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小宮山量平さんに送った最初の手紙  創作児童文学の創造者

 あまりにも見事な文章なので、もう少しつまみぐいをして読者にもその香気というものを伝えたいのだが、小宮山さんは一橋を出て軍隊に入るがそのとき、

…… 眼の前一歩ほどの床に両掌の形が描かれている。それに合わせるように裸で手をついて四つん這いとなれば、腰高に肛門が開く。検査の医官はブタにスタンプでも押すように、「ヨシ!」と、尻をたたく。
 昭和十五年二月一日の入営のその日の、その場景を私は忘れることができないでいる。それは、人間が人間ならぬ何ものかにに転移する儀式めいており、今もありありと夢の中にまで甦るのだ……(四つん這い)

 あるいは広津和郎は松川事件の法廷記録をえんえんと十数年にわたって書き続けた作家でもあるが、その出会いのシーンを、

……そんなある日、神田神保町のとある中華料埋店で、私は広津さんを見かけた。作家は痛風の足に藁草履をヒモでゆわえつけ、一人の編集者とおぼしき若者に支えられて、覚束(おぼつか)なく奥から出て来た。思わず私は立ち上がった。とたんに涙が出て、止まらなかった。そして頭が下がった。
 広津さんはびっくりした面持ちで一瞬立ち止まり、やがてよちよち歩いて去った。そのとき私の胸に浮かんだのは、日本の知的誠実というもののきびしい姿であった。私は、この作家が体現している誠実の道を辿りぬかねばと密かに決心した。(日本の夜と霧の頃)
 
 あるいはまた、まんまんとした理想の旗をかかげて理論社をかまえたのが、なんと丸の内に立つビルの廊下であった。ホームレスさながらに事務所を転々としていく青春無頼の日々を、

 ……そんな貧しげな活気こそが芳潤な香りであったのだろうか。いつしかこの平土間の出版社には、敏感な密蜂たちが引きも切らず飛来するようになった。殆ど仕事に手もつけられないほどの賑わいなのだ。ある日その活気の中ヘ、頼りなげな白髪の老人が現れ、小半日は若者たちの侃侃諤諤(かんかんがくがく)に眼を細めていたが、去りがてにふと、私の耳にささやいた。「良かったら、俺んとこの二階へ移っておいでよ」と。
 福音とは、あんなふうにして訪れるものだろうか。あたかも新劇の名優・滝沢修さん演ずるところの『どん底』のルカ老人に似たその囁きに導かれるように、私たちは三日の後には、九段通りに四間間口の老舖(しにせ)として名だたる「長門屋書房」の二階に堂々と屯(たむろ)していた!……(青春無頼の溜まり場)
  
 私は次のような文に出会ってただ恥じ入るばかりだった。私に扇動されるまでもなく、小宮山さんのなかで「安曇野」は深く懐胎されていたのだ。

‥‥‥編集者として何かにつけて仰いで来た同郷の先輩に臼井吉見さんがいる。彼は晩年に社業から解放されるや「安曇野」という大河のような作品を書いた。私も昨年未には社業からフリーとなった。少し遅すぎたのだけれど、「千曲川」という作品を遺そうと思いつづけて来た。
 かえりみれば臼井さんの作品は、日本の近代思想を切りひらいた前衛たちの群像に照明をあてることによって、信州人の秀れた先駆性をたたえることとなった。けれども私は、この上小盆地という日本のヘソのような中心の地に、平凡な「平均的家族」として激動の時代を生きぬいたふるさとと人の温もりを探ってみたい。今こそ「失われてはならないたからもの」を書き留めて置きたい!(故山にかえる)

 その大河物語「千曲川」は児童文学というスタイルをとるはずだ。それこそ小宮山さんが出版人として生涯追及してきた課題だった。小宮山さんは創作児童文学というジャンルの創造者でもあった。数々の児童文学を送りだしてきたが、その代表的な作品として、よく灰谷さんの「兎の目」や「太陽の子」があげられる。しかし私はもっとも小宮山さんの思い描く創作児童文学が、理想的なかたちで結実していったのは、倉本聴さんの「北の国から」だと思う(あの作品を生み出すことを仕掛けたのは小宮山さんだった)。「北の国から」は、もちろんその映像が素晴らしかったこともある。しかし理論社版で、繰り返し体裁をかえて発行されている本を読むとき、それはシナリオというスタイルをとっているが、なにやら現代の神話の誕生という趣さえある見事な作品であった。








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