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君は素敵なレディになれる

20020年6月10日号 目次
君は素敵なレディになれる
あなたが欲しい
珈琲亭・白鯨(モービィディック)
翻訳の危機
「嵐が丘」はそんなにひどい悪訳なのか
原田奈翁雄さんからの手紙
福岡市立長尾小学校ゲルニカ事件
ゲルニカ事件──どちらが本当の教育か 樋渡直哉

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君は素敵なレディになれる 1


「お母さん、頭が痛いの」
 今朝も宏美はぐずりだした。ぐずりだすといつもひと悶着もふた悶着もおきる。それだけで朝から疲れてしまうのだ。智子は宏美の額に手をやったり、おでこをつけたりして、
「大丈夫。熱なんかないのよ」
 と励ましていると、今度は、
「おなかが痛いの。吐き気がするのよ」
「それは宏美ちゃんがそう思うだけで、いつも学校にいったら、ぜんぜん平気になるんでしょう」
「今日はほんとうに痛いの。今日はなおらないよ」
「大丈夫よ。お母さんぜったいに保証する」
「お願い、今日は休ませて」
「ねえ、宏美ちゃん。もう三日も休んでいるのよ。このままじゃ自分でもこまるって言ったじゃないの」
 それまで学校を休むようなことはなかった。学校が楽しくて、ちょっとぐらい体調が悪くても飛んでいったものだった。それが三年生になってから、朝になるとおなかが痛いとぐずるようになった。それが次第にひどくなり、先月などは七日も休んでしまったのだ。小児科に連れていったり内科に連れていったり、典型的な登校拒否の症状だと診断されてしばらくお茶の水にある大学病院の精神科にまで通ったりしてみた。
 それはほんとうに病人のような状態になるのだ。高熱にうなされたようにぐったりとなり、顔も青ざめ、下痢の症状になるのかばたばたとトイレにかけこんだりする。そんな様子をみて、今日はお休みしなさいと言って学校を休ませる。するとみるみるうちに元気になり、一時間もするとベッドから抜けでて、蝶の標本づくりをはじめたりするのだった。
 その朝も智子は宏美を励ますことからはじめていく。朝だけでしょう、いやだと思うのは。学校にいってしまえば楽しくなるじゃないの、と。宏美はかしこい子だった。そんなことは言われなくともわかっているのだ。しかし声をかけるたびに宏美は体を海老のように縮めて布団のなかにもぐりこむ。智子はだんだんいらだってくるのだった。そしてベッドから宏美をちょっと乱暴にひきずりだすと、
「宏美ちゃん、だめよ。自分との戦いでしょう。自分でもそう言ったでしょう。ここで負けたらずるずるとどこまでも崩れてしまうって。そんな宏美ちゃん、いやだからね」
 智子はその朝は断固としていた。今日はぜったいに譲りはしないとでもいうように。そういう母親を宏美はよく見ていた。そんなふうに断固として言われると、もうこれ以上抵抗できないと思うのか、のろのろと立ち上がって、しくしく泣きながらつらそうにパジャマを脱いで、学校にいく支度をはじめるのだった。
 宏美がつらそうに玄関をでていく姿は、なんど見てもいたましく胸がしめつけられる。いったいどうしてこんなことになったのだろうか。どうしたらこんな状態からぬけだせるのだろうか。智子の心はいつも灰色にぬりつぶされるのだった。
 しかしどんなに胸をしめつけられようとも、沈みこんではいられない。今度は彼女が出かけていく支度をはじめなければならなかった。
 智子はいま一週間のうちに三日ほど、大森にある貿易会社につとめていた。貿易会社といっても叔父が経営する小さな会社だった。最初はその会社が取り扱っている商品のカタログやら説明書を翻訳したり、日本語のパンフレットを制作したりする仕事を、自宅に持ち帰ってしたりしていた。しかし次第に取り扱う品物も多くなりその量も増えていくと、正規の社員となって定期的に通うようになったのだ。いまでは彼女の机が運河を見下ろせる場所にあり、在庫を管理したり発注業務までもしていた。
