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久世物語⑤【転換期】アメリカ視察からの学び

2024年、当社は創業90周年を迎えます。
語呂合わせで『クゼ』と、まさに久世の年。
 
90年という長い歴史の中には創業者や諸先輩の苦労や血の滲むような努力があります。
どのような思いが受け継がれてきたのか、私たちがどんな会社なのか。
「久世物語」をお届けいたします。

今回から転換期に入ります。

前回はこちら


【第5回】アメリカ視察からの学び

脱トマトケチャップ経営へ

 1964(昭和39)年、福松は同業他社の経営者たちと日本トマト工業会の第一回アメリカ視察旅行に参加し、ハインツ社、デルモンテ社の工場の視察を行った。外資系企業の資本自由化によって両社の日本上陸がにわかに現実味を帯びた頃である。

実際、ハインツ社は日魯漁業、デルモンテ社はキッコーマンと合弁会社を設立して、日本進出を果たした。

視察を通じて、日本のトップメーカーのカゴメが1年かけて作る量のケチャップを1工場で作ってしまう巨大な製造設備とその資本力、アメリカ全土にわたるブランド力に圧倒された福松は「零細な久世商店なんかはすっ飛んでしまう。比較にならん。」と危機感をもって帰国した。

この出来事から、久世は製造の比率を徐々に下げ、卸の比率を増やす「脱トマトケチャップ経営」を推し進めることになる。


 しかしそれは、業績における卸の比率が製造と半々になるまで伸びていたからこその決断であった。

とはいえ、営業利益のほとんどが製造事業によるものであったから、創業以来、久世の屋台骨を支えてきた製造業の比率を下げることに、不安がなかったと言えばうそになるだろう。
しかし、福松も健吉も、目の前の現実を見つめ、過去よりも未来のために行動する信念を持っていた。

「トマトケチャップがいざダメになったときでも飯が食えるように」という号令の下、従業員たちはこれまでのお客様から要望を聞き、仕入商品の販売と品揃えの強化に日夜奔走した。

久世が後に業務用卸として大成する布石となった「脱トマトケチャップ経営」はこうして始まった。
この大きな選択が、時代の波にもまれながらも久世が今日まで生き残れた理由といっても過言ではない。


フルライン化の推進

 1970(昭和45)年、久世健吉が入社する。
当時の年商は約6億円。社員数は30名弱。自社製造品を中心に野菜、フルーツの缶詰、調味料類を扱い、業態は業務用製造卸という位置づけであった。

主な顧客は、百貨店の食堂や社員食堂、レストラン、街のラーメン店なであった。福松はあえて社長とは名乗らず、いちプレイヤーとして「御用聞き」に徹し、精力的にお客様を開拓していた。

この時期、取引先の紹介により、健吉は毎年のように渡米してアメリカの大手業務用卸を視察した。

床面積数千から1万数千坪の広大なワンフロア―の配送センター。
数十のドックシェルタに整然と並んだ大型配送トラック。
そして、冷凍の魚介・畜肉・野菜、さらに生鮮の肉・魚や野菜、ノンフード・テーブルウエア・厨房道具や機器までの数万アイテムと、フルライン化した品ぞろえ。
冷蔵、冷凍、グローサリー倉庫は天井高が10メートルもあり、高層の重量ラックの列が見渡す限り並びその中を何台ものフォークリフトが忙しく走り回るダイナミックな組織的な運営。

目に映るものすべてが健吉青年にカルチャーショックをもたらした。

なんでも吸収しようと、必死の思いで説明を聞き、わからないことは納得いくまで質問した。
自動車が普及し始めたとはいえ、その頃の日本は物流体制もアメリカとは比べ物にならないほどお粗末なものだった。


「脱トマトケチャップ経営」を実現するために、先進的なアメリカの業務用卸の機能やサービスを見本に、少しでも近づきたいという思いが健吉を突き動かした。

「業務用の卸を追求するのであれば、店舗で必要な食材から消耗品までを品ぞろえするフルライン化は必須である。それには、取引先が必要なものを必要な時に届ける物流機能も必要だ。」

そう考えた健吉は業務用卸への業態転換を福松へ進言、福松もまた創業以来苦労して築いた製造業に未練を残すことなく、息子の進言を受け入れたという。

(次回につづく)
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