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あなたが欲しい

20020年6月9日号 目次
あなたが欲しい
珈琲亭・白鯨(モビィディック)
世界一の翻訳の技
制作のスケッチ
九十六歳の周藤さんと路上対決絵画展
Sayuri kobayashiさんのサイトを訪れた─大志あふれる若者よ、島根県の川本町をめざせ

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あなたが欲しい 1


 それは四月に入って新学期がはじまった日のことだった。中学一年生の順子が四人の女の子を引き連れて、どどっと部屋に入ってくると、
「長太、この子たちがこの塾に入りたいんだって」
「えっ、入りたいって……」
「ねえ、お願い、入れてあげて、一生のお願いだから」
「しかし、今年でこの塾は終わるんだよ、だから今年は新入生を募集しないという方針なんだ、それは順子にも言ったじゃないか」
「でも、お願い、一生のお願いだから」
 長太のちょっと困惑した表情を見ると、順子は甘えるような声を発し、彼女の背後にいる三人も、お願いしますと合唱した。
「しかしだね、この塾は、今年はもう学校の勉強はしないんだよ」
「だから入りたいんだって」
 彼女たちの懇願は長太を困惑させた。今年一杯で「ゼームス塾」をたたむことにした、その最後の一年は在席している子供たちだけの活動にする。こうして一年をかけて塾を閉鎖するつもりだった。
「うーん、弱ったな」
「ねえ、長太、お願いだから入れてあげて」
「お願いします!」
 三人の少女はまた声をそろえて合唱する。やむなく長太は言った。
「じゃあ、わかった、明日でもいいから君たちのお母さんをここに連れてきてくれるかな、お母さんたちにぼくから話しをしたいし、またお母さんたちの話も聞きたいから」
「そうしたら、この塾に入れてくれますか」
「うん、そうだね、お母さんたちに理解してもらえたらね」
 長太はそう言ったが、長太はもう女の子たちの群れとかかわりたくない気持ちで一杯だった。どどどっと入ってきては、またどどどっとやめていったあの美和たちの後遺症が長太のなかに強烈にはりついている。あのとき受けた傷がいまだ癒えていないのだ。なるほど最初はどの子も熱心に立ち向かってくれる。しかし飽きるのもまた早い。だからこの女の子たちだって、またさあっと去っていくのだろう。長太は順子たちにそう言ってみたが、本心はやっぱり断ろうと思うのだった。
 長太に塾をたたむことを決意させたのは、丹沢からきた手紙だった。その手紙は毛筆で書かれていた。

「先生を丹沢村にお迎えする所存ですが、それには一年という時間を下さいますか。先生がわが村で成そうとする仕事を、わが村でも先生のその志に対応するために一年という月日が必要です。先生を丹沢村から絶望して帰さないために私も力を注ぐ所存です」
 
