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目的は手段を正当化する。その悲しい覚悟。

 全文は有料会員じゃないと読めません。中学生の相談に政治学者の姜尚中さんが答えています。要約すると、部活の顧問が生徒を叱る時に「バカ」や「アホ」と威圧的で、投稿者の中学生はフラッシュバックして怖くなるようになった、担任の先生に相談しても「頑張ろうよ」という具合。投稿者は「どうして大人は全然変わってくださらないのでしょうか?」と相談をしています。

 「目的は手段を正当化する」というのはロシアの革命家の言葉だそうです。同時に並べるのは恣意的ですが、2009年公開の映画「クロッシング」(アントワーン・フークア監督)の冒頭では「正しいことを間違った方法でする」というセリフがあり、メリーゴーラウンド方式に進む物語においては通奏低音のような言葉です。自分には何にも関係がない中学生の悩みとその答えではありますが、僕も目的のために手段を正当化してみたいと思います。

 昨今、パワハラというくくりでプロアスリートが指導者や団体を告発する場面を見聞きします。社会全体がパワハラに対して敏感になっている反面、まだまだその実体が明らかになっていないんだろうな、と思えます。スポーツの現場だとそれが浮き彫りになりやすいようですが、実際には会社や、家庭にだってそれは、ある。

 体罰に関する議論は常に、残念ながら大きな犠牲があってから活発になります。個人的な印象ですが、以前から議論は形成されていたけれど、2000年代後半当時の体罰事故を受けてやっと「体罰は絶対にNG」という一定の答えが出たように思います。さらにその背景には「ゆとり教育」の再考も関係していたのではないでしょうか。体罰事故の加害者が「しつけのつもりだった」と答えるのは常套句です。わりと同時期に扱った二つの案件、インタビューと対談を思い出します。

 一つは2012年に亡くなったテレビコメンテーターへの取材の中で。ゆとり教育に反対の立場で「いま(子どもの頃)詰め込まなくていつ詰め込むんだ」という言葉が印象に残っています。迎合はしませんが「そこは吟味してみてもいいな」と思いました。
 もう一つは元五輪メダリストの女性スイマーと元プロ野球選手の対談。学生時代の練習について「理不尽な練習と厳しい上下関係があった(野球)」「根性練やりました(水泳)」という話から共通して「あれがあったから今がある(共に苦笑しながら)」という結論になりました。番組とするのには、その苦笑を視聴者がどう受け取るのか、ということを気にしながら編集したことを記憶しています。

 僕は今40歳を過ぎていて、会社では20代の社員が90%を占めるような環境で仕事をしています。家庭に帰れば12歳になる男児がいます。共に、怒られることよりも怒ることの方が多そうな環境ですが、実際には両者から怒られることが一般的な40代よりも多いんじゃないかと不安になるくらいです。それでも、彼らが怒る、とか叱るのと、僕がそうするのとでは意味合いが違ってくることを僕は知っておかなくてはいけません。ボクサーとか格闘家が街で喧嘩をして罪に問われた時に、凶器を持って喧嘩したことと同じ扱いになるようなものだと。

 千葉県の小学4年女児が虐待死したこともまだ記憶に新しい。
 酷い両親(特に父親)と児童相談所の不手際が連日報道され、児童福祉法の改正という動きにも繋がっています。法改正の内容の中には児相の介入機能強化もあり改正的ではあるけれど、虐待や体罰に至らないためには、親や上司、教師なんかが「自分が武器を持っている」という意識を涵養していく必要があるのではないでしょうか。その武器は、意図せずとも不本意な結果をもたらしてしまうことがある。「体罰絶対NG」は大前提は子どもなど、体力的、立場的に弱い人たちを最悪の事態から守るためですが、体力的・立場的に上の人が不本意な結果を招いてしまわないように身を守るためでもあります。それに、物理的な暴力も言葉での精神的な暴力も、使う側の理解を促す力が未熟だからということに尽きます。

 いやいや理想の子どもではないことに腹を立てた身勝手な父親と、行き過ぎても指導という高邁な精神性が伴う教員は一括りにできないだろう、とは思わない。力づくで相手に言うことを聞かせる、っていうのはやっぱり同じで、正しい方法では、ない。ガンジーは非暴力抵抗運動を行ったと言うけれど、ハンガーストライキは自分自身への暴力だ、という話もあります。

 元プロ野球選手は別の取材でも「理不尽な練習」について語っていますが、あの時の苦笑には「生き残ったから言える」という現実が含まれるように思います。TVコメンテーターの言う「いま詰め込まなくていつ詰め込む」のかについては、その結論を延ばし延ばしにしていれば子どもはあっという間に年を重ねてしまう。けれど、一方では「いま詰め込まないけど、本当に詰め込まないといけないんでしたっけ?」という議論もなされないといけない。

