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東洋思想が行き着いた哲学、道(タオ)の説明

中国には道教という土着の民族宗教がある。それは日本でいう神道や、インドのヒンドゥー教のように、誰か明確な開祖がいるわけではない自然発生的な宗教である。自然発生的宗教は、民族特有の精神性が反映された思想体系であり、そういった意味で道教は、古代中国人の精神性といっても過言ではないわけである。

そんな道教では、道(タオ)といった概念を最上の思想と考える。では、道とは一体なんなのか。

道とは、真理であり、神である

道教を代表する書物『荘子』では、道のことをこのように説明している。

実在性があり、真実性がありながら、何もすることはなく、形もないもので、身におさめることはできても、それを人に伝えることはできず、身につけることはできても、その形を見ることはできないもの

荘子では、道は天地のように万物をおおい、万物を乗せているものとある。キリスト教でいうところの”神”または"愛"、仏教でいうところの”法”に近い概念であることがわかる。

それと同時に、道が文字でも言葉でも説明できないものだということも分かる。文字で道(神や法)を完璧に説明できていたら、人々は今頃完璧な宗教観を手に入れることができているはずだが、いまでも新興宗教が次々とできているということは、それが説明できないものだということなのだろう。

道は耳で聞くわけにはいかない。聞きとったとすればそれは道ではない。また、道は目で見るわけにもいかない。見てとったとすればそれは道ではない。また、道は口に出して説明できるものでもない。説明をすればそれは道ではなくなる。
荘子

最高の言葉は無言であり、最高の作為は無為であり、道は知らない方が深く、知っている方は浅いのである。

自分の体でさえ自分の持ち物ではなく、自分の体は天地自然から預けられたかりそめの形だ
荘子
生命とは天地自然から託された一次的な調和の気だ
荘子

私たちは道の上を流動する、気の流れに過ぎない。

道と陰陽論

万物は『陰と陽』という対立するものに分けることができると同時に、それを表裏の関係に表すことができる。これは東洋思想の基本的な考え方で、陰陽論という。

何か一方での完成は、他方では破壊されているものがあり、どこかで朝がくると、他方では夜がくる。そしてそれはまた、完成の中に破壊があり、朝の中に夜があるということでもある

生まれるということは、死を得るということであり、死ぬということは、生を得るということでもある。それが、生に固執して「死にたくない」と怯えていては、やがて精神を錯乱することとなる。生に執着することも、死に執着することも結果的に陰陽の調和を乱す結果となり、それは「道に従う」ことができていない状態だといえる。「道に従う」とは陰陽の移り変わりをあるがままに受け入れることである。

まとめ

道とは、実在性があり、真実性がありながら、何もすることはなく、形もないもので、それを人に伝えることはできず、その形を見ることはできないものである。

知らないことこそが道の本質ということは、無知こそ最高の知であるともいえる。荘子には「聖人とは赤子のような人だ」とある。つまり、我々は意識する努力をやめたときにこそ「道」を身につけることができるのかもしれない。そしてそれは、空海や禅の思想と通ずるものがあると感じる。


参考文献
老子 (ワイド版岩波文庫) 単行本(ソフトカバー) – 2012/4/18蜂屋 邦夫 (翻訳)
荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1) 文庫 – 1971/10荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2) 文庫 – 1975/5/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)文庫 – 1982/11/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4) 文庫 – 1983/2/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)

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