 それだけの文章であった。しかしその手紙はこの一年をかけてゼームス坂の塾を引き払えという手紙でもあった。その手紙は長太にそういう決意を促す手紙であったのだ。二人の間にはすでにそういう深い交流があった。
 もう四十路の道を踏み出してしまった長太にとって山仕事は重労働だった。夏休みに何度か矢代たちの作業に加えてもらったことがあった。伐採、草刈り、枝打ちどれをとっても重労働だった。急斜面に張り付いて、灼熱の太陽が放射するなかでの労働は、都会でやわな仕事ばかりしてきた長太を打ち倒すばかりだった。しかしそれでも長太の心は、山へ山へ、丹沢へ丹沢へと向かっていくのだった。
 蝶を追いかけ、一年の半分を自然のなかで過ごしてきたこともあった。蝶の雑誌をつくり、蝶の生態系を研究して、新しい学説を打ち立てようとしたりした。彼が塾を開設したのも蝶を追いかける、蝶の生態系を研究するという生活をつくりだすためだった。そんな生活のなかで未来が見えてくると思ったものだ。しかし未来は少しも見えてこなかった。蝶の研究もすすまない。蝶の学説だって打ち立てられない。蝶の本だってとうとう一冊も出せなかった。
 塾の仕事も曖昧だった。子供たちに深く入れば入るほど自身がなしていることの矛盾を感じるばかりだった。子供たちは力にあふれていた。たくさんの子供たちがやってきて、長太にしきりに彼の世界を打ち立てよと励ましてくれた。しかしついに長太は自らを打ち立てることはできなかった。それどころか年月とともに自滅していくような思いにとらわれるのだった。
 長太はいつも思っていたのだ。この安易な生活にどこかで終止符を打たなければならないと。もう一度このたるみきった肉体を汗をしたらせて鍛え直したいと。たちまち四十になってしまった。四十を越えれば人はみなそれぞれの生命の木をもっている。その幹はいよいよ太く、無数にのびた枝に葉をたわわに茂らせる。しかし長太はまるで枯れ枝がそこに転がっているような生活をしていた。存在の根もなければ、生命の幹もなかった。矢代は長太の苦悩といったものがよくわかっていたのだ。
 この年は塾を閉じるための一年であった。長太はこの最後の一年をいままでやりたいと思っていた活動に費やしてみようと思った。学校の勉強ではなく、受験のための勉強ではなく、子供たちの血と肉をつくる授業を。そのための年間のカリュキュラムを構成すると、そのカリキュラムを子供たちと父母たちに伝えた。彼はもちろん覚悟していた。大半の生徒が塾を去っていくだろうと。ひょっとすると一人も残らないのではないかと思ったりもしていた。ところが一人の子供も去っていかなかった。学校の勉強をしない、テストの点数を上げるための勉強はしないとはっきりと宣言したのに、子供たち全員が残ってくれたのだ。それは長太にとって驚きだった。
 さっそく新しいカリキュラムが四月からスタートした。この新しい授業で動きはじめた塾は新生の光を浴びたかのようだった。子供たちが燃えあがった。塾が活気に包まれた。それはまったく長太の予想もしないことだった。順子が友達をつれてきたのはそんな熱気の反映かもしれなかった。
 その翌日に入りたいといった少女の母親が三人うちそろってやってきた。長太はその母親たちにむしろ冷たく突き放すように応対した。いままで母親たちに対するとき、セールスマンのような安っぽい笑顔をふりまき、なにかこびを売るかのように話していたが、もうそんなことをしなくてもいいのだ。彼は毅然とこれから成そうとする活動を説明した。
「一か月に二度ほど丹沢にいきます、雨の日も決行します、雨の山がまたすごく素敵ですからね、雨のなかを歩かせるんです、この野外活動にもきちんと参加させていただきます、理由なく休む子供は退塾ですね、まあそんなこと考えていますから、学校の勉強というのは全然しません、ですからこの塾にはいってもお子さんの成績は上がらないでしょうね、むしろ逆に成績が下がるかも知れませんよ」
 すると驚いたことに彼女たちはこう言った。
「そういう塾こそ私たちが求めていたんです、ねえ、奥様」
「そうなんですよ、先生のお考えになっているような塾にいれたいと実はずうっと前から思っていたんですよ」
「順子ちゃんが私の家にきて春休みの合宿の話をするのね、川で顔を洗ったとか、風がびゅうびゅう吹いて寒くて手足が痛かったけど、みんなで焚き火をしてジャガイモを焼いて食べたとか、木の上に小屋がつくられていて、そこで寝ていたら鹿がやってきたとか、もうそれは楽しそうな話をするのね、その話を聞いて真理よりも私のほうが感動してしまって、ああ、いまうちの子に必要なのはこの塾だって思ったんですよ」
「なんにもない素朴な生活をさせることが、いまは一番贅沢なことなのよね」
「そう、宝石のような体験だと思うわ」
「いまの学校はただ知識のつめこみだけでしょう」
「そうそう、自分を表現することができないの」
「うちの子はとってもお話を作ることが好きなのね、それがまたなかなかいいのよ、そういう才能をじっくりと育てたいなあって思うのね」
「いまはあたえられた知識をどれだけ丸暗記するかでしょう、そのためのテストでしょう」
 母親たちは長太をわきにおいてそんな話をするのだった。長太はちょっと意外な思いで彼女たちの話を聞いていた。ようやく自分たちだけの会話が失礼だと思ったのか、母親たちは長太に質問をむけた。
「先生は今年でこの塾をたたんで、丹沢にいかれて、そこで山の学校をつくられるとか」
「いえ、まだ具体的な計画があるわけではありませんが、いずれはそういうことに立ち向かっていきたいと考えています、都会の子供たちや若者たちに山とか森に目を向けさせる活動ですね」
「それに順子ちゃんたちは参加していくとか」
「できるならばそうしたいんですね、そんな風な流れを今年の活動でつくりだせたらとも思っているんですが」
「いいですね、ぜひ私の娘も参加させて下さい」
「できたらそんな活動を私たちもしてみたいわね」
「そう、そう、そういうことをしてみたいわね」
 これはいったいどういうことなのだろうか。長太が言いたいことのすべてをこの母親たちが言ってしまっている。しかしこれが本当に彼女たちの本音なのだろうか。こういう態度の裏側にはきっと別の顔があるにちがいない、この女性たちもまたひたすら点数への信仰をもった教育ママの姿を隠しているにちがいない、と長太はまた冷たく思うのだった。長太はもう言葉だけを信じることができない人間になっていた。彼女たちに対する深い警戒があるのだ。
 しかしまた長太はこうも思うのだった。いつもいつも裏切られてきた。しかしゼームス坂を去るその最後の年に、ひょっとするといままでの長太の苦闘をほめたたえるかのように、ゼームス坂は彼の活動を理解してくれる母親と子供たちをプレゼントしてくれたのかもしれないと。

