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「note」の書き手たちの文体は、世界で通用するのだろうか

第一級の翻訳者であり、「翻訳通信」の発行者だった山岡洋一さんの「本物と偽物 リンドバーグ夫人著吉田健一訳・海からの贈物」を、「note」という土壌を変革するために植え込んだ苗木はどうなっているのだろか。すくすくと育っている。やがてこの森の中心になってそびえ立つ木になっていく。

「note」の書き手たちの文体は、一行書いたら改行だ。改行どころか、一行あけて、さらに二行、ときには三行もあけて、さも重大な石を投じるかのように空っぽの言葉を書き込む。これが「note」の書き手たちの文体だ。こんな文体が外の世界で通用すると思っているのだろうか。この文体で、新聞や雑誌に投稿してみるがいい。即座にくず箱に投げ捨てられる。すでにある方が指摘していることだが、「note 」は考えない文章、考えさせない文章を投じる世界だと。さらに「note」は他者の文章を読む文化がない世界だとも。考えない文章、考えさせない文章を改行、改行で書き込み、空手形の《スキ》を飛ばしあって充足し満足している世界なのだ。こんな世界から本物の文化や芸術や思想が生まれるわけがない。

山岡洋一さんは十年前に亡くなった。「本物と偽物」は山岡さんがぼくたちに残した遺書のような文章だ。なぜ落合恵子さんの「海からの贈物」が偽物なのか。山岡さんはこう書いている。

それにしてもなぜ、段落が短い方がいいと考えるのだろうか。おそらく、読者は馬鹿だという思い込みがあるのだ。長い文章は歯が立たない、長い段落には耐えられない、むずかしい言葉があればもう読めない、そういう馬鹿だという思い込みがあるのだ。馬鹿による馬鹿のための馬鹿な本しか売れないという思い込みがある。こういう恐ろしいまでの傲慢さが、出版業界の一部にはびこっている。たぶん、落合訳で段落を切り刻んだのは、そうした一部の風潮から影響を受けたからだろう。

二千字ほどの長文だが、ゆるぎない言葉の世界を確立し、世界とたたかう文体を創造するために、一行一行を精読していただきいと思うのだが。

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本物と偽物 山岡洋一
リンドバーグ夫人著吉田健一訳『海からの贈物』

吉田健一訳『海からの贈物』は文句なしの名訳である。この吉田訳の『海からの贈物』を読むと、知識人のなかでもっとも上質な人たちがどれほどの力をもっていたのかを実感できる。

同じ原著からもうひとつ、落合恵子訳『海からの贈りもの』 (立原書房) が1994年に出版されている。吉田健一訳は初版が1967年だから、30年近くのちに新訳がでたわけだ。落合訳をみていくと、吉田訳の素晴らしさが実感できると思える。『海からの贈物』の冒頭の訳文を読むだけで、落合訳の特徴がはっきりと分かるのだが、極端にいうなら、吉田健一訳を書き写して、いくつかの変更を加えているだけだとすらいえる。もちろん、既訳があるものの新訳をだすときに、既訳を参照するのは、訳者にとって当然の責務だともいえる。既訳の良い部分を採り入れ、問題がある部分を修正して、既訳よりも良い訳にすることが責務だともいえるのだ。だから、落合訳が吉田訳とそっくりだからといって、とくに非難されるべきではない。

おそらく、落合恵子は吉田訳を書き写すつもりで新訳をはじめたわけではないのだろう。吉田訳とそっくりでは、盗作ではないかと疑われかねないからだ。だが、たとえば、too softを訳そうとすると、「い心地がよ過ぎる」以外の訳文がありうるとは思えなかったはずだ。any real mental disciplineも「ほんとうに頭を働かせたり」以外の訳し方があるとは思えなかったはずだ。吉田訳を参照せず、原文を読んで、辞書を引き、脳の襞の奥深くに収められている語彙を懸命に探るだけの方法で訳せば、こういう訳文になるはずがないことには、気づきもしなかった。吉田訳はそれほど原文に忠実で、それほど日本語として自然な訳なのだ。

