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出版革命を生起させ、大きな文芸運動を起こそう

《佐藤勇気 チカオ(30代医学生) まさとし(起業準備中) 兼藤伊太郎 彩音幸子 hinakose 救護施設のペーペー ギヨメムラ artoday-chiaki  田村塾長の「俺が教える!」 緒真坂itoguchi masako sayuri kobayashi 小野信也 美食家K タロー Kana Yamaguchi サファー tetsu映像作家 さぶろぐ ぐるう リイド setonotoi 異郷からきた女史 東京ノリ 秋(空ら)時間 例のセロリアン貧乏一族から億万長者へ こーちゃん@こどもコーチ 加藤利光》

コメント欄に「あなたのコラムを愛読しています。一冊の本にするという射程をもって書き続けて下さい」と書き込んだサイトのコードネームである。最近は書き込む言葉は「あなたの労作を本にして世に投じて下さい。新しい文芸運動を起こしましょう」と進化している。この大陸に上陸して、何度もその方から《スキ》が投じられ、ぼくもその方のサイトを何度も訪れて、確信したのだ。この人たちは本にしたいという強い意志をもっている。この人たちは確実にぼくの投じる挑戦をうけて立ってくれると。

出版革命を始動すると立ち上がったぼくのサイトに、コードネームを書かれるのは迷惑だという方もいるかもしれない。そのときはその方にこう説得する。あなたはついに本を書き上げた、そしてその本を読書社会に投じたとする、いったいどれほど売れるのだろうか、多分その本はあなたの周囲の人にしか売れないだろう、と。そうではなく、もしあなたの本をサポートする百人の仲間がいたら、あなたの本は確実に百冊売れるのだ、そこからその本は読書社会に大きく広がっていくはずだ、と。ばらばらに生きるのはもうやめよう。孤独の言葉を「note」にいくら書き込んでも地平は切り拓かれない。地平を切り拓くには仲間が必要なのだ。

「だれにでも本が作れる、だれにでも本が発行できる、だれにでも出版社がつくれる」。しかしこの革命を起こすには仲間がいる。少なくとも百人の仲間が必要だ。「note」には何十万人という書き手がいる。本にしたい、本にして読書社会に投じたい願望する人は何万人といる。百人の仲間をつくることは絵空事ではない。もうそこまできている。もしこのコラムを読んで、この運動、この革命に参戦したいと心が動いた方は、《スキ》を投じると同時に参戦する旨を書き込んでください。あるいは何度もこのサイトを訪れて《スキ》を投じる方は、ぼくからその方のサイトに書き込む。「あなたの労作を本にして世に投じて下さい。新しい文芸運動を起こしましょう」と。

この運動に参戦した方は、一年以内に自分の本を出版すると決断するだろう。小説やエッセイ集ならば四百字詰めの原稿用紙で四百枚、その分量の文章を書きあげる。写真とエッセイで組み立てるフォート・エッセイ集ならば、百枚の原稿、そして何千枚と撮られた写真のなかからセレクトされた数十点の写真。写真集や画集ならば一週間で完成する。しかし問題はその内実である。その本が読者の心に響き、読者の魂までに届いていくには火の格闘が必要である。創造は火の格闘から生まれていくのだ。

こうして一年以内にこの運動に参戦した百人が、どっと一斉に本を刊行する。大きな文芸運藤が生起する。ここに令和の時代にルネサンスが起る。ぼくたちは革命家としてこの地上に立ったことになる。革命家は革命家と出会い、さらなる革命を起こしていく。ぼくたちが書き上げた本は、この革命家に手渡される。その人物を知ってください。

このコラムと同時に高尾五郎さんの「目を覚ませと呼ぶ声がする」の序文を連載で植え込んでいくが、高尾さんは安曇野の池桜という森に棲息している世に現れない作家だが、日本の最大作家の一人だ。五百六十ページにも及ぶ長編小説「目を覚ませと呼ぶ声がする」には、これまた二十ページにも及ぶ長大な序文がついている。この名作を世に出すための戦いが書かれている。無名の作家たちを限りなく励ますだろう。

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私は未来を創る人になりたい  米良はるか

伝統ある夏祭りを続けたい。地元産のブドウでワインを造りたいといった思いはあっても先立つものがない。そんな個人がネットでお金を募る。日本で初めて「クラウドファンディング」を名乗って2011年に起業した。東日本大震災が起きた年。日本で「寄付」への関心が高まっていたこともあって急成長し、16年までに集めた資金は30億円以上。成長はさらに加速がかかり、現在は105億円に達する。
「今までは目に見える物を担保にお金を借りていたけれど、ここではネットで自分の生き方ややりたいことを可視化、担保にしてお金を集めます」。
昨年は増資し、ロゴを変更して皇居に近い一等地にオフィスを移した。

