久世物語⑥【転換期】昭和の外食元年の幕開け
2024年、当社は創業90周年を迎えます。
語呂合わせで『クゼ』と、まさに久世の年。
90年という長い歴史の中には創業者や諸先輩の苦労や血の滲むような努力があります。
どのような思いが受け継がれてきたのか、私たちがどんな会社なのか。
「久世物語」をお届けいたします。
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【第6回】昭和の外食元年の幕開け
外食チェーンとの取引開始
1970(昭和45)年の第二次資本自由化以降、外食チェーンの日本上陸が次々と行われた。いわゆる「昭和の外食元年」であるこの年、ロイヤルホストの1号店が福岡県でオープンし、翌年にはモスバーガーやロッテリアが東京都内に1号店を構えた。
日本経済が大きく成長する中、ジャルパックなどのパッケージ旅行がスタートし、海外旅行が気軽に楽しめる時代を迎え、ホテルの建設ラッシュが続く時代。
入社後、営業次長となった健吉は、福松が開拓した社員食堂やレストランに加え、ホテルや空港、機内食のケータリング各社の開拓を積極的に行った。
業務用卸へと転換しつつあった久世は、外食チェーンや大手飲食店の開拓も行い、この頃に取引が始まったお客様は、後の久世に大きな示唆を与えることとなったお客様ばかりである。
また、同時期に後の東京支店となる3階建ての配送センターを建て、品ぞろえの拡充、在庫管理や配送などの物流機能の拡充を図った。
「お皿の真ん中へ」
従来の社員食堂やレストランに加え、外食チェーンという市場を開拓した久世は、これまで扱っていた調味料などの「お皿の引き立て役」から、ハンバーグやトンカツなどのメイン料理の提供にも手を広げるようになった。すなわち「お皿の真ん中」への進出である。
昭和の外食元年の翌年となる1972(昭和47)年からメイン料理の添え物となるポテトなどの冷凍野菜の取り扱いを始め、さらにその翌年には調理冷食、冷凍魚介類、冷凍畜産の販売を開始した。こうして、拡大する外食市場の速度に合わせ、久世はフルラインでの食材提供を会社の基本方針に定め、次々にその機能の強化、充実を図っていった。
取引先のメニューに載る原料すべてを供給できれば、原価を把握できる。そうなれば、素材単体だけでなく、メニューそのものを提案できるようになる。それは、健吉が感銘を受けたアメリカの業務用卸の姿でもあった。
こうしたコンセプトに基づき、冷凍素材の取り扱いを始める卸は当時としては異色であった。「冷凍食品は金がかかる」と敬遠され、「どうせ溶かして使うんだから」と冷凍車や冷凍倉庫を持たずに冷凍品を扱う業者も少なくなかった。久世は当初はドライアイスを毛布にくるんで冷凍食品を配送していたが、「お客さまにご迷惑をかけるわけにはいかない」と、1983(昭和58)年には業界初の二層式冷凍車両を導入した。
「アメリカは道路も広いし、建物代も安い。だから、郊外型レストランは倉庫がついていて、そこに冷凍車が直接納品するスタイルが一般的だった。久世が冷凍品を扱うようになれば、そういった設備は絶対に必要だと考えた」と健吉はいう。
久世はこうした冷凍配送へのこだわりとフルライン化を武器に自社の魅力や特色を出すことで、同業他社との差別化を図った。
デニーズから得たもの
1974(昭和49)年、デニーズジャパンが神奈川県横浜市のイトーヨーカ堂上大岡店の開店に合わせて、デニーズ1号店をオープンする。卸は、イトーヨーカ堂の社員食堂の取引をきっかけに久世が担当することになった。
健吉は、アメリカ視察の際に現地のデニーズに触れ、大いに刺激を受けていた。
日本の食堂は昼から営業するのが当たり前だった時代、アメリカではすでに朝食マーケットが確立されていた。アメリカのデニーズはそうした客のニーズに応えるため、大型の駐車場を備え営業を行っていた。
サービスは高度にマニュアル化され、どの店でも同じメニュー、同じサービスが提供されるのも魅力的であった。
デニーズが日本に上陸し、朝食メニューを提供すると聞いて、健吉はデニーズとの取引を強く希望した。
当時、日本では食品メーカーも外食に対してあまり積極的ではなかった。高度経済成長期に入り、光熱費や人件費が高騰しはじめたため、大手外食チェーンはセントラルキッチンを持ち、自ら集中調理を行って店舗での調理の省力化、標準化を進めていた。
メーカーは家庭用商品ばかりを主に扱っており、業務用に対する理解や認識もあまりなかった。
当然、外食産業は飲食店か水商売とみられ、地位は低く、大卒で外食企業に入社するなどというと「大学まで出てなんで水商売やるんだ」などと言われることもあったという。
こうした状況の中、アメリカの食文化をそのまま持ち込んだようなデニーズは、新たな日本の外食文化の一つのモデルだと健吉は感じていた。
21種類から選べる卵料理、コーヒーお代わり自由、ウェイティングルームの設置など、アメリカのカルチャーを感じさせる目新しいメニューや洗練されたサービスは若者やファミリー層に大いに歓迎され、瞬く間に日本の外食産業の地位を向上させた。
健吉の先見の明により取引が始まったデニーズは、1号店出店後わずか10年で200店舗近い規模を持つ一大外食チェーンへと成長した。
学びを生かし、業務用卸としてさらなる充実へ
デニーズでは、社員1名に数名のアルバイトスタッフという体制で、店舗を切り盛りしており、料理は厨房に専門のコックを置かない「コックレス」で提供した。これは当時としては画期的な店舗オペレーションであり、それを実現するために、卸は完成したメニューに限りなく近い状態、つまり効率的な食材の提供が求められた。
こうした要求に応えるため、1975(昭和50)年、久世はデニーズと共同でハンバーグの開発を行った。従来、肉は骨付きのまま仕入れて店でさばくのが一般的であったが、久世はメニューに合わせて標準化されたサイズに加工したポーション・コントロールを提案。
すぐに料理に使えるうえ、歩留まりが良くロスが出ないポーション・コントロールされた肉の提供は、多忙な厨房を切り盛りする店舗で非常に喜ばれた。
デニーズはまた、品質管理にも厳しい目を持っていた。仕入品に不備があった際、その商品を製造した会社が卸に対し、菓子折りの一つも持って謝りに行けば、大概のことは済まされるのが慣例だった時代に「たとえ仕入れた商品であっても、久世を通して卸したものであれば久世にも責任がある」と、仕入れ先に対する品質管理指導が求められた。
これに対し、久世は1983(昭和58)年に品質管理室を設けた。品質クレームの原因を製造現場へ出向いて仕入メーカーと一緒に解明し、再発防止に努めるという卸としては珍しいほどの万全の品質管理体制が久世の信頼を支えた。
フルライン化の体制が整いつつあった久世は、こうした取り組みを通じて品ぞろえの一層の拡充を図った。
同時に、食材に対する知識や取り扱いに関するノウハウも蓄積され、メニュー提案力も徐々に力を増していった。
デニーズとの取引は、アメリカの業務用卸を目の当たりにし、久世をフルラインの業務用卸として発展させたい健吉にとって、重要な示唆をもたらすものとなったのである。
この頃から、実質的な経営は福松から健吉へと引き継がれるようになる。
(次回へつづく)