個になることは、こわいこと〜「近代化と世間」を読んで〜
「世間」ってなんだ?と改めて学んでみようと思った。そのきっかけがなんだったか、というのを完全に失念してしまい悔やまれるばかりである(本当はそれを書き出しにしたかった)。とりあえず少し前に買った本を読んだという話。
常識のように我が国で生まれ育った人間たちが用いる「世間」という言葉について、それがどこから来たかというところを解き明かす試みが本書では為されている。と書いてはみたが、そもそも著者は1995年に「『世間』とは何か」という本を出版していて、その後10年にわたって「世間」にまつわる書籍を著したのち、本書出版の2ヶ月後に亡くなっている。どちらかと言えば、著者の10年にわたる「世間」との戦いの最終レポートとでもいうべきものかもしれない。
著者の専門は西洋中世史であり、したがって「世間」の研究も西洋中世史との比較から出発する。のだが、比較のための説明であるところの第一章はとにかく当たり前のように専門用語が登場するし、時系列もあっちこっちに飛んでいってしまうし、抽象なのか具体なのか分かりづらいところが多々だし、という感じで大変読み進めるのに難儀した。知らないことばっかりだな〜と打ちひしがれる毎日です。
分からないなりにざっくりとまとめるのであれば、欧米社会における「個人」とは以下の要素が複合的に絡み合うことによって成立したという。
①物語の口伝過程において起こる個人性の発生
②世界の一元化を試み、均質的な時間・空間をもたらす宗教の登場
③「竈門」「水車」「貨幣」等、自然を支配できる機構の登場
その過程のさなかで起きた理と理外の摩擦、著者の言葉を借りれば「小宇宙と大宇宙の対峙」により、例えば死という言葉の示す意味が変容し、そうした変容が差別もまたもたらすようになったという。
「理と理外」について理解するためには、「もののけ姫」のストーリーが分かりやすいかもしれない。村が「理」で、アシタカにかけられた呪いが「理外」である。呪いにかかってしまったアシタカは村を離れなければならない。理と理外が切り離されていることを明示しているシーンかもしれない。本書においても「人間狼」の例示によって説明されているが、何か通ずるモチーフがあるように思う。エボシ御前の目論見は、言ってしまえば支配領域を広げることにあり、そこで理外(=シシ神さまの森)との摩擦が生ずる。
そして今では「理外」の領域はほとんど失われているが、一方で地域間のずれによる「対峙」が起こり続けていることは指摘されている。2006年当時はトルコ人差別だったようだ。かつては「フロンティア」だったのだろうか。そして今で言えば、移民やセクシュアリティを取り巻く諸問題がそれにあたるのかもしれない。
それらを踏まえてはじめて第二章にて「世間」とは何かが示される…かと思えばそうでもなく、どちらかといえば著者の個人的な体験が情緒たっぷりに書かれている印象を受ける。(とくに、国の行う大学改革に対する恨みが感じられる)本番は第三章の方で、日本における「世間」形成の過程が、欧米との対比あるいは丸山眞男の引用によってシンプルに示されている。
曰く、
日本においては1年を単位とした円環的な時間の流れが「古事記」の時代から連綿と続き、それに基づく価値観が仏教の伝来を通して「世間」という言葉で表現された。様々な文化が流入してくる中においてもこの時間軸は根底に流れ続け、現代に至った。
欧米においてはキリスト教的な価値観が浸透したことによる直線的な時間の流れが軸に据えられている。
この時間軸の違いが、欧米においては「個人の成立」をもたらし、日本においては「世間の形成」をもたらしている。
ということなのだと思うがうまく書けているかは分からない。ちなみに著者は、この対比で以って「日本の価値観に沿った学問が形成されてこなかったこと」を嘆いているように私には読めた。おそらくは今になってもそんな状態は続いているのだろうと思う。
いくつか疑問が残る部分、例えば中国史との対比はもう少し為されても良さそうだなということだったり、なんとなくもたらされる結論に飛躍的なものを感じたり、ということはあるが、総じて問題提起の書であり、著者自身答えを見つけ出せなかったのだろうなということが伺える。
しかし、「答えが出せないこと」自体がじつは答えだったりもする。円環的な時系列の中で「今を生きる」日本人だと自身が認めるのだとしたら、むしろそれしか答えにはなり得ないのではないだろうか。
それでも別の答えを出したいのだと思った時、何が必要であろうかということを考える。絶対的に手数が足りないのではないだろうかというのが個人的な見解である。例えば、加工貿易に象徴されるような日本の「魔改造」文化というのは、裏を返せば手数が足りないことで生ずる諸課題を解決するための苦肉の策とも言える。そのことを歯がゆく思う人々が、例えば「国防軍の創設」や「自主憲法の制定」を悲願としていたりもするのだろうし、おそらく答えを出したかったりもするのだろうと思う。
しかし、手数を増やすためのあらゆる試みは、おそらく明治維新以降我が国が威信を賭けて取り組んできたものと思われるが、結論から言えばうまくいってはいない。また、このままいけば「うまくいかなかった」で終わってしまうだろう。そもそもこの現実が果たしてどこからもたらされたものなのかというのは、本当に答えを出したいのなら再度点検する必要があるだろう。とは言っても、点検をする時間的な猶予があるかどうかは分からないし、答えを出したからといって幸せになれるかどうかも、また分からない。そう思うと、先人たちの歯痒さがちょっとだけ体感できるような気もしないでもない。
ところで、私はこの本を読みながら、二つのことを考えていた。一つは、類する書籍を再度読み直したい(例えば「銃・病原菌・鉄」など)ということなのだが、もう一つは「個人と福祉」の関係性である。本書を読めば読むほど、今の日本において語られる「福祉」とは欧米の価値観ベースであるように感じられてならない。「福祉」を標榜する団体の多くがキリスト教から出発していることも頷ける。
しかし、昨今語られる福祉のベースとは端的に言えば「自己決定」であり、そのためには「個人の成立」が為されていることが前提である必要があるだろう。ところが、本書において語られる日本的な「世間」が現在も生き続けているのだとしたら、この「自己決定」とは果たしてどのように「世間」に受け入れられるのだろうか、と思った。よくある議論として、日本において安楽死が導入された時、それは不要とされた人間を合法的に社会から追放する手段になるのではないか、というものがあるが、そんな危惧を抱かないことも無いわけではない。
これはあくまで個人的な意見だが、今の日本社会において「個」になるということは、正直言って結構こわいことである。なんというか、ここまでの言葉を借りればそれは自分自身を理外に置くこととイコールになりかねないような、そんな危うさを感じてならない。では、「個」になれる社会を作ることが正しいかと言えば、そんなこともないような気がする。それは決して現在の肯定というわけではないのだが。
こういった議論を語るために、おそらくは「世間」についての研究が必要であり、手数が必要なのだが、それでは課題が堂々巡りしてしまう。著者曰く、ほとんど研究が為されてこなかった分野だという。書けば書くほど袋小路な印象を抱かずにはいられないが、それでもなんとかなるだろうな、というのが日本的な価値観だったりするのかもしれない。
「そのうち何とかなるだろう」と歌われる曲があったことを思い出した。植木等の存在はある意味象徴的なのかもしれないですね。
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