 その日、智子が宏美をきつい調子で学校にいかせたのは、どうしても休むことができなかったからだ。彼女の仕事を手伝う新人がはじめて出社してくる。その新人に仕事の段取をつけてやらねばならなかった。
 智子はシビックにのりこむと、かたわらにバッグをおいてシートベルトをつけた。そしてキイを差し込みぐいとエンジンをいれると、もう登校拒否の子供に苦しむ母親の顔ではなく、仕事に打ちこむ女の顔になった。その会社まで車で十分もかからなかった。
 ひと仕事終えて、コーヒーをすすりながら運河を見下していると、社長の石塚秀雄が智子を呼んだ。秀雄は智子の母親の弟であった。
「どうかな。今度の新人は使えそう?」
「まだよくわかりませんけど、語学力はあるみたいですよ。でも、それを日本語にする力はもう少しという感じですね」
「英語がわかるということと、それを日本語にするということはまったく別の才能なんだね。英語がぺらぺらだからきちんとした日本語に訳せるかというとそうでもない。日本語を書くということと、英会話ができるということとはぜんぜんちがうからね」
「そうですね。でも、あの子はなんとかなると思いますよ。性格もよさそうですし」
「そう。じゃあそこはうまく教育してくれよ」
「ええ」
 この叔父の人生というものはずいぶん奇妙だった。大学二年生のとき突然ヨーロッパに渡ってしまった。それからあとはばったりと消息が絶えて、それが何年も続き、もう彼の生存を家族が半ばあきらめかけていたとき、
「ただいま!」
 と真っ黒に陽に焼けた姿を玄関にみせたのだった。なんと五年の月日が流れていた。
 秀雄はまずヨーロッパの国をあちこち放浪し、さらにジブラルタル海峡からアフリカに渡った。そのアフリカは彼には衝撃的だったようだ。なにか魂がすいこまれるようにアフリカ各地を転々としているうちに五年たっていたというわけだった。
 しかしそれでもまだ彼の放浪の旅は終わったのではなかった。しばらくしてまた姿がみえなくなったと思ったら、今度ははインドから中東をへて再びアフリカに渡っていた。定職ももたず、結婚もせず、世界各地をホームレス同然となって放浪している叔父にむける親戚の視線は冷たく、彼のことが話題になるたびにみんな顔をしかめるのだった。しかし智子はなにかこの叔父に惹かれるものがあった。なにかがあるのだとずうっと思っていたのだ。
 それは智子が中学生のころだった。たまたまその叔父の話になり、彼女の祖母、すなわちその叔父の母親が、
「秀雄がまるで自分を捨てるようにあちこち放浪するようになったのは、好きな娘(こ)がいてね、その娘に裏切られたというのか、その娘が他の人と結婚してしまったのよ。そのことからなの。その心の傷がずうっとあの子のなかにあったのよ」
 という話をきいたとき、智子には叔父の放浪のすべてがわかったような気がしたものだった。
 一族のつまはじき者が四十を前にしたとき、一族から金をかき集めてアフリカや中東の国々と取引する買易会社をつくった。その会社がだんだん大きくなっていくと周囲の目が一変していって、今度は一族の誇りだともち上げられはじめたが、人の評価というものはずいぶん現金なものだなと智子は思った。
「実はね、智ちゃん」
 会社でも秀雄は智子を智ちゃんと呼ぶ。
「わが社もどんぶり勘定的経営から多少は脱皮してきたつもりだがね。しかしどうもこのあたりでもっとしっかりした機構づくりというのかね、そんなものが必要なのかなという気もするんだよ。まあ別にこれ以上会社を大きくしたいとも思わないけど、そろそろ考えなくちゃならん時期にきていると思うんだね」
「それは私もそう思います」
「そこで、いままで智ちゃんのやっている仕事をきちんと独立させてね、広報業務課といったものにしたいと思うのだがね」
「ああ、それはいいですね。もうそういう段階にきていると思います」
「そこでその課を統率する仕事を智ちゃんにやってもらいたいんだ」
「そうですね」
「ぼつぼつ宏美ちゃんからも手が離れていくだろうし、できたら週五日、いやそれが無理なら四日でもいいんだがね。完全な社員となってその仕事をおさえていく。今度新人を雇ったのもその布石なんだが。まあ、考えておいてくれ」

