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植森 江助「人生の羅針盤」

1.認知症専門の介護サービス

京都府北部に位置し、人口25,000人ほどの小さな郡「与謝郡」。

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日本を代表する俳人・歌人である与謝蕪村や与謝野晶子らゆかりの地としても知られている。

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ここで福祉のうえもりという認知症専門の介護サービスの代表取締役を務めているのが、植森江助(うえもり・こうすけ)さんだ。

植森さんは、ここ与謝郡で、1976年に2人姉弟の長男として生まれた。

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「ほとんど記憶はないが、とにかく泣き虫だった」という幼少期を経て、小学生になると周囲の友だちは少年野球に熱中し始めた。

とにかく運動音痴だったと言う植森さんは、小学校4年生から6年生まで、「野球は絶対やりたくなかったから」と少年野球ではなく「テクニトーン(電子オルガン)」を習いに行っていたようだ。

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「それでも全然センス無かったんですよね」と笑う。


2.青春時代の思い出

その後は、地元の公立中学校へ進み、バレー部に所属した。

バレー部には、植森さんと同学年の人たちが25人も在籍し、運動音痴だったこともあり、いくら努力しても上達しなかったようだ。

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「そこで仲良くしていた友だちはひとりだけだったんです。僕は周りの人と上手く付き合っていくことが苦手で、いま思うとかなり嫌な子どもですよね。補欠の中の補欠だったんですけど、顧問の先生にはなぜか気に入られて、ベンチには入れてもらってたんです。そのことをよく思っていない人も多かったみたいですね」

小さい頃から絵を描くことが好きだった植森さんは、卒業後は京都市内の芸術系の高校を志願した。

「中学校はあまり楽しくなかったから、みんなと違う高校には行きたい」という思いを抱いていたようだ。

しかし、西陣織職人の両親から猛反対を受け、仕方なく地元の京都府立加悦谷高校へ進学。

幸いして進学クラスへ入ることができたため、植森さんにとっては有意義な学生生活を過ごすことができたと言う。

「当時、全国大会で金賞を取っていた混声合唱部の男子部員と仲良くなって、入部を勧められたんです。体験入部してみたら、何往復もの階段ダッシュとか余りにもキツイ練習メニューだらけで『ごめん、無理だわ』と挫折してしまったんです。それに、家の手伝いをしていたから、帰りが遅くなると駄目だったんですよね」

実は、植森さんは、多忙な両親に変わって小学校3年生ごろから続けてきた日課がある。

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それは、毎日のお弁当と夕食のおかずづくりだ。8つ上の姉が大学進学で家を出ていってから続けてきたというから、いち早く帰宅しなければならなかったようだ。

そうした制限のある植森さんが、1年生の夏休み明けから入部したのは、吹奏楽部だった。

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小学生の頃に習っていた音楽の熱が再燃したのだろうかと尋ねたところ、「実は好きな子が入部していたんです。そのあと、付き合うことができたんです」との答えが。

甘酸っぱい青春の思い出だ。


3.ダメ人間になってしまった

「進学クラスにいたのに、英語が全然できなかったんです。理系で英語ができないのは致命的でしたから、得意な数学と国語だけで受験できるところを探した結果、全く興味のなかった佛教大学仏教学部へ入学したんです」

ここで初めてひとり暮らしを経験することになった植森さんは、「自分がダメ人間だということを確信した」と当時を振り返る。

ひとり暮らしを続けていくうちに、外に出ることが面倒になり、バイトもせず家の中でゲームばかりして、いわゆる「引きこもり」のような状態になってしまったようだ。

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せっかく入学した大学も1年生の後半からはほとんど通うことはなくなった。

「コンビニへ行くか、タバコを買うか、ポテトチップスを買うかを毎日悩むくらいでした」と笑みをこぼす。

4年生になって、周りが就職活動に奮闘している中、植森さんは単位取得のために慌てて大学へ通い出し、なんとか卒業することができた。

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「大学2年生の1995年に、福祉大学を卒業した姉が福祉のうえもりを実家で創業したんです。『自分は無理だな』と思って、最初は戻るつもりなんてなくって、卒業後は楽器店に内定を貰っていました。でも、大学の長期休暇のときに、アルバイトで仕事を手伝うようになって、卒業するときに『人手が足りないから手伝って欲しい』と相談されたんです」

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4.身近にあった「介護」

「不思議と、介護の仕事や高齢者の方との関わりは嫌ではなかった」と植森さんは思い返す。

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幼少期の頃は、両親が仕事をしていた関係で、近所にあった母の実家に預けられていた。

やがて祖父が他界し、ひとりになった祖母は実家で一緒に暮らすようになった。

そこで家族が祖母のお世話をする姿を見てきた植森さんにとって、「介護」は身近な存在だったのだろう。

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「祖母はお祖父ちゃんのことが大好きだったので、お祖父ちゃんが亡くなったあと、生きることを自分で放棄していたように思います。自分でご飯を食べれたはずなんですけど、父親の介護なしには食事を摂らなくなり、寝たきりになってニコリとも笑わなくなりましたから」

大学卒業以来、慣れない介護現場に入り、植森さんは必死に働いてきた。

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年輩のスタッフから教えてもらうことも多かったようだ。

当時、植森さんの姉が「少しでもスタッフの負担軽減になれば」と夜勤に多く入っていたこともあり、植森さんも「姉の助けになれば」と1週間続けて夜勤業務に入ったこともある。

「5日目で気が狂いそうになって、『もう無理』とギブアップしました」と笑う。

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そして、30歳ごろからは、経営にも携わるようになり不安に感じていたが、師と仰ぐ認知症ケアの第一人者である和田行男氏から「経営者って立場もあるよな」と助言されたことを機に、意志が固まり、以後は経営に専念するようになったというわけだ。


5.よい生き方とは?

「ここでは利用されている高齢者の方に、『普通に生活してもらうこと』を第一に考えています。普通に生きることができる人たちに対して、こちらがわざわざレッテルを貼って生き方を決めるなんてことは間違っていますから。福祉の常識が、一般の常識とかけ離れていることって多いですよね」

分からないことがあれば、まずは目の前の利用者の人たちに聞くということ。

相手の話を真摯に受け止めて耳を傾けるということ。

福祉業界に長く携わっていると忘れてしまいがちなことを植森さんは、いつも胸にとどめている。

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紆余曲折の人生だが、後悔は全く無いという。

「父から代表権を引き継いだときに多額の借金があったので、まずは完済したいですね。まだまだ経営も安定しないし、胃が痛むことも多いですが、追い込まれないと動かない性格なので僕にはちょうど良いのかも知れません。10年後には代表権を譲って、妻と2人で世界一周旅行なんてやってみたいです」

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「福祉」とは「幸せ」を意味する言葉で、英語で「福祉」を指す「welfare」は「よく生きる」という意味がある。

植森さんが携わっている介護という仕事は、誰もが高齢者となり得る可能性を秘めている超高齢化社会において、まさに「どのような生き方がよい生き方なのか」を探る仕事と言えるだろう。

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高齢者という人生の先輩の生き方に耳を傾けることで、それを自分の人生の指針としていく。

今後、「老い」という旅路を歩んでいく僕らにとっては、植森さんの仕事は、僕らの人生の羅針盤となっていくのかも知れない。


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