道徳的な正しさ」は努力によってより磨く必要があるということです。磨かなければより正しくなれないばかりか、現状持っている、善すらも失う可能性があるということです。
性悪説
性悪説の「性」とは「人の本質」、「悪」とは「弱い」を指しています。
そして、性悪説の意味は以下になります。
人の本性は悪であり、努力することによって善を獲得できる
「悪」とは、「悪い」という意味ではないのです。弱いとは「欲望」などのことです。
人の本性は悪とは、人はそもそも弱い存在で欲望に振り回されるという意味です。しかし、努力をすることで、「善」という「道徳的に正しいこと」を手に入れることができます。
つまり、性善説も性悪説も言いたいことは「努力をすべき」ということです。性善説は努力をしなければ、善を失う。性悪説は努力をしなければ善を得ることはない。スタートは違えど得るべきもの得るべき方法は同じです。
まとめ
立派になるために努力すべし
性善説・性悪説のゴールは同じ
冒頭に書いたどちらが正しいかということに関しては、個人的には性善説かと思いました。環境や教育・努力によって変わることは間違いないですが、何も教わらない場合は自分の中の道徳観で生きると思うので、その道徳観の正しさとは自分が決めることになるためです。周りから見ても悪でも自分の中では正しいとか考えると長くなりそうなのでこのnoteではここまでとします!
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