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珈琲亭・白鯨(モビィディック) 2


 トウモロコシや馬鈴薯や大豆の畑がどこまでも連なっている。七十年前の光景が胸をしめつけるばかりに蘇ってきた。徴兵されて出征するその日の光景が。開拓村の人々が日の丸の小旗をちぎれるばかりに振っている。そのなかに赤ちゃんを背負った幸子と二歳の子供も立っていた。幸子と世帯を構え二人の子供が生まれ幸福な一家を築いていたのだ。その家庭が引き裂かれていく日だった。謙作を乗せたトラックはどんどんその村から遠ざかる。遠ざかる村を目に焼きつけながら何度もつぶやいたものだ。ここに戻って来る。大地を這ってでも戻ってくると。「満州をしのぶ会」の一行を乗せた小型バスはいまその村に向かっていた。
 その日まで二つの開拓村を訪ねていたが、七十年前の開拓村などもうきれいに消え去っていた。満州国開拓村などというものは、中国人にとって屈辱の歴史なのだ。そんな村があったことなど歴史から消してしまえということなのだろうか。正体を隠したいわば隠密のツアーを引率するガイドは申し訳なさそうに、このあたりにあったということですと釈明するばかりだった。
 はたして謙作が開拓し開墾した村も消えていた。冬は零下三十度にもなる酷寒の地だったが、春になれば生命が一斉に芽吹き、蒔いた種子はすくすく育ち、秋には黄金の実りをつけてくれた。村は年々豊かになり、精穀場、製粉工場、味噌醤油醸造場などがつくられ、神社を建立し、学校や公会堂まで建設した。それらの痕跡はどこにもなかった。
 一行を乗せたツアーバスが田畑の中に走行しているとき、謙作の目に二本のポプラの木が飛び込んできた。謙作は運転手に、止めてくれ、止めてくれと気が違ったように叫んだ。車を降りると広大な馬鈴薯畑の中を歩いていった。そこはかつて謙作が開墾した畑だった。畑のなかに立つポプラは七十年前の姿そのままだった。その木のもとにたどり着くと、肩にかけたリュックからチョコレートやビスケットや羊羹を取り出し、その木の前に供えた。そして崩れ落ちるように地にひれ伏し、日本に帰ってこなかった二人の子供に向かって、ごめんなごめんなと詫びながら号泣した。

 また木曜日がやってきた。老人はいつもの窓際のテーブルの椅子に座る。オーナーの孫娘がやってきて、またクジラ絵本クラブの人から頼まれましたと言って紙袋を老人に差し出した。

《謙作さん、「写ルンです」を二台用意しましたが、しかしまた一枚だけです。「写ルンです」は二十四枚撮れるんですよ。どうしてたった一枚なんですか。撮るところはたくさんあったでしょう。風景だとか建物とか。中国の大地は何十枚撮ってもとらえられないと思うのにたった一枚だなんて。クジラ絵本クラブとしては全く信じられないというか、怒り狂っちゃいそうというか。でも、終わったことはしかたありません。冷たいシャワーでも浴びてあきらめることにします。謙作さん、今度はニューギニアです。謙作さんには苦しい旅になると思います。しかし勇気をもって出かけて下さい。その旅への手配はしてあります。決められた時間に飛行機に乗ればいいのです。今度は《写ルンです》を三台用意します。七十四枚撮れます。ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱちと写真を撮ってきて下さいね。クジラ絵本クラブより》