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あなたが欲しい 2

                                   ゼームス塾の最後のカリキュラムは、野外活動と創造するという二つの大きな柱で組み立てていた。一か月に二度ほど丹沢基地にいき、ゼームス坂の教室でその丹沢での活動をテーマにしたノートをつくるのだ。自然観察、森林の仕組み、昆虫の生態、川の歴史、光合成、動物たちの四季、鳥たち、食物連鎖、森づくり、日本の林業、丸太小屋の仕組み、小屋づくり、自然を主題にした物語や童話や絵本づくり、といった子供たちが目を輝かせてとびついてくるようなさまざまなテーマを設けて自由研究をさせ、その創作ノートをつくっていくという活動だ。
 この塾を創設したときから子供たちに作文を書かかせてきたが、この年は一気にその創造活動を中心にすえるのだった。子供たちが自分で見てきたことを、体験したことを、調べてきたことを、想像することを自分の言葉でノーオに書きこんでいくのだ。
 学校の勉強をすべて断ち切ったところで組み立てられた活動だったが、中学生のクラスだけは三人の三年生がいたこともあって、週に一度だけ関数の授業を組み入れることにした。それもまた一度は取り組んでみたいと思っていたことなのだ。というのもこの関数というところで多くの子供たちがつまずく。ここから数学がわからなくなっていくのだ。そこで中学の三年間で学ぶ関数をとりだして、一年間かけて連続した授業のなかでこの関数を教えていこうと思ったのだ。この関数という峠をうまく乗り越えれば、たいていの中学生は数学が好きになっていく。
 中学生クラスの主体は一年生だから、当然関数の基本からはじめていく。まず関数の表をつくらせ、次にグラフ用紙にY軸とX軸を書かせて、そこに関数表からとりだしてきた点をいれ、その点を線で結ぶ。そういう単純な作業はなかなか楽しいことだった。その作業を何度も繰り返していくと関数というものがどういうものかおぼろげながらわかっていく。そういう段階をとって教科書の問題を解かしていく。子供たちがどんどん正解をだしていくとその授業は完了する。
 しかし長太はそこで打ち切らずに、さらに一段階深めた授業を展開していくのだ。子供たちに問題を作らせるという課題に。それは長太がいつも考えていたことだった。学校の授業では子供たちはいつだって受け身だ。いつも一方的に次の問題を解け、次の問題の空欄を埋めよと命令されていく。いつもいつも子供たちは受け身のなかでその力を判断されていくのだ。そういう受け身の授業ではなく、もっと創造的な授業のなかで数学という科目に取り組むことができないものかと。その一つの答えをゼームス塾の最後の授業で試みるのだった。
 問題を解くという過程では、まだ子供たちは関数がよくわかっていない。ただ教えられるままに問題が解けたということにすぎない。しかし問題をつくるということは、関数の思想や構造や仕組みというものがわかっていなければならなかった。どうしてこんな風になっていくのか、どうしてこのような答えがでてくるのか、いったいなぜこのような計算が必要なのか、どうして関数というものがあるのかと彼らの思考は実に深いところに届いていくのだ。
 新しいクラス編成は一年生も二年生も三年生もなかったから、一年生が三年生に出題するということもおこる。洋文という一年生が問題をつくった。その問題を三年生の直人が解くのだが、その答案用紙をみた直人が洋文に言った。
「お前、生意気だぞ、次の問題を解けだなんてよ」
「教科書がそうなってるから」
「教科書じゃなくてよ、お前が先輩に出すんだからさ、この問題をお願いだから解いて下さいとかさ、この問題をやって下さいとかさ、そんな風に書いてくれよな」
 そう指摘された洋文は、直人に出すときはこう書くようになった。
《この問題はちょっと先輩にはむりだと思いますが、がんばってといて下さい》と。
 こうして子供たちは問題づくりに熱中していった。数学の授業において子供たちははじめて受け身の姿勢から、能動の姿勢に立つことができたのだ。彼らは創造することによって、わかりにくかった関数というものがはっきりとわかっていく子供たちになっていくのだった。
 二学期に入ると二年生も三年生も学校の授業が関数に入っていく。ある日二年生の光雄が長太に言った。
「先生、数学というものが分かってきました」
「そうか、分かってきたのか」
「だんだん数学というものが見えてきました」
「見えてきたのか、それはすごいな」
「数学ってこういうものかって、だんだん分かってきました」
「そうだね、光雄はもう数学が大好きになったものね」
「なんだ、こんなことかって思うようになってきたから」
 それは実に深いところからくみ出されてきた言葉だった。彼は成績のよい子ではなかった。彼の一歩一歩はとてもゆっくりだった。しかしその一つ一つをかみしめながら歩く子供だった。おそらくこの関数の授業でも、彼は一つ一つをどうしてこうなるのだという疑問をいつも自分につきつけながら歩いていたはずだった。彼の分かったという言葉は、優等生たちが分かったと言うこととはまるでちがった言葉なのだ。
 小学生のクラスもまた燃えていった。学習塾本来の授業をしていたときには子供たちはよく休んだ。しかしこの活動をはじめてから出席率が百パーセントだった。子供たちはそれぞれ自分の興味あるテーマに燃えるような情熱で取り組んでいる。観察図鑑をつくる子供がいた。自由研究のノートを作る子供がいた。童話や絵本づくりをしている子供たちがいた。昆虫採集の標本づくりをする子供がいた。川の一生を三十メートルになるばかりの巻紙に描いている子供がいた。森づくりのイラストを描いている子供たちがいた。それぞれやっていることはみんなちがっていた。しかしどの子もみんな燃えているのだった。
 そんな活動のなか長太と子供たちを結びつけたのが夏の合宿だった。その年長太はいっさい勉強とは無縁の十日間の合宿を丹沢の基地で行った。弘たちの子供団の活動をみていて、いつか自分の塾でもああいう創造的な合宿をしてみたいと思いつづけていたのだが、その長年の念願をまたこの夏に組み立てることができたのだ。
 二年前に達也や大介たちが樹上の小屋づくりに取り組んだ。その樹上の小屋は子供たちの圧倒的な人気を得た。山のなかに自分たちの秘密の基地をつくるなんて、子供たちをわくわくさせるのだ。その最後の合宿のテーマがその活動だった。そんな規模の大きな合宿にしたため、父母たちの応援が必要だった。そこで長太は子供たちの父母たちに参加をよびかけた。するとその説明会に母親ばかりか父親たちもやってきた。そして実行委員会が生まれて、その合宿を応援するという体制がつくられた。
 それもまた長太にとって驚きだった。弘の子供団や智子の分校の父母たちを巻き込んで活動を展開させていくのをみながら、ゼームス塾ではそういう活動は絶対にできないと思ってきたのだ。しかしそうではなかった。父母たちも丹沢にいきたかったのだ。彼らもまた子供たちとなにかを建設したかったのだ。そのことが最後の土壇場になって長太にわかるのだった。

