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彼女とぼくは運命の糸で、最初から結ばれていたのか

 その週があけた月曜日の夕方、都会生活社に戻ってくると、玄関でばったりと瀧口に会った。
「おい、実藤君。元気でやっているか」
「ええ、まあ、元気です」
「どうだね、久しぶりに一杯やるか」
「いいですね」
「じやあ、例のところにいるからやってきなさい」
 瀧口茂雄は社長の大竹と都会生活社を支えている二つの鉄骨なのに、いまだに編集長とよばれるのは、『都会生活』の創刊から二十年も編集長として第一線に立っていたその名残りからだった。副社長というよりも編集長という名が彼にはふさわしいのだ。
 彼が第一線に立っていたころ、よくぼくたちを夜の酒場に連れ出した。飲むほどに酔うほどに、瀧口は饒舌になり、狙上にのせる話題も古今東西に及んでつきることがなかった。その談論風発はなかなか含蓄に富んでいて、ぼくたちの無知をいたく啓蒙するものだから、瀧口と飲む夜の酒場を瀧口学校とよんだものだ。三年前に『都会生活』の編集から足を洗って、社の仕事に専念するようになってからも、酒場での瀧口学校は続いていたのだが、会社の雲行きが怪しくなるにつれて次第に間遠になっていって、いまではまったく瀧口と飲むことがなくなっていた。
 その夜早々に仕事を切り上げたぼくは、令子や野口や岡嶋や森本をさそって新宿にある居酒屋《烏》にでかけた。おかみと大声で談笑していた瀧口のまわりにぼくたちは座り込むと、ほとんど同時に令子や野口が、
「編集長、都会生活社はどうなるんですか」
 とたずねた。
「おいおい、なんだいカラスの合唱みたいに」
「寄るとさわると、この話なんですよ」
「なにも心配することはないさ」
「なにやらおかしな噂が乱れ飛んでいるんですがね」
 買収されるとか、社員の半分は削減されるとか、とぼくたちは口々にその不安を訴えるのだった。
「コミック雑誌で這い上がってきた会社に、身売りするなんていう噂もありますけど、ヘんなことをしてもらいたくないですね」
 と森本が言うと、
「ぼくらだって戦うときには戦いますよ。ぼくらの力が必要なときにはいつでも言って下さい」
 と野口もまた言った。
「涙がでるようなことを言ってくれるねえ」
「社長はずいぶん痩せましたね」
「そうさ。大竹も、まさかこんなことになるとは、思わなかっただろうよ。もっと早ければ、もっと違った手が打てるわけだがね」
「いまは安っぽい低俗なものしか売れない時代なんだな。こういう時代に負けたということですかね」
「言いたいことはいっぱいある。しかしいまはなにを言っても、負け惜しみになるから、なにも言わないさ。ただ黙って耐えるしかないというところだねえ。なるようにしかならないんだ。しかしね、そのなるようにしかならないという選択のなかに、ぼくたちはいつでも君たちがどうなるかということを常に頭にいれてある。会社ではなく、君たちをどうするかだよ。君たちを路頭にほうりだすわけにはいかないだろう。君たちが生き残る道しか、ぼくも大竹も選ばないよ」
 ぼくたちは、もうその話はしなかった。それがいま修羅場に立っている、瀧口にたいする、ぼくたちのやさしさだった。
 瀧口の話は、文壇の論争史といったものに転じていった。彼の博識はちょっと怪しげでもあったから、エセアカデミストなどという陰口もたたかれたりしたが、しかしかなり以前から彼の郷里である仙台の女子大の講師として、週に一度教壇に立っているぐらいだから、彼の博覧強記にはなかなか説得力があるのだ。ぼくはずいぶんこのエセ学校で、いろんなことを学んだ。
「久しぶりだな。こういう美味い酒は」
 と瀧口は楽しそうに言った。
「瀧口学校を閉鎖しちゃだめだということですよ」
「そういうことだね」
「ぼくらと飲むことを止めたから、会社は傾きだしたんじゃないんですか」
「言えてるかもしれんねえ」            
 そのときぼくは、ふと瀧口にたずねてみた。
「瀧口さんは、田島修造という人を知りませんか」
「田島修造?」
 瀧口は、おやといった表情をして、たずね返してきた。
「ええ、田島修造です。ちょうど瀧口さんと同じ年代だし、大学も同じなんですよ」