 その旅はポートモレスビーから、ココダ、ブナ、ラエ、ラダン、ウエワク、アイタベをめぐる「長野ニューギニア戦友会」が組み立てた一週間のツアーだった。「満州をしのぶ会」の中国への隠密ツアーと違って、どの地にも慰霊碑が立っていた。日本政府が建設した堂々たるモニュメントから、さまざまな日本の団体が建立した慰霊塔や観音像や石仏などが各所に立っていて、その場に一行が立つたびにツァーに同行している袈裟姿の僧侶が供養の読経をあげた。
 ツアーの五日目だった。ラエからアイタベに向かう道中、一行を乗せたバスが山中で止まった。現地のドライバーが道端に立っている地蔵を見つけたのだ。地蔵の頭に、錆びつき破損したヘルメットがかぶされ、足元には朽ちて穴のあいた水筒が二つ添えられていた。いずれも日本兵のものだ。謙作はこの地蔵に心を打たれ、謙作は一人、その場に立ち尽くしていると、
「渡辺、渡辺、渡辺二等兵」
 という声がする。木立の奥から聞こえてくる。謙作は木立のなかに入っていった。それは幻聴だ、幻覚だと打ち消したが、彼を呼ぶ声はさらに明瞭に聞こえてくる。木立の奥は熱帯雨林のジャングルだった。謙作はどんどんその奥に引きずり込まれていく。
 謙作は満州国の開拓村の農民であった。しかし召集された謙作が投入されたのは、何千キロも離れた南半球のニューギニア戦線だった。彼の部隊の大半が餓死するという地獄の戦場だった。帰還した兵士はその地獄の体験を、貝の蓋となって閉じ込めておかねばならなかった。謙作は妻にもその話をしたことはなかった。
 しかしそれは自分を律することができる日中でのことだった。一日の労働で疲れ果てて眠りに落ちたとき、地獄の戦場が悪夢となって襲いかかってくるのだ。それはすさまじいばかりの襲撃だった。恐怖で全身が金縛り状態になり、必死に逃れようとするが声も出ない。その悪夢の襲撃はいくつかのパターンがあり、ジャングルの奥から飯田上等兵が謙作を呼び寄せるシーンもその一つだった。
「渡辺、こっちだ、渡辺、こっちだ」
 謙作はその声に誘われて、どんどん熱帯雨林のなかに引きずり込まれていく。そのあたりの景色は夢にみたシーンそっくりだった。そこに飯田上等兵がいた。あばら骨が浮き出て、腕や脚は枯枝のように痩せ細っている。眼孔はくぼみ、頬はこけ、すでにされこうべの様相だった。
「渡辺、おれの肉を食え、すぐ腐るからおれが息の根を止めたら引き裂いて食え、脳味噌はうまいらしいぞ、おれの脳味噌を食って、おれの尻の肉を食って、お前は峠をこえろ、このくそ峠をこえて、お前だけは日本に帰れ」
 ニューギニアの戦場から帰還した何十万の兵士たちは、その事実を貝となってそれぞれ深く閉じ込めていたが、一人また一人とその真実を記す人たちがあらわれた。ある兵士はこう告白した。「人肉を食べずにあの包囲戦を生き抜くものはいなかった。誰もそんなことはしたくなかった。しかし戦う兵士でいるために人肉を食わなければならなかった」。またある兵士はこう告白した。「大和肉の市場があちこちにできた。日本兵が日本兵を殺して食肉にする恐ろしい市場ができた。それがニューギニアの戦場だった」と。
 悪寒に襲われたように謙作はがたがたと震えていた。ぶるぶる震えながら《写ルンです》のファインダーをのぞき、飯田上等兵の姿ととらえると、シャッターを切った。それは謙作の内部に閉じ込めていた地獄を告白した一瞬だった。

