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 枕草子・遠くて近いものは  

遠くて近きもの 極楽 舟の道 人の仲
         枕草子161段(小学館・新編日本古典文学全集)

清少納言は記録ふう、あるいは日記ふうの長文をたくさん書いているが、あちこちに散りばめられた超短文に彼女らしい鋭さがきらめく。解説なしに私の胸に刺さり、思わず、そうだ、と叫びたくなってしまう。

この段は超短文なので、古文などに縁がなかった人にもスカッと理解できる、まさに「時を超えた真理」を突いている名文だ。

健康には自信あり。「極楽」なんてまだまだ遠い先、と思っていても、明日行くかも知れないし、今、この原稿を打ち終わった次の瞬間、そこへ行っていた~なんてごくあり得ること。それが命というものだと最近しみじみ思う。だから人は宗教にすがったりするのだろうか。

目的地まで舟で直行すると思ったより近いことはよくある。「舟の道」は彼女の体験からだろう。清少納言は舟のことをあちこちに書いている。都の貴族にとっては舟の道などめったに経験できることではない。きっと、一回か二回の経験が忘れえぬ印象を残したのだろう。

こんな超短文で真実に迫るなど、やっぱり、千年も残った文は違う……。

「人の仲」、これは恋愛とは限らない。生き方術に繋がると私は思う。人の関係は遠いようで近い。どこでどんな縁が生まれるかわからない。noteの画面上の遠い付き合いと思っていたのに、ひょんなことから顔を合わせる付き合いにならないとも限らない。

反対に二度と付き合うまいと思って別れた人に思いがけずお世話になることもある。だから、徹底的なケンカはしてはいけない。間違っても「二度と付き合わないから」など言ってはいけない。

最近ようやく「袖摺りあうも他生の縁」という言葉の意味することがわかってきた。

近いようで遠いのも人の仲だ。友達だと思っていた人に裏切られたり、すっと遠ざけられたり、そんな経験は思い返すと幾度かある。それは私に原因があるのではない。人の心は縄で縛っているわけではないから、風のひと吹きで離れてゆくこともある。そう思って、もうその人のことは考えなければいいのだ。

去る者は追わず……泰然自若と生きればいいのだ。

前段の「近うて遠きもの」、この段の「遠くて近きもの」は人間関係にいちばん当てはまると、私は感じるのだが、他の方たちはどうなのだろう。

様々な連想が波紋のように広がってゆく、短いけれど奥深い段である。それにしても清少納言はどんな顔で、どんな声で、どんな話し方をしてたのかなあ、とそんなことに思いを馳せるのも楽しいひとときだ。








      


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