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珈琲亭・白鯨(モービィディック) 3


 ソ連軍が国境線を突破した。その報が信濃開拓村に伝わると村民は二つに分断されてしまった。幸子の父親正義はこの村の村長だった。ソ連軍は怒涛のように進撃をしてくる、ただちに避難しようと正義は村民に告げた。しかし元軍人の開拓民が反対した。われわれはこの村を離れるべきではない、この村は天皇陛下から与えられたのだ、この村を守り続けなければならない、世界最強の軍隊関東軍がかならず敵の進撃を撃破するはずだと。二つの意見がはげしくぶつかって分裂した行動をとることになった。
 開拓村に残った村民は一人も日本に帰ってこなかった。正義の側についた百七十三人の逃避行もまた死に向かって迷走しているようなものだった。四日目に武装した現地人から襲撃された。開拓村の男たちは根こそぎ関東軍に召集されていて、男といったら高齢者と子供のみだった。銃を手にして戦った男も女もばたばたと打ち倒され、正義もその戦闘で倒された。逃亡は河を渡らねばならなかった。幸子の母親が太郎を背負って渡ったが、二人とも激流に飲み込まれてしまった。幸子は次郎を背負って渡河できたが、次郎はもう呼吸をしていなかった。山また山を越え、荒野また荒野をさまよい、身も心もボロボロになって大連の収容所にたどり着いたときは、たったの七人だけになっていた。
 佐世保に上陸した幸子は信濃大町の生家に帰還した。一年後に謙作がラバウルの収容所から日本に帰ってきた。政府は戻る家も仕事もない満州からの帰還者たちのために、国有林に入植させる政策をスタートさせていて、青森県の六ヶ所村も入植地の一つだった。謙作と幸子はその地を選択した。
 夜明けとともに山林を切り拓く開墾作業だった。人力による作業は遅々とした歩みだったが、開墾した畑に麦を蒔き、馬鈴薯を植え込んだ。田圃も造成して稲も植えた。満州では種をまくとみるみるうちに育っていったが、この土地では作物は思うように育たない。寒い夏になると作物は全滅にちかいほどの打撃を受ける。土地が痩せているうえに、ヤマセという偏東風がつねに寒気をはこびこんでくるからだった。この土地はもともと農業には適さない土地だった。しかし謙作と幸子は懸命に働いた。
 子供も生まれた。雄治と名づけた子は頭がよかった。高校は多数の東大合格者をだすという進学校に入れた。寮生活だった。彼は東大に入った。仕送りは全収入の半分をこえるほどだったが息子は彼らの希望だった。
 久しぶりに謙作は六ヶ所村を訪れた。幅が五、六十メートルもある道路が、地平を切り裂くように走っている。遣路の両側には有刺鉄線がどこまでもはりめぐらされている。謙作と幸子が開墾した畑や田圃はその有刺鉄線の奥にあった。謙作は道路からその方向にレンズを向けて《写ルンです》のシャッターを切った。