《謙作さん。六十年前、南の海でどんなことが起こっていたのか、ニューギニアの熱帯雨林のなかで何十万人もの日本兵が命を失い、そのほとんどが餓死だったということも知りました。謙作さんにとってニューギニアの旅が、どんなに苦しく辛い旅だったということも謙作さんが撮ってきた写真でよくわかりました。謙作さんが撮ったあの錆びついたヘルメットは、謙作さんがくるのをずうっと待っていたのかもしれませんね。謙作さんがなぜいつもたった一枚の写真しか撮らないのか、その理由がだんだんわかってくるような気がします。次の旅は青森県の六ヶ所村への旅です。《写ルンです》と切符もまた紙袋のなかに入っています。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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世界一の翻訳の技

圧倒的な英語の襲撃を、翻訳者たちは烈しい気迫と情熱で立ち向かっていき、その英語をことごとく日本語のなかに取りこんでいった伝統は、今日でも脈々と引き継がれていて、外国語を翻訳する力、とりわけ英語を翻訳する力は群を抜いているのではないだろうか。アメリカやイギリスで出版された話題作やベストセラーは、ことごとく翻訳されて日本の読書社会に登場してくる。私たち日本人は世界のベストセラーが、瞬時に母国語で読める国に住んでいるのである。

翻訳者がその原文に取り組むとき、記述が論理的に展開されていく本──政治や経済や科学技術や学術関係の本の翻訳は比較的容易なはずである。水は酸素と水素で成り立っているという論理が展開されている本ならば、その文章を機械的に即物的に日本語に転換していけばいいのである。ところが磨きに磨いて書き上げられたエッセイや小説や詩などはそうはいかない。それらの本は数式的に即物的に訳することができない。

なぜならその文章には涙や怒りや祈りといった人間の感情のさざなみだけでなく、あたりの景観──光や影や風や空気や騒音や静寂が、さらにはその時代や歴史が縫い込められているからである。多様多彩な言葉の糸で織りこまれた布を、日本語の布に移し替えるのは容易ではないのだ。だからどんなに練達した翻訳者でも、その本のあとがきに「果たしてこの美しい原文が訳されたかどうか、はなはだこころもとない」と嘆くことになる。

しかし日本の翻訳者たちは、これらの本を鍛え上げた技を駆使して、その原文の行間に、あるいはたった一行の文章の奥にただよわせる光や風や匂いや音までを、繊細微妙に日本語に織り込んで読書社会に送り出してくれる。さらに幸運なことに、日本人の琴線に触れる名作が新しい翻訳者によって新生の生命を吹き込まれて、繰り返し何度でも読書社会に登場してくる。このような国もまた世界に例をみない。

原文と訳された日本語を交互に読むとき、読まなくともただ眺めているだけでも、ある不思議な現象がおきていくことに読者は気づかれたことがあるだろうか。そこに言葉の音楽が生まれるのだ。あるときはチェロソナタになり、あるときはバイオリンソナタになり、あるときはバイオリンとヴイオラの弦楽二重奏曲になって聞こえてくる。さらにその翻訳が三つ四つ五つとあると、そこで奏でられる言葉の音楽は、あるときはピアノ三重奏曲となり、あるときは弦楽四重奏曲となり、あるときはクラリネットが加わるクラリネット五重奏曲になって、私たちを豊穣な時間のなかに誘いこんでいく。