「君がなぜ田島を知っているんだ?」
「じゃあ、ご存知なんですか」
 ぼくはびっくりして訊いた。
「知ってるも知ってないもないさ。あいつの葬式で、ぼくが弔辞を読んだぐらいだからな」
 ぼくは驚きで声もでなかった。なんということなのだろう。世界は狭いということなのだろうか。
「君はまたなぜ田島修造を知っているんだ?」
「ええ、まあ、ちょっと」
 そのとき、すべてを彼に告白したい衝動にかられた。宏子のことを。その出会いの一切を。そしてぼくたちが愛しあっていることを。しかし隠す理由などなにもないのに、あいまいに濁してしまった。するとなんだか、瀧口は、そんなぼくを見抜いたように、
「そういえば、彼にはお嬢さんがいたな。美しいお嬢さんだった。あのお嬢さんは、いまどうしているのだろうか」
 そのときぼくは、なんだかあわてて、そのところはわきに置いておいてと言うように、
「なんでも田島修造という人物は、コロンブスを追いかけて、ヨーロッパを転々としたらしいですね。そのコロンブスに関する膨大なノオトが残っているという噂ですけど」
「そうなんだ。二十年にわたる放浪の旅を終えて、ヨーロッパから日本に帰ってきたのは、その膨大な研究を本にするためだったんだよ。ああいう男を、天才と呼ぶんだろうねえ」
 ああ、瀧口修造ね、瀧口修造という人物がいたんだよな、おれの人生にああいう人間もよぎっていったんだなあと、なにかその視線をはるか遠くにむけて、彼の青春時代を語りだした。
「あいつの卒業論文というのが、また見事なものだったんだよ。あまりに見事なもんで本になった。西洋で生まれたルネサンスという概念が、いかにまやかしに満ちたものかを、あばきだしているんだ。あちこちでずいぶん評判になって、田島は日本のニーチェだといわれたぐらいだ。大学に残った彼は、たちまち頭角をあらわしてね。次々に衝撃的な論文を発表して、その世界ではちょっとしたスター的存在になっていた。わずか二十七のときに、助教授の椅子についたが、一つの大きな才能が、彗星のように出現したという印象を世にあたえたものだったね。
 ところが彼が三十のとき他人の奥さんを奪いとって、かけおち同然で日本から脱出していくんだ。こともあろうに他人の奥さんというのが、田島をかわいがって引き立ててきた彼の恩師の奥さんだったもんだから、あちこちの雑誌におもしろおかしく書き立てられて、それはちょっとしたスキャンダルといったものになったね。そういう世俗的騒動にうんざりしたんだろうな。突然、日本から、二人は消えてしまった。
 田島が日本にもどってきたとき、ぼくたちは実に二十年ぶりに旧交をあたためたというわけだよ。実に渋い英国風の紳士になっていてね。そのとき田島の口から、はじめてコロンブス論なるものをきくんだ。一年に一冊程度のペースで、十年かけて、十冊のコロンブス論を世に出したいってね。ぼくはすぐに言ったよ。その本、うちで出させてくれってね。彼の本がどんなものになるかわかっているんだ。ちょっとしたブームといったものを、巻き起こすことは目にみえていたからね。よそにとられたくなかったから、契約書まで交わしたほどだった。
 ところが一年たっても、その原稿が上がらない。二年たっても仕上がらない。そのうちに奥さんを失い、そのあとを追いかけるように、田島も茅ケ崎の海岸に消えてしまった。さぞ無念だったろうね。その膨大な研究が、それこそ田島の生命を注ぎこんだものが、木屑となって消えていくわけだからね。だからぼくは、彼がなくなった後も、何度か横浜の山手町にある田島の家に足を運んで、その膨大なノオトの山をあたりながら、一冊でもいいから本にしようとしたんだ。しかし結局だめだったね。とにかくすべて横文字だったからね」
 ぼくは不思議で仕方がなかった。こんな間近に田島修造の友人がいるとは。しかもこの友人とは、ぼくが人生の師とも仰ぐ人だったのだ。宏子とぼくは、もともと結ばれる運命にあったのかもしれない。そうだ、これはまちがいなく、運命の糸で最初から結ばれていたのだとぼくは思うのだった。

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