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詩と詩人を救い出す農具

 近著(「有機農業の力」創森社刊)をお送りいただきまして、しっかりと読ませていただきましたが、精読したいま思い至るのは日本の編集者たちは、あるいは日本の出版人たちは、どうして星さんの核心に立ち向かう創造をしないのだろうかというもどかしさでした。なるほどこのようなエッセイもまた大切な仕事だと思われます。しかし星さんの創造の火山に火をつけるのは、この種のエッセイではないのです。もっともこのようなもどかしさを持つこと自体が、異様なことなのかもしれません。詩の本はまったく売れません。詩集などを出せばさらに経営を悪化させるだけです。ですから今日詩集に取り組む出版社など皆無なのですから。

 しかしだからこそ星さんは、詩を書き続けなければならぬと思うのです。今日詩というものは、大学の先生たち高等遊民の知的遊戯となってしまいました。彼らの手から、詩をとりもどすためにも、星さんは詩を書き続けなければならないと思います。詩はかならず復活します。かならず新しい詩人たちが現れて、詩を復活させます。そういう時代につなげるために、あるいはそういう時代を生みだすための地下水脈をつくるために、星さんは詩を刻みこみ続けなければならないと思うのです。

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 私はいま『The CLEARING―開墾地』というウエッブジン(コンピュータ上につくる雑誌)を創刊させましたが、星さんにとってインターネットなど無縁の世界であり、そのようなものは、まったく不要なものだとお考えになっているにちがいありません。それはそれで正解だと思います。世はしきりにIT革命だとか情報産業だとか騒ぎたてていますが、その中心となるインターネットの実態とは、ただの欲情露出の掲示版といった域をでていません。どのページを開いても、そこに深い言葉が刻みこまれているわけではありません。本物の創造の厳しさをくぐり抜けて、打ち込まれた言葉に出会うことはめったにありません。ここから新しい時代をつくりだすような思想や文化などは生まれないでしょう。ですからインターネットの世界に立ち入るなど、全くの時間の無駄だと考えるのは、実に正解であると思います。

 私がこの世界に入ることにためらい、遠ざけていたのも、それらの印象があったからなのですが、さらにはコンピュータというものが、横書きという構造になっているからでした。私が自分の作品を発表するときはすべて縦書でした。これまで刊行した本も、もちろんすべて縦書きでした。小説を本にするとは、ただ文字をページに刷りこむということだけでありません。言葉がそのページのなかで交響したり、光と影をつくりだしたり、さらには多彩に染め上げたりしていく。言葉がつくりだしていく、そのような効果は、縦書きという構造がもたらすものだと思っていたのです。その構造を取り払ったときいったいどうなるのか。例えばもしインターネットの世界が、縦書きの構造になっているとしたら、西洋の作家たちはそんな世界に入ることを即座に拒否するでしょう。横に流れている言葉を縦に組み替えるなどということは、言語の機能を破壊するに等しいことだからです。

 もちろん今日では、コンピュータのなかに縦に文字を打ち込むことは容易になりました。しかしコンピュータとは本質的に横組みの構造になっていて、このなかに縦に流れていく文字を組み込むということは、何か流れに逆らって泳いでいくような違和感にとらわれます。この私の違和感と抵抗感を、日本の詩人たちはさらに強く抱くにちがいありません。詩が横に組まれるなど、それは詩の生命を破壊するものだと。しかしいまあえて星さんの詩三編を、横組みにしてこの開墾地に植林しましたが、縦組みとは違った毅然とした響きと色彩が、その画面から放たれているとはお感じにならないでしょうか。私もまた二千枚の作品をここに刻み込んでもよいという勇気をえたのは、日本語という言語を、横組みにしても、その機能を損なうものではないという思いに至ったからです。それどころか縦に組まれた文字とは違った、色彩や響きがつくりだされていくようにも思えてくるのです。

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 こうしてこの開墾地に言葉を刻みこんでいくとき、星さんに伝えるある確信が次第に私のなかで育っていきます。たとえばその作品が幸運なことにある出版社から出版されたとします。そのとき作品が読者の手に渡る経過というものをちょっと図解すると、

  言葉→原稿→交渉→編集→校正→出版→取次店→書店→読者

 こうして実に何段階もの作業を経て、ようやく読者の手に渡っていきます。詩人にとって労作が、ハードカバーの本になって、上梓されるということは無上の喜びです。ですからその過程がどんなに繁雑であっても、膨大な時間や工ネルギーや資金を費やしても、その作品を本にしたいという欲望は消し去ることはできないでしょう。しかしその本は、読書社会のなかでどのような運命をとるのか。詩集はまったく売れませんから、せいぜい多く刷っても一千部程度でしょう。その本が書店におかれたとしても二三週間程度です。実際に売れるのは限りなくゼロに近いはずです。売れ残った本は、どっと出版社に返品され、倉庫の隅にうず高く積まれ、やがて断裁されて、ごみ焼却場に送られていきます。

 こういう現実をみるとき、私たちはインターネットという世界を、全く新しい視点でみる必要があるように思うのです。例えば、本という形態が私たちの社会に登場してきたのは、ほんの百五十年前のことにすぎないのです。何千年という人類の歴史のなかで、表現の手段として本という文化をつくりだした期間は、わずか百五十年程度なのです。こういうサイクルに立ってみるとき、インターネットが次の世紀の表現の手段に成長していく可能性を、たっぷりと孕んでいることに、いやが上にも気づかされるのです。例えば、本を読者のもとに送り出すに、うんざりするばかりの過程がありましたが、この世界では、

  言葉→インターネット→読者

 と、たった三段階で読者と巡りあうことができるのです。もちろんいまや日本のインターネットも、海といっていいばかりに膨大になっていて、そんななかで読者を獲得するのは容易ではありません。ここでもまた多大な時間をついやしても、そのページを訪れる訪問者は、年間わずかに十数人という結果になるかもしれません。しかし刻み込まれたその言葉に力があれば、その作品に生命力があれば、本にするよりは、はるかに多くの読者と巡りあえるはずなのです。

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 冒頭で現実のインターネットは空っぽであると書きましたが、それはいまこの世界が、ただ情報を交錯させる手段としてしか使われていないからなのです。商品の宣伝板として、欲望の告知板として。こういう目的だけで占領されているから限りなく言葉は安っぽく、その底にある安っぽい精神がいよいよ露呈されていくのです。しかしもし言葉の農夫たちが、この世界のなかに魂の言葉を刻みこみはじめ、あちこちに広大な魂の森をつくりだしていくとき、その土壌は確実に変革されていくでしょう。もしかしたら二十世紀末期に突如として出現してきたインターネットの世界とは、無残に衰退した詩を蘇生させ、詩人たちを救いだしていく、まったく新しい機能をもった表現の道具になっていくかもしれないのです。

 星さんの詩をこの開墾地に植林したのは、この土壌を豊かにするためでありました。しかしさらに二つの意志をこめているのです。一つは星さんの詩を多くの人々に知ってもらうためです。創造の厳しさ、そして日本語の美しさと強さを。さらにもう一つは星さんの創造の活火山に火を投じるためです。星さんの全身はいまなお隠されたままであり、もしその全身が地上に現れたとき私たちはそこに広大な魂の森を見るはずなのです。

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