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もちろん、吉田訳をそのまま引き写すわけにはいかないから、いくつかの点を変更するしかない。ほんとうにすぐれた書き手なら、吉田訳を参考にして、それをさらに超える名訳を作りだせただろう。だが、落合恵子にはそこまでの力がない。いくつかの点で、逆に悪い方向に変更してしまっている。

次の例はもう少し複雑だ。落合訳を読んだとき、なんとも分かりにくい文章だという印象を受けた。よくみると、吉田訳を書き写しただけと思えるほどそっくりなのに、印象が違う。吉田訳は明快で、明晰で、明瞭な名文という印象なのに、落合訳は分かりにくく読みにくいという印象なのだ。なぜ、そのような印象を受けるのかを説明していこう。
第1章は4つの短い段落にわかれている。これを文章の構成という観点からみてみると、日本人にはきわめて馴染みの深く、分かりやすいものになっている。吉田訳の各段落の最初の文と第4段落の最後の文をみていくと、構成が簡単に分かる。

第1段落──浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。第2段落──初めのうちは、自分の疲れた体が凡〔すべ〕てで、‥‥何もする気が起こらない。 第3段落──そして二週間目の或〔あ〕る朝、頭が漸〔ようや〕く目覚めて、また働き始める。 第4段落──しかしそれをこっちから探そうとしてはならない‥‥我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。
この構成が少なくとも日本人にとってきわめて分かりやすいのは、もちろん偶然にではあるが、日本語の文章構成でよく使われる「起承転結」に近いからである。起で起こし、承で説明し、転で転換し、結で結論を述べる。

『海からの贈物』の第1章は、このように、偶然にではあるが起承転結に似た構成になっているので、吉田訳を一読すると、全体がじつによく理解できる。
ところが、落合訳では、全体像がみえてこない。何を言おうとしているのかが分かりにくい。個々の言葉は幼稚ではあっても、とくに分かりにくいわけではないのに、全体としては分かりにくく読みにくい文章になっている。それはかなりの部分、原著のパラグラフをいくつもの段落に分割し、逆にパラグラフを超えて段落をつないでいて、起承転結に似た章の構造がみえなくなっているためだ。

第1章はわずか37行だが、これを12の段落に切り刻んだ。平均3行、長いものでも5行しかない。吉田訳は29行、4段落であり、各段落は6行から8行の長さになっている。
落合恵子はたぶん、こう考えたのだろう (あるいは、編集者がそう考えたのかも知れない) 。吉田訳との違いをただしたい。たぶん、吉田訳は文が長いし、段落も長い。文を切り、段落を細かくわける方法を採ったらどうだろう。いまの読者は昔の読者と違って、段落が短く、文が短いのを好むから‥‥。その結果、なんとも分かりにくい訳文ができた。気の毒なことだ。だれにとって。もちろん読者にとって。 

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それにしてもなぜ、段落が短い方がいいと考えるのだろうか。おそらく、読者は馬鹿だという思い込みがあるのだ。長い文章は歯が立たない、長い段落には耐えられない、むずかしい言葉があればもう読めない、そういう馬鹿だという思い込みがあるのだ。馬鹿による馬鹿のための馬鹿な本しか売れないという思い込みがある。こういう恐ろしいまでの傲慢さが、出版業界の一部にはびこっている。たぶん、落合訳で段落を切り刻んだのは、そうした一部の風潮から影響を受けたからだろう。

念のために付け加えておくが、落合恵子訳が世の中の翻訳書と比較して、とくに悪いというわけではない。それどころか、名訳だと推奨する人が少なくないほどであり、全体として質の高い訳であることはたしかだ。だが、落合訳がすぐれているのは、吉田訳にかなりの程度まで忠実に従ったからだ。

落合訳をあえて取り上げたのは、吉田健一の訳がいかに素晴らしいかを逆の方向から示しているからである。吉田訳は、新訳を試みてもかなりの程度まで忠実に従うほかないほどの名訳なのだ。ほかの訳文や訳語が考えられなくなるほど原文に密着していて、しかも自然な日本語になっている。翻訳が明快で、明晰で、明瞭な名文になりうることを示す名訳である。

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