《謙作さん。今度は東京です。謙作さんは冬になると東京にでてきて建設現場で働きましたね。橋の工事だとか、道路工事だとか、地下鉄工事だとか、ビル工事だとか。いってみれば謙作さんは新しい東京をつくった人でもあります。謙作さんがもっとも思い出に残っている建物の写真を撮ってきて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

 農村から出稼ぎにくる季節労働者たちを収容する宿舎には、風呂も食堂もあったが一部屋に七人、八人と詰め込まれ雑魚寝状態だった。六時になると起床ベルが鳴り、階下の食堂で朝食をとると、マイクロバスに乗って作業現場に入る。ただ働いて眠るという殺伐とした生活だった。ある年その作業現場で、クレーン車で吊り上げていた建築資材が滑落して、三人の仲間が下敷きになった。謙作もその場に立っていたが、彼だけはその危難を免れた。彼は仲間の死を嘆き悲しむよりも、都会の片隅で虫けらのように踏み潰されてたまるかという怒りが湧き立ってきた。それはあの地獄のパプアニューギニア戦線を生き抜いてきた怒りだった。謙作はどんな逆境にも耐え抜いてきたのはそのはげしい怒りであったかもしれない。
 謙作は東京が嫌いだった。しかし毎年稲刈りを終えると東京にやってくる。長いときは半年も東京に滞在したこともある。農機具や車の長期ローンの返済、肥料代やガソリン代の経費、それにもっとも出費を要する息子への仕送りといくらでも金がかかる。その金を稼ぐために出稼ぎが不可欠だった。謙作がいつも危険な作業を担ったのは高額の報酬が得られるからだった。
 その出稼ぎは五十代の後半まで続けていたから、彼が建設作業にかかわった場所といったら五、六十か所にも及んでいた。鮫洲、日比谷、世田谷、初台、新宿、お台場、川崎、千葉、幕張、大塚、初台、と。都心の作業現場が多かったが、千葉や川崎や横浜の建設に投入されたこともある。謙作は古い記憶をよみがえらせて、彼がかかわった工事現場を訪ね歩いてみた。謙作が住み込んだ建設会社は、大企業の下請けのまたその下請けの会社だったから、大工事が多く大きな規模の建物がたてられた。しかし謙作がその場に足を運んでみるが、写真を撮りたいといった感情は湧き起こらなかった。作業現場とプライバシーもなにもない雑魚寝する宿舎をただ往復するだけの殺伐とした日常のなかで、彼がいつも思っていたのは六ヶ所村だった。開墾した田畑、森林、空気、村の生活、土地、人々の声、食べ物。東京で出稼ぎの時間、ただひたすら彼は六ヶ所村を思い描くことで出稼ぎ生活を支えていたのだ。
 しかしそんな彼にも品川埠頭の運河にかかる橋を見たとき、彼のなかにどっと懐かしい思いが噴き出してきた。大井野鳥公園から城南島に向かって走る道路に渡されたなんの変哲もない平凡な橋だった。彼はその橋の建設に二年ほど投入されていた。いまその橋の欄干にゆりかもめがずらりと列をなして止まっていた。謙作はリュックから《写ルンです》を取り出してその光景をとらえた。

 カレンダーがまた一枚めくられて十一月に入った。間もなく冬将軍の到来を告げるように珈琲亭の窓から眺める空は、冷気で引きしまり青く澄んでいる。謙作はウエイトレスから手渡された紙袋のなかから封書を取り出した。

《謙作さん。幸子さんがなくなってもう十二年もたつのですね。幸子さんが眠っているお墓にいって、写真を撮ってきてほしいのです。東北はもう冬で、朝晩は厳しく冷え込むでしょう。風邪をひかないように、セーターなどを暖かい恰好で旅だって、おっとこんなことは私たちよりもずうっと謙作さんにはわかっていることですよね。切符と《写ルンです》が紙袋のなかに入っています。それでいつものように旅から戻ってきたら、このテーブルにおいて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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翻訳の危機

前章で日本の翻訳の技は世界一であると書いたが、ずいぶんずさんな安っぽい翻訳本としばしば出会うこともまたもう一つの現実だった。どうでもいい本ならばそんな翻訳がなされたっていっこうにかまわないが、新世界を開かんとする生命力あふれた本が安っぽく訳されるのはたまらない。このような翻訳本を手にするたびに、なにか日本の翻訳の技というものが大きく変質しているのではないかと思ったりするのだ。安っぽく翻訳する翻訳者が大量に現れて、彼らの手に翻訳の主流が渡されているのではないのかと。大量に現れるのは、幾つか翻訳者を養成する専門学校があって、そこから翻訳たちがどっとこの世界になだれ込んでくるからである。

