Pさんの目がテン! Vol.77 緊急寄稿!二つの「議会占拠」 ピエール・ルジャンドル『ロルティ伍長の犯罪 〈父〉を論じる』(Pさん)

 トランプ大統領の信奉者が、大挙して、連邦議会に、ある者は銃を持って押し寄せ、一時占拠し、その機能を停止させたというニュースを、今日未明にツイッターで見掛けた。
 事態の背景や、アメリカの現在の状況というものについて、僕がしっかり理解できているかは、はなはだ心もとない。しかし、何となくアメリカの政局を眺めるくらいのことはしていて、これが常態ならざる事態であることは、わかった。
 そこで、自分なりに、ない頭をしぼってあれこれと考えをめぐらしていたけれども、一冊の本が頭を過るばかりだった。

 この本の著者は、大ざっぱにいえば思想家、もっと細かく言うと、人類学者、西洋中世史家、法制史家、という感じの活動をしている。
 主著は、じっさいの講義をもとにした、『ルソン』、英語でいうレッスンと題されたシリーズで、ひたすら、この人独自の学問といっていい、「ドグマ人類学」というものから派生する内容を取り扱っている。
 僕の読んだ中では、そもそもドグマ人類学とはどんなものか。西洋というものがどこから生まれたか、哲学と宗教で追究されてきた、西洋的「真理」とは、その外側から見たら、どういうものであるのか、といった内容だった。たぶん十年近く前に邦訳を、いくつかは除いて読み、いたく感銘を受けた。
 まず、精神分析、それからキリスト教、キリスト教会史、そして法学と人類学について、ガイドラインさえあれば、読み込んでいく度に、他の本では得られない納得感が得られる、僕はそう感じた。
 しかし、いかんせん難解だ。難解さにも種類があるけれども、この場合は、さっき引いたガイドライン、それもある程度の所で切り離され、あとは全く独力で得心しなければならない、という類のものに思えた。あるいは、仲間がいない、と言い換えられるかもしれない。
 そんな中で、今話題にしている『ロルティ伍長の犯罪』はどういう内容になっているかというと、法律を打ち立てる要となる、殺人の禁止というものの内実はどうなっているのか。法律というものはなぜ生まれ、何の役に立つのか(それの本当の意味は、現在言い慣わされているものから、いかに離れているのか)ということになる。
 そして、それらについて、当時、現在進行形で裁判が行われていた、一九八四年に起こった、カナダに住むロルティ伍長という人が、銃を持って国民議会堂に侵入し、制止する何名かの人々に向けて発砲し、自身が議長席に座り立てこもる、という事件をひとつのケースとして、考察しているのである。
 しかし、これは単なるお勉強、客観的な観察、研究といった趣では全くなかった。ルジャンドルが、どう主体的にこの事件に関わっていたかということも、この中に書かれていて、その辺はじっさいに読んでもらいたい。
 まずは精神分析と法という部分で、私達が表面的に接する犯罪の情報としてよく目にするのは、精神鑑定と、その行使による責任能力の有無、そこから演繹される無罪化ではないだろうか。ルジャンドルは、その慣例に待ったをかける。
 かんたんに言うと、その、人が狂ってしまった、ゆえに自分の意思に反して行動してしまう(あるいは無自覚に行動してしまう)、ゆえにその人は自分のしたことに責任を持つことができない、という、この一つ一つの理由の節目を、全て再考しようというのである。
 法律が、人間という主体に対して執行されるにあたって、慣例となった、もはや土台となってしまった無条件で肯定されてしまうルールについて、今一度再考を加えるということは、土台を全部ひっくり返すことであり、考えもつかない大仕事である。なぜ、そんなことをしなければならないのか?
 それは、彼(ロルティ)を救うためである。罰することを以て。
 先走って結論を書いてしまった。本当はこんな書き方は慎むべきである。
 本の通りに進めば、本論は、起こった事実を説明する前に、かなり遠回りをする。それでも一冊のうちに結論に至るのだから、まだ良い方であるかもしれない。なぜそんな回り道をしているのかといえば、私達が、脊髄反射的に発してしまう、「父殺し」や「狂気」という単語を聞いた時の反応を、念入りに一つ一つふさぐ為である。
 だから、「結局何が現実には起きたの?」ということを気にしながら読んでいると、たぶん、じれったく感じるであろう。この一犯人が起こした一事件と、人類が生き延びるための措定とやらに、何の関係があるの? ああ、「父殺し」なら知ってるよ。要するにコレコレこういうことでしょ。なるほどね、ロルティにはそんなコンプレックスがあったのね。かわいそうに。云々。こういった、強い言葉でいえば駄弁を、封じなければ、この事件の筋が読めないのである。
 あるいは、私達が、いかに、何かの「事実」を、ああ読めたといって誤認してしまうかということでもあるかもしれない。
 そんな風に、たとえば日本の名の知れた精神科医の何某という人の本を読んだからといった、変な前提知識はここでは余計なものとなって、全く別の耳をもって聞かなければならない。何でそこまで? しかし、そこには、必ず、今まで聞き取れなかった声が、あるはずである。

 ひるがえって、二〇二一年のはじめに起きた、今回の「議会占拠」の事件であるが、片や一人の、「狂人」とされた単独犯、片や様々な政治信条の結びついた、たぶん少なくとも千人単位の集団という違いがある。国の背景も重要で(ルジャンドルは例の事件を分析するにあたり、ケベックという、カナダの一都市の性質というものにも深く言及している)、カナダとアメリカという違いもある。しかし、その集団がもち得た、幻想というか、狂気、それがどういったものなのか、おそらく、考えてみなければ、今回起ったことを理解することはできないのだろう、と感じた。

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