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制作のスケッチ

われらの科学者の物語

 原発が相次いで爆発して、福島県全域に濃厚な死の灰が降り注いだ。福島県が崩壊しかねない危機的状況に、県は被曝医療の世界的権威である長崎医科大学の高橋陽一教授を健康管理アドバイザーとして招聘した。この健康管理アドバイザーは坂北村にもやってきた。坂北村中学校の体育館は村民でぎっしりと埋め尽くされ、痛いばかりの視線がステージに立った高橋に注がれる。その視線は複雑だった。彼に救いを求めるような視線がある一方、電力会社から多額の金をもらっている御用学者だ、安全神話をふりまいて鎮静化させようとする政府と東電の手先だといった突き刺すような視線も向けられている。そんな険しい緊張したなかで高橋はこんなスピーチをした。
「‥‥これからフクシマという名前は世界中に知れ渡ります。フクシマ、フクシマ、フクシマ、なんでもフクシマ。これは凄いですよ。もう、ヒロシマ、ナガサキはもう負けた。フクシマの名前の方が世界に冠たる響きを持ちます。ピンチはチャンス、最大のチャンスです。何もしないのにフクシマは有名になっちゃったぞ。これを使わん手はない。何に使うか。復興です。いまの濃度であれば、放射能に汚染された水や食べものを一か月くらい食べたり、飲んだりしても健康には全く影響はありません。
 放射線の影響を受けにくい四十歳以上の人なら、酪農ならば酪農の作業を、田畑の作業ならば田畑の作業をいままで通りつづけて下さい。放射線の影響はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人にきます。これは明確な動物実験でわかっています。酒飲みの方が幸か不幸か、放射線の影響少ないんですね。決して飲めということではありませんよ。笑いがみなさんの放射線恐怖症を取り除きます。何十回となくチェルノブイリ原発事故の被災地に出向いて、現地の被曝医療をサポートしたり調査活動をしたりしてきた被曝医療の専門家としての私の結論です。
 チェルノブイリの原発事故の最大の被害は、放射能恐怖症が蔓延していったことなのです。何十万という人々が放射能恐怖症にとりつかれてしまった。つねに放射能の影におびえた生活をしている。希望を失い、無気力な生活になり、アルコールに溺れ、家庭が崩壊し、精神を荒廃させ、寿命をどんどん縮めていく。いま一部の学者たちが、あるいはこれらの学者に追従する知識人たちが、シートベルトという悪魔を跳梁させ、さかんに福島は危険だ、福島からすぐに逃げ出せと騒ぎ立てていますが、これほど無責任なことはありません。
 二百万もの福島県人はいったいどこに避難せよというのでしょうか。安全地帯に住んでいるこれらの学者や知識人たちは、よそ事のように危険だ危険だと騒ぎ立て、福島県を放射能恐怖症に陥れようとしている。何度も言いますが、100マイクロシーベルトを越さなければ、まったく健康に影響を及ぼしません。ですから5とか、10とか、20とかいうレベルで外に出ていいかどうかという問題は、もう明確に答えがでています。昨日もいわき市で、お母さんたちから子供は外で遊んでいいのですかと質問されました。私はどんどん遊んでいいとこたえました。
 坂北村でも同じです。心配することはありません。正確に現状をみつめましょう。坂北村は安全であり、いままで通りの生活を自信をもって歩いていきましょう。もしここでみなさんが放射能恐怖症にかかり、避難などしたら坂北村は崩壊していきます。みなさんが生れた村、みなさんが愛する日本一美しい村を崩壊させないために、シートベルトという悪魔の跳梁に惑わされることなく、これらと戦って坂北村を守って下さい」

 このスピーチが終ると、ぎっしりと会場をうめた村民からきびしい非難と抗議の声が飛んだ。「この村は安全だというが、あなたが家族を引き連れてこの村に住んで下さい」とか「あなたは東電から多額の資金を受けとった御用学者ではないのか」とか「あなたがいま試みているリスク・コミュニケーションは、かえって人々を混乱させるばかりではないか」とか。しかし教授はそんな厳しい非難の声にも、にこやかな笑みたたえて、坂北村は安全である、百ミリシートベルトをこえないかぎり人体に影響はない、これは科学的に証明されている厳然たる事実であると持論を繰り返した。
 その教授のスピーチが行われた二週間後、すなわち原発事故が発生して一か月後に、坂北村は人の住める環境ではないと全村民に避難命令が下った。坂北村は安全な村ではなかった、生命を脅かす危険地帯だったのである。いったいあの世界的権威の高橋教授のスピーチはなんだったのか。あの教授はペテン師同然の人物ではなかったのか。いやペテン師どころではない。アウシュビッツで人体実験をした医師ヨーゼフ・メンゲレの日本版だ。リスク・コミュニケーションという名のもとに住民を死の灰まみれにしていった、人の姿をした悪魔であるといった非難がのちのちまで飛び交うことになる。

 七年後のことだ。二十歳を迎えたばかりの女性がこの教授と対面する。彼女は尋ねたいことがあると手紙を二度ほど出すと、その教授から彼女のもとに葉書が送付されてきたのだ。指定された場所は築地のがんセンターだった。教授は個室のベッドに病臥していた。写真で見る面影はなく、頬がこけ病衣でつつまれた痩身は痛ましいばかりだった。死期がもうそこまで迫っていたのだ。そんな容態であったが、教授は半身をおこし笑顔をつくって、緊張して立っている彼女に椅子をすすめた。
「ずうっとあなたに会わねばならないと思っていたのです、それなのにお返事が遅れたのは、あなたに会うには元気にならねばならぬと思っていたからでした、しかしどうもこのままの体調で、やむなくこんなところにお呼びしてしまった」