彼らはその専門学校で厳しい訓練を受け、優秀な成績で卒業してきただけあって、その英語は正確に訳されている。しかし翻訳された文章は、なにか新聞記事を読むような安っぽさなのだ。ただ正確に訳されただけの文章、翻訳ソフトの精度を少し上げた程度の文章──それを安っぽい翻訳とよぶのだが。文章に艶がないのだ。深みがないのだ。日本語を成熟させていないのだ。翻訳者養成学校の卒業生たちの翻訳する文章が、一様に新聞記事のような文体になるのは日本語の土壌ができていないからなのだ。翻訳とは究極するに日本語を紡いでいくことであり、日本語の土壌ができていなかったら、成熟した日本語に織り上がるわけがない。

帰国子女たちが翻訳した本がしばしば登場する。鋭敏な読書家ならば、それらの本を二、三ページ読んだだけで、言葉に根がないことに気づくはずだ。空っぽの日本語で翻訳されている、根のない日本語が綴られている、と。翻訳専門学校から巣立って、新聞記事のような文体で翻訳する翻訳者たちの本に、同じような気配が濃厚にただよっているのは、おそらく彼らは膨大な時間を外国語学習に捧げることはあっても、日本語の土壌を豊かにするための宿題──言葉の人としてこの地上に立つための作業をしてこなかったからなのだ。痩せた土壌からは痩せた言葉しか生まれてこない。

黒船とともに英語が日本に襲いかかってきた。このとき翻訳者たちは暗殺におびえながら、圧倒的な英語に立ち向かい、その英語を次々に日本語に取り込んでいった。彼らの奮闘が日本語をより強靭に、より豊かに、より美しく、より深くさせた。日本語は英語に対峙するばかりか、英語を飲み込んでいくたくましい言語に育て上げていったのだ。それは今日でもそうなのであって、世界にはいつも新しい思想が、新しい文芸が生まれていく。それらの仕事に真っ先に立ち向かって、ただならぬ波紋を世界に投じるその新しい果実を日本語に取り込んでいくのは、翻訳者たちなのだ。私たちはもうそのことに気づかなければならない。翻訳者こそ日本語の最先端に立って、日本語を豊穣にさせている人々なのだということを。

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嵐が丘はそんなにひどい悪訳なのか

──新潮社の「嵐が丘」(田中 西二郎 訳)は、もともと名訳として知られていた。ところが数年前、突然、それが絶版となり、新訳となった。それがこの本だ。一読して、あまりにもひどい翻訳に頭を掻きむしった。読むのが苦痛である。こんな翻訳はさっさと絶版にしてほしい。以前の田中西二郎訳に戻してほしい。
──嵐が丘を原文で読んだ人なら、誤訳の多さにまず気が付く。それ以上に問題なのは、もう6人の方がレビューしているとおり、稚拙な日本語。私は複数の訳を読んだが、この人の訳が一番ひどい。日本語を書けない人は翻訳家になる資格はない。こんなものを出版した新潮社に猛省を促したい。
──読むことがこんなに苦痛である翻訳に生まれて初めて出会った。というより、これはもうほとんど日本語ではない。聞いたこともない変てこりんな言葉、文法的にありえない語尾、そして何よりもリズム感のかけらもない文体。「嵐が丘」は実は初めて読んだのだが、最初の数ページで「え? これが本当に世界10大小説のひとつなのか?」と唖然とした。数章を行きつ戻りつ、ゼイゼイいいながら読み進んだが、ついに断念。
──なぜ、今頃こんな悪訳が、現代の一流出版社から出てくるのか、理解に苦しみます。なによりも日本語が拙劣すぎる。リズムが悪いだけでなく、そもそも意味が分からない、一行一行読むのが苦痛でした。はっきりいって、誤訳がある以前の問題。誤訳かどうか判定しがたいほど日本語がまずい。翻訳というのは、先人たちの努力の積み重ねであって、少しづつ誤訳を失くしながら、現代人に伝わるように、表現を工夫していくものだと思いますが、本訳業は、今までの積み重ねを無視するだけならまだしも、読者にも後進の翻訳家にも苦痛以外何も与えないと思います。

