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ショッピングモール(8)

包丁一本

「私、辞めるんだ」厨房の仕切り壁の裏、昼のおにぎりをあわただしくかっ込みながら沙織が言った。夏実は、そう、としか言えない。問わず語りにそんな日が来ると感じていた。沙織は自分よりもっといろいろ大変みたいだ。

「おばあちゃんが介護度3でね。いろいろ世話しなくちゃならなくなってさ」「たいへんだね」「いっそ介護度5だったら、特養に入れるけどね」「そうかあ」「億万長者でも介護度5だったらすぐ特養入れるんだよ」「ふーん」「3なんてさ、中途半端な介護度、バカみたい。介護保険もろくに利用できない。特養は200人待ち」「そうなんだ」「変だと思わない?すごい金持ちが先に特養に入れるって。賄賂、使ってるんじゃないかな」沙織は水筒のお茶を飲みながら立ち上がる。

「わたしと木村さんだけになるね、鮮魚士」夏実はおにぎりを飲み込んでつぶやく。沙織の目がマスクの上で笑った。「別の店から一人来るんだって。さてさて今日は大忙しだ」

朝から客足が途切れない。通路には大きな台が設えられ、氷の入った桶が並んでいる。『一匹単位で売ります』と書いた張り紙の前は人だかりだ。『福島のプライド・福島鮮魚直行便』と書かかれた水色の幕がウィンドウの上に張られている。

桶に向かってスマホを向け写真を撮っているオヤジさんがいる。海の香りがあたりに漂うような……マリンな気配。客たちはクラゲの群れ。

客の注文で魚をさばく。さばく。サンマ、天然ブリ、エビ,、鮭……。「船盛一丁!」「はいッ」夏実の目つきが変わる。「カラスカレイ、さばいてくださーい」

販売スタッフも包丁を握る。新人の雑用係は目の色変えて売り場と厨房を行き来する。夏実は包丁片手に冷蔵庫を向いたり、調理台を向いたり。もう腰はガタガタだ。

6時、すべて売りつくした。食品ロスなし。最高!。沙織と話す時間もないまま別れる。それぞれ家の仕事がある。いつか日を見てお茶でもしよう。

家に帰ると、夫が青い顔で這いながら玄関に出てきた。「腹が、腹が痛い……」「なんで、どんなふうに」夏実は夫を抱き起す。「健太、健太」2階の息子を呼ぶ。いないようだ。友達の家で勉強すると言ってたっけ。

夫の額には脂汗。多分、腎臓かどっかに石ができたんだ。沙織から聞いたことがある。旦那が腎臓結石ですごい痛がりようだったけど、お産を経験しているオンナから見れば、バカかって思うよ。あれぐらいで悲鳴あげてるの。

腎臓結石か?この痛がりようは。魚でも腹に石貯めてるの、いるよ。魚なら包丁で腹裂いてやるけど。この人も一度腹裂いて悪いの全部出したほうがいいかも。私が死に物狂いで包丁一つで家族養ってるのに、酒ばっか飲んで。コロナで倒産した人っていっぱいいるよ。みんな頑張ってるんだ。もっと強くなれって。

夏実は救急車を呼んだ。

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