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九十六歳の周藤さんと路上絵画展

 群馬県前橋市の諏訪町で魚屋を営んでいた家に誕生した周藤さんは、十二歳のとき奉公にだされる。向かった先は東京の新橋に立つ小さな徳久製作所という工場で、その製作所に実に八十歳まで工員として勤務していた。しかし周藤さんにはもう一つ画家という職歴をもっている。私が定義する画家とは、たとえ一枚の絵が売れなくとも、絵を描くことで人生をつらぬこうとした人をさすのだが、周藤さんがはじめて絵筆をとったのは六十五歳のときだった、そのときから今日までまぎれもなく画家として生きてきたのだ。したがって、周藤さんの職歴は、工員にして画家であった。
それは周藤さんが六十路に道に踏み込んだときのことだった。勤勉にして高度な技量をもつ周藤さんは、いつものようにスチールを旋盤で裁断していた、そのとき破断されたスチールの破片が周藤さんの右目に突き刺さるのだ。それは周藤さんの肉体と同時に精神に突き刺さった大事件だった。うろたえる周藤さんは、そのときはじめて絵筆を手にして、絵を描きはじめる。右目を失った。しかし左の目は健在だ。残された左の眼でしっかりと世界の存在を見るべきだ。カップを、スプーンを、グラスを、ワインのボトルを、玉葱を、人参を、キャベツを、ジャガイモを、リンゴを、葡萄を、人形を、男を、女を、裸の女性を、家屋を、公園を、田園を、山巓を、妻を、妻の笑顔を。そして残された目でとらえたこれらの像を紙の上に描き込んでいこうと。

くまの2

くまの1

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Sayuri kobayashiさんのプロフィールによると、埼玉県から島根県邑智郡の山奥に移住して工房をつくり、そこで「陶胎漆器・磁胎漆器という日本太古の縄文時代の衰退しつつある技術継承と伝承を目指した作品」を制作している。さらには陶胎漆器の伝承と若手作家のものづくり拠点づくりをめざしている方だ。最近、地元の広報誌に載せた文章がサイトに書き込まれている。その全文をわが森に植樹します。小林紗友里さん、ありがとう。大志あふれる若者よ、島根県邑智郡川本町をめざせ。

川本町は人口約3200人の小さな町で、面積の約81%が山林です。アクセスが不便で、2018年には電車も廃線になりました。東京から1番遠いところとして、地理の教科書に載っている江津市の隣町です。埼玉に帰るには朝の8時半に出発し、高速バス・飛行機・急行電車を何回か乗り継いで夜の11時過ぎに家に着きます。時間感覚的にはハワイに行くよりも遠い町、それが川本町です。

辛いとき、苦しいときにすぐ帰れてしまう距離は、甘えが出てしまいそうで、遠い場所を選びました。家族、友達、先生、先輩、後輩…今まで私の周りにいた人達はいい人ばかりで、大好きです。なので正直に言うと、すぐ会えない距離というのは非常に孤独であり、精神的に辛いです。

それとは反して、創作活動に必要なのは「孤独であること」であると思っています。
イタリアのルネサンス期(1452〜1519)を代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチはこう言っています。《画家は孤独でなければならない。なぜなら、一人なら完全に自分自身になることができるからだ。たった一人の道連れでもいれば、半分しか自分ではなくなる。》 これ、ものづくりをする人間としてすごく共感できます。

半分しか自分ではなくなると言う感覚、わかります。それは、日常生活では心地いいですが、1日のうち寝てる時間以外ずっとものづくりの事を考えられる孤独の時と、孤独ではない生活の時の、思考は…。私は不器用な性格なので、多分この方法が1番性に合っているのでしょう。器用に両立している方を少し羨ましくも感じます。時々立ち止まって、孤独を選んだ意味を噛み締めて、振り返って、またがむしゃらに頑張って…、そんな毎日を過ごしています。創作活動に没頭できるこの環境、ものづくりの人たちにうってつけです。

この記事を読んでいるあなたにも、ぜひ、移住してほしいです。

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