対話編
──アマゾンのサイトにはレビュー欄があるわよね。
──感想文というコーナーだね、ぼくもよくアマゾンで本を買うが、そのときたいていそのレビュー欄を読むな。
──その本を読んだ後も、また読むことになる。
──ほかの人の感想を知りたくなるんだよな。アマゾンがこれほどの巨大な会社になった一つには、このレビュー欄をつくったことにあるじゃないのか。
──それはいえる、もともとアマゾンはオンライン書店という本を売る、まったく新しいシステムを開発してスタートした会社だから。
──その本を読んだ人の感想文を、いわば本の広告掲示版に載せるなんていう発想は画期的だった。
──面白くなかった、買って損をした、十ページ読んで投げ捨ててしまった、本代返してくれっていうレビーもそのまま載せるわけだからね。
──この嵐が丘のレビューはその典型的な例だ。
──こういうレビーで、さらに本が売れるっていうこともあるかもしれないわよ。逆のレビューだって書き込まれているんだから。感動したとか、新鮮な日本語だったとか。
──でもこのコラムはもっと違ったことを問いかけているんじゃないのか、もっと根源的なことを。
──どんなことを?
──ちょっとした書店には翻訳文学のコーナーがあって、そこに何十冊もの本が置かれていたじゃない。
──それはもう十年前、二十年前の話でしょう。
──町の小さな本屋にもちゃんとそのコーナーがあったよ。でもいまはハードカバーの翻訳小説なんて一冊も置いてない。
──翻訳小説はもう売れなくなったのよ。
──そう、売れなくなった、まったく売れない。かつて世界文学全集なるものが、あちこちの出版社から発行されて、出版社のドル箱だったんだがね。
──翻訳小説だけじゃない、日本文学だって売れない。売れていくのは、いかに人間を殺したのか、いかにして殺した人間を発見したといった推理小説ばかり。日本語がどんどん衰弱していると思わない?
──まったく、同感だ。

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原田奈翁雄さんからの手紙

原田さんから便箋六枚の長文のお便りをいただいた。原田さんが投じられた「生涯編集者」の魂はいささかも衰えていず、「たとえ片足が棺桶に入っていようが、生きて息のあるかぎり私はたたかいつづけます。どんなに無力非力であろうとも、最後は虫の息になろうとも、それはつづきます」としたためられ、そして、いま草の葉ライブラリーが取り組んでいる「ゲルニカの旗 南の海の島」のゆくえを案じて下さったお便りだった。
この本に編まれている三百枚に及ぶ高尾五郎さんの「ゲルニカの旗」は、原田奈翁雄さんが径書房から投じた「ゲルニカ事件──どちらが本当の教育」を下敷きにして書かれている。そしてこの作品は、原田さんが発行する雑誌「ふたりから」に掲載されたのだ。
いったいこのゲルニカ事件はどんな事件だったのか。

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福岡市立長尾小学校ゲルニカ事件

1988年3月の卒業式の際に、卒業生たち卒業記念作品としてパブロ・ピカソの「ゲルニカ」を模倣した旗(以降、「ゲルニカの旗」と呼称する)を作製した。児童はゲルニカの旗を式典会場の正面ステージに貼ることを希望したが、校長の指示により、ステージ正面には日章旗が掲げられ、ゲルニカの旗はパネルに貼られた状態で卒業生席背面に掲げられた。なお、ゲルニカの旗をパネルに貼って掲げることは校長によって提示された修正案だが、職員会議での合意は得られていない。
これに対する抗議の意味で、卒業式当日には、卒業生代表児童挨拶での校長への批判発言もあり、君が代の斉唱の際に着席するなど児童がいた。この児童らに同調し、着席、また退場の際に右手こぶしを振り上げる行動をした教諭に対し、福岡市教育委員会は同年6月、教育公務員としての職の信用を傷つけるものとし、地方公務員法に基づき戒告処分を行った。
この教諭に対する戒告処分の撤回訴訟を『福岡市立長尾小学校ゲルニカ事件』(あるいは単に『ゲルニカ事件』)と呼称する。
1998年2月24日に福岡地方裁判所は請求を棄却する判決を下した。教諭は、控訴、上告したが、1999年11月26日に福岡高等裁判所は1審判決を支持し、原告側の控訴を棄却。
2000年9月8日には最高裁判所によって上告が棄却された。
福岡高裁判決要旨
処分に事実誤認はなく、社会通念上、著しく妥当性を欠くものではない。
着席は児童に呼応するかのように行われたと認められる。
右手こぶしを振り上げての退場は、来賓や保護者に抗議ないし勝利の意志を表現したと評価すべきである。
児童の抗議については、(ゲルニカ模写の)旗が正面に掲げられず、日の丸が掲げられた理由の説明責任は教諭側にもあり、この観点から児童の発言が正当化されることがあっても、教師が着席や右手こぶしを振り上げる行動まで正当化される理由とはならない。また、教師としてふさわしい行為とはとうてい言えない。
最高裁判決要旨
処分に事実誤認はなく、社会通念場著しく妥当性を欠くものではない。
儀式的行事の運営を決定する権限は校長にあると解するのが相当である。職員会議は校長の諮問機関として尊重されるべきではあるが、校務に関する校長の職務権限自体に影響を与えるものではない。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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三十年も前の事件だった。しかし最近になって、樋渡直哉さんがこの事件を正面から取り上げた文章を樋渡さんのブログに書き込まれている。その全文を転載する。樋渡さんは元教員であるからその視点が深く鋭い。

