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未熟な私たちに、キャリアプランは必要か

内田樹『夜明け前(が一番暗い)』を読んでいます。


昨年度末から「キャリア・パスポート」というものが導入された。
子どもたちが小学校から高校まで「自らの学習状況やキャリア形成を見通したり振り返ったりしながら、自身の変容や成長を自己評価できるよう工夫されたポートフォリオ」だそうである。 
小学校低学年から「やってみたいこと」や「おおきくなったらなりたいもの」を記入しなければならない。
どうして文部科学省はそれほどまで子供の成長過程を管理したがるのか。
どうして子どもが無駄な迂回をすることなく、決められた軌道を最短距離・最短時間で進むことが人生の緊急事だと信じられるのか。私には理解できない。

P.200


小学生の、10年程度の人生経験でえがく「キャリアパス」はどんなものになるのでしょうか。私の頃だと「スポーツ選手」「ケーキ屋」なんかが「将来の夢」として人気でしたが、今の子だとやはり「YouTuber」とかが入るのでしょうね。

ちなみに私の小学生の頃の夢は「タクシーの運転手」、中学生・高校生の頃の夢は「映画監督」でした。理由は単純で「車の運転楽しそう!」「映画見るの大好き!」というだけです。

小学校であれ中学・高校であれ、学生の段階で「キャリアプラン」を作ることに私はあまり意義を感じません。もし本当に興味のある職業やなりたいものなどがあるのであれば別ですが、そうでないのであれば、わざわざ考える必要はないかと思います。

人生経験が短く、視野も広いとは言えない子どもが、先生に言われて無理やり作った「計画」にどれほどの価値があるのでしょうか。無理やり捻り出した「やりたいこと」「なりたいもの」に沿って目標を立てたり振り返りをしたりするのなんて、考えるだけ退屈です。


私もそうでしたが、学生時代は社会のことも知らなければ、世の中にどんな仕事があるのかも知りません。学校や家族といった狭い人間関係の中で、スマホやテレビなどで得られる限られた情報に触れて生きています。

では、社会についての知識や、世の中にある仕事に関する情報をすべて頭に入れればよい仕事人生を送れるかと考えてみるとそうではないはずで、、、という話は長くなりそうなのでやめておきます。

いずれにせよ、そんな知識や経験も少ない状態でわざわざ自分の「将来」や「キャリア」を考えることに、どれほどの意味があるのでしょうか。「物事をなんでも管理したい」ビジネスマインド強めな大人の思いつきに子どもを巻き込んでいるような気がしてなりません。


こんなことを書いている私も、社会や仕事について知っているとはとてもじゃないですが言えません。いつまで経っても勉強不足・経験不足だなぁと感じます。

ただ、そんな私ですが、「こうなりたい」という自分像はあります。

それは、「将来の自分には、今の私では想像のつかない、未知の自分であってほしい」というものです。

私みたいなシャバ僧がヘタに自分の将来なんか考えようとすると、「起業」だの「年収1000万円」だの「広い家に住む」だの、誰かの手垢のついた、視野の狭い考えが浮かんできます。

これらの考えも、昔読んだ自己啓発本やNewsPicksのようなメディアから影響を受けているだけで、私の本心ではありません。誰かの受け売りや今の自分レベルで将来を考え、それの達成を目指そうものなら、しょうもないことになるに決まっています。

未熟な若造の頭でプランを立ててそれに向かって生きるよりも、「今の自分が想像もできないような、未知の自分になっていてほしい」というのが、私の考え方です。「こうなりたい」「この仕事につきたい」というものも特にありません。だいぶ投げやりです。

10年後・20年後の自分には、「そっちに行ったか…!」「なんでそこにいるんだ…?」と思えるような、予想のつかない自分であってほしいのです(お金に困らない状態にはなっていてくれると嬉しいですね)。

「今の自分からは予想のつかないような自分になりたい。自分でプランを考えるより、成り行きやご縁に従う方がよさそう」というのが、今現在の私が行き着いた、青臭い結論です。子どもたちや他の大人たちがキャリアプランを考える中、私はこんな結論に至りました。

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