 姜尚中さんは相談に対して、中学生のPTSDを心配しつつ、友達や先輩への相談を勧めます。そして、”あなたが将来、大人の仲間入りをする時でも、「心友」があなたの側にいれば、きっとそれだけで世の中は捨てたものではないと思えるはずです。”と締めくくります。

 そう。ほんと、そう。誰かに話すことを諦めちゃいけない。誰かの話に耳を傾けることも忘れちゃいけない。「由らしむべし,知らしむべからず」はペリー来航までの幕府の政策理念だっという。民に教える必要はなく、従わせるものだ、という考え方。
 上になる人は特に、とてもそんな悠長なことは言っていられないくらい、決断をすぐに迫られる局面がたくさんあるのもよくわかります。ITで生産性が向上されたのだからその恩恵として考える時間って増えたはずじゃないのかよ、と何か裏切られている感じもありますが、きっと団塊世代が退職しているし人口が減少しているのに満員電車で通勤しなくちゃいけないようなものなのでしょう。みんな条件は同じで、以前よりはマシになっているはず。

 目的は手段を正当化する。
 まだ「由らしむべし」の時代、吉田松陰は志半ばで死刑にされていきます。その吉田松陰もまた高邁な精神でこそあれ「狂」的に政治意志を貫こうとした人だったと聞きます。今の政治家も「狂」的な意志が人気なようです、どうやら。そして、経営者もそう。決断が速いことが優先されるのと「狂」的であることはリーダーとして君臨するためにセットにすらなっている。政治家なんかはよく話を聞いてみれば、本人がそれを望んでいるのではなく、あえて「狂」的であろうとしていたり。「狂」的でないと政治家になれないからそれを演じているという。目的としては「(自分が信じる)より良い社会としてこんな社会を作りたい」。その手段として「(本当は自分はあまり信じないけど)こういう思想が市民にウケる」。それで「政治家として良い社会を作ることができた」という結果によって正当化されていくという見込み。本当に議論されるべき社会課題なんかを訴えたって、すぐに答えが出ないような思想は市民にウケないから政治家にもなれず、結果、社会も変えられない。安倍さんが憎いという人がたくさんいますが、本当は安倍政治が憎いのでしょう。「勝てば官軍やさかい」とうそぶくのには、それなりに悲しい覚悟がある。

 ところで、
力づくで相手に言うことを聞かせるという方法は間違っている」というのは一種の参入障壁みたいなもので、実は頭のいい人や、その(どの?)筋の人たちは余裕で力づくで相手に言うことを聞かせているのかもしれません。都市伝説みたいなもので、ちょっと怖い仮説だけれど。「今はしょうがないから力づくで相手に言うことを聞かせるしかないんだ、他にいい方法があるなら言ってみろ」というのは、実は「他のいい方法」は議論が難しいので答えを出させないようにしておいて、手っ取り早い力づくを余裕で行使している。と言ったらどう思われるだろう。たしかなことが一つ。あえて力づくで相手に言うことを聞かせることをするような存在が体制であるならば、力づくで相手(体制)に言うことを聞かせようとする革命を僕は支持します。力づくで押さえつける上司や教師、親なんか殺しちゃえ、という話ではないのですが、上に立つ人はぶっ殺されないように気をつけた方がいい。

 生業としてPR業界にいますが、PRって何だろう?と考えると、いかに少ない力で相手に言うことを聞かせるか、ということを商売にしているように思えます。良いPRマンってやっぱり、レバレッジを効かせてクライアントの利益を最大化する人でしょうか。広告というのはどこまで行っても、目的のために手段を正当化するものなのでしょう。「えげつない」と言われても否定はできません。そのえげつなさに、人情味を醸し出させておいて、それがなんと人を惹きつけるための手段だったりするのだからもう何を信じたらいいのか分からないという。案外、悪意もなくそれをやっちゃう広告人もいて、むしろ悪意なくやっちゃう派の方が多いのかも。震災後に、比喩的な意味でわざと暗闇にしておいて光を照らすような演出のCMや番組をどれだけ見たか。本当に、その作った暗闇って必要ですかね?

 そんなPRの業界、広告の業界に、まだ当分は僕はいるのだと思います。正しいことを間違った方法でしていくことも多々あるのでしょうが。こんな冗長な文章が手段で、目的は自分の理想の実現。あるいはその目的は、こうやって吐くことが気持ちいいだけなのかもしれません。

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