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『源氏物語』とは

ある時、公民館の講座で授業後、聞かれました。「外国人にもののあはれがわかるでしょうか」
私は心のなかで「では、あなたはわかるのですか」と聞き返していました。

古典、特に源氏物語を学ぶとき、外国人に対する根拠のない優越感を持つのはとんでもない間違いです。
この場合、外国人というのはその辺のおじさんやおばさんではなく研究者たちのことです。そんじょそこらの日本人なんか足元にも寄れないほど学んでいる人たちです。

そもそも源氏物語を世界の舞台に押し出してくれたのはイギリス人の文学者たちなのです。かの有名なアーサー・ウェイリーです。ちょうど英国を中心としたヨーロッパで新たな文学運動が起った20世紀初めでした。

新たな文学を求めていた英国で、素晴らしい研究者グループに出会った源氏物語は幸運でした。レディー・ムラサキのノベルとしてデビューできたのです。文学者中村真一郎によると「それ以前でもそれ以後でも源氏物語は翻訳されても無視されただろう」

当時、日本では漱石も鴎外も源氏物語にはそっぽをむいていたのです

第二次世界大戦中も英国政府は敵国日本の古典を敵視せず迫害せず、研究者たちに自由に研究を続けさせていたのです。日本軍部が英語を敵国語として授業から抹殺したのとは大違いでした。(こういう歴史を知っていて故エリザベス女王の葬送の儀を見るのと、なんにも知らないで見るのとでは……)

戦後、アメリカのマッカーサー司令官は「日本人の知能程度は7歳程度」と言ったそうですが、イギリスの日本文学研究者たちは源氏物語を例に「日本は野蛮国でもないし、7歳の子どもでもない。こんなに素晴らしい文学がある」と源氏物語を褒めたたえ、ついには世界文学の不動の地位に押し上げたのです。
アメリカのドナルド・キーンの活躍、日本人なら知っているでしょう。

「まことの文学者たち」は狭い自国自慢を超越して敵国の文学でも戦禍から守り抜いたのです。

「源氏物語は決して自然に世界の古典になったのでもないし、日本人がロビー活動をしたわけでもない。シェークスピアが一世紀以上無視されていたのに突然時代の波の中で光を浴び世界の古典になったのと同じです」
(中村真一郎・源氏物語の世界・新潮選書)。


そこには偶然もありますが国籍に関係なく良い文学を世界に広めようと願うヨーロッパの文学運動の大きなうねりがあったのです。

中村真一郎氏は「日本人の無邪気な自慢癖から、読んでもいないのに源氏物語を振りかざして偉そうな顔をするなどバカのすることだ」(源氏物語の世界。新潮選書)

「日本語は世界一美しいそうです」と高齢者に自慢げに言われたこともあります。その時は「私は日本語しか知らないので、世界一かどうかはわかりません」と答えました。

戦時中は英語すら学べず、平和になってからも日本を一歩も出ていない。源氏のゲの字も読んでいない人はたくさんいます。そんな人たちが「日本語が世界一美しいかどうかわかるはずがない」と思うべきなのです。

国文学者の小松英雄氏は「言語はどの国の人にとっても大切な意思伝達のツールであり、それ以下でも以上でもない。いわんや、世界一美しいとか優れているとか較べるものではない」と。
ほんとうに学問を積んだ人は決して「世界一」という言葉は使いません。

かつて万葉集と源氏物語が軍部に利用され、日本人の精神性の優越を広める道具にされた歴史を、学んだ人は知っています。何も学ばない人が無邪気な独断に陥るのです。

現在、国文学会には実に多くの外国人研究者がいます。かれらは源氏を原文で読み、自ら琴を演奏し、日本人研究者たちに新たな刺激と発想、新たな読みを提示してくれました。そして次々に今までの過ちや読み違いが訂正され、新たな学説となっています。

私は枕草子研究会に参加していましたが、隣の席にカナダ人の研究者が座ったことがあります。私は不遜にも、外国人にわかるだろうか、とちらと思いました。しかし、私がほとんどついていけなくなっておたおたしていると彼女は隣から手を伸ばして、ページを教えてくれました。

新たな源氏読みは国境を超え、日本人が「どうたら、こうたら」ではなく、日々変化しているのです。他の古典研究も同じです。

最後に中村真一郎の言葉を:
「『源氏』は世界最古の小説でもなし、ヒューマニズムの書物でもない。好きな人には忘れられない魅力を持った古代末期の物語だというにすぎぬ。そして、私はその好きな人のなかの熱心なひとりだ」(源氏物語の世界・新潮新書)

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