ゲルニカ事件──どちらが本当の教育か  樋渡直哉

九州の小学校(1989年 福岡市立長尾小学校)で、六年生が平和への決意をこめて「ゲルニカ」の幕を作成、卒業式会場に掲げることになり、予行では実際に正面にはられた。しかし、校長は、「日の丸」を重視、混乱が起こってもよいと、「ゲルニカ」を正面から撤去して父兄席の後ろに移して、日の丸を正面に貼り付けてしまった。

この6年3組は、5年生の時には「クラス崩壊」していた。担任は何度も変わり、最後は教務主任が強権的に子供を抑えて、担任の代わりを果たす。いじめも絶えなかった。6年で新しく赴任して来た先生が担任になる。6年の教師集団も意思が通うようになった。新しい担任井上龍一郎先生は、「クラスの旗」を作ったり、授業にも工夫を加え、不断の努力で子供達を変えていった。やがて卒業式の時期になり、「卒業制作」で「ゲルニカ」の大きな大きな幕を作る。素晴らしい出来映えだったと言う。この制作には多くの時間が割かれ、子供達の学びが続き、緩やかな団結を育んだ。 生徒たちは「ゲルニカ」の幕を卒業式場の正面に飾りたいと考えたが、校長が日の丸・君が代にこだわり職権でやると譲らない。何度も職員会議が開かれ、式の委員会でも「ゲルニカ」が推されたのである。

 卒業式当日、式次第が「国歌斉唱」まですすんだとき、卒業する」六年生の女の子が、「歌いません」と大きな声で発言し着席すると同時に、卒業生の約四分の一が着席、父母の中にも同調する人がいた。卒業証書授与の順番が、この女の子に回ってきたとき、彼女はこう発言した。卒業生は全員が父母席に向かって、決意を述べることになっていたからである。

 「私は『ゲルニカ』をステージに貼ってくれなかったことについて深く怒り、そして、侮辱を感じています。校長先生は私たちを大切に思っていなかったようです。『ゲルニカ』には、平和への願いや私たちの人生への希望も託していたというのに、貼って下さいませんでした。私は、怒りや屈辱をもって卒業します。私は絶対、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」

 来賓席からは、下品な野次が飛んだ。このほかにも、十数名の卒業生が、「ゲルニカ」にふれて決意を述べた。この日から、この女の子と担任への地域ぐるみのいやがらせが始まり、担任は教育委員会から懲戒処分。このとき、日の丸は国旗ではなく、君が代は国旗でもなかった。

 子どもの気持ちを考えて、彼は提訴。裁判は最高裁まで持ち込まれた。東京のTV局はこれを「ゲルニカ裁判」と名付けた。裁判中担任は、右翼に付け狙われ、危険な場面も度々あった。ドスを右手で掴んだときには、ポロポロと指先が落ちた。彼は裁判で敗訴。定年を数年残し退職し「書家」となった。

「君は、国旗への忠誠、国歌の斉唱、その他類似の行事への参加を強制されない」
これは、アメリカ・マサチューセッツ州高校生が、教育委員会の援助の下につくった高校生の人権ガイドの一項目。
もし、この事件がフランスで起こっていたらと考えてしまう。
 フランス刑法431条1項 「表現、就業、結社、集会、もしくはデモを妨げる行為は、共謀及び脅しを用いた場合は1年の禁固刑及び1万5千ユーロ(約208万円)の罰金、暴力及び損壊行為によるによる妨害の場合は3年の禁固刑及び4万5千ユーロ(約625万円)の罰金に処す」
こどもたちの、表現を妨げた校長やヤジを飛ばした人(実は、平和教育を敵視する地方議員であった)が罰せられることになる。法は弱い者を守る、それが法治国であり立憲主義である。
この校長が、もし教育者であれば、自分の在職中、学級崩壊になすすべ無かったことを恥じ、詫びる筈である。その上で子どもたちの意思を尊重し、6年3組の苦難と再生を振り返り総括すべきだった。折角の機会を自ら台無しにしている。

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