その勢いを大企業も無視できない。昨年から、企業が掲げるテーマに沿ったプロジェクトを募集。採用されると集まった資金と原則同額を企業も出す事業を始めた。5社が参加。たとえば中部電力は「ひとりひとりが安心して、イキイキと住み続けられるまちづくり」を掲げ、国産の榊づくりをめざす村おこしや空き家再生に取り組む事業などを支援する。同社の副社長は「地域を支援したくても、我々に直接支援されることに二の足を踏む人たちもいる。READYFORや起業家が間にいれば我々も支援しやすい」。企業は地域に信用を得、そこに生きる人々は活動資金を得る、その媒介者となっている。

「企業も単にお金もうけでなく、社会的なものに向き合うことが課題になっている時代。寄付でも投資でもない新たなお金の流れをつくりたい」と彼女は言う。昨年、長期事業計画を練り直した時に、数年以内に年間でどのくらいの資金を扱いたいか話し合った。「1兆円」と明言して周囲を驚かせた。「社会を変えるには少なくとも1兆流さないと」

「公的なことをしている自負があります。社会の仕組みを作りたい。革命の時代だったら革命家になっていたかもしれない」。華やかな笑顔に小学校から成城学園という恵まれた経歴だが、彼女を学生時代から知る日本のAI(人工知能)研究の第一人者、松尾豊東大教授は「頭が良くて器用でプレゼン上手で……というタイプはたくさんいるが、彼女はむしろ不器用で真骨頂は泥臭い根性とガッツ。やるといって本当にやるのは100人に1人もいないが、彼女は必ずやりぬく」。
 IT時代の革命家が、「社会」を強く考えるようになったのは、自らの死を意識したのがきっかけだ。17年、疾走していた真っ最中に突然がんを宜告された。29歳だった。を得、そこに生きる人々は活動資金を得る、その媒介者となっている。
 
──会社が快遺撃を続けていたさなかの2017年にがんと診断されました。
 当時、経営もうまくいっていませんでした。会社は成長していたけど人がどんどんやめて、私も社員に信頼されていないのではと不安で。「もっと社長らしくしてください」つて言われて、ものすごくショックを受けたこともありました。
リーダーつてどんな人なんだろう。リーダーとして自分はやっていけるんだろうか? その頃29歳で、20代はこれをやりたいと思ってひたすら走ってきたけれど、掲げた目標は20代では達成できそうもない。30代になってもこのペースで走り続けるのか、焦りや迷いがありました。

──会社を社員にまかせて休養しました。
 幸いがんはごく初期のステージ1でした。私がいなくなったら会社がつぶれるかもと思ったけれど、社員が「いや、まかせてください」と言ってくれて。結果的にそれがよかった。休養中、リーダーのあり方が知りたくて、麼史書や経済書など100冊を乱読しました。孟子、ソクラテスから勝海舟、司馬遼太郎、半藤一利さんまで。リーダーシップは多様であっていいと思ったし、リーダーでいられる時間もそう長くないとわかった。一回しかない人生を自分が望む通りにやるしかない、と思えました。吹っ切れたというか。病気の前後ですごく変わったと言われます。

 ──復帰後、リーダーシップはどう変わった?
 社員同士の信頼関係が大事だと思って、「無駄話」を勧めています。悲しい時には一緒に泣くとか、日常のさまざまな出来事を共有できる仲間だからこそ、毎日の仕事を心地よく、協力し合ってできると思っています。運動会も始めました。めちゃくちゃ盛り上がります。前だったら会社の運動会とかまじ許せないっていうか、考えられなかったですけど(笑)。

 ──政府の「人生100年時代構想会議」の有識者議員にも選ばれました。
 休んでいた間に唯一関わっていた仕事です。人生の時間軸が変わったし、日本や社会のこれからについて考えるのはとても楽しかった。私はがんといっても初期で、本当に幸運だった。これからの人生、会社をどんどん大きくするというよりも、未来に価値を残す仕組みを作りたいと明確に意識するようになりました。

 ──話が成城学園の頃に戻ります。中学校の時の作文が「在日について考える」。「個人を基点として」「私たちは自分の行動原理を持つべきです」。誰もがやりたいことを実現できる世の中をつくる、という「READYFOR」のビジョンと通じるのでは。
 課題で書いたものであまりよく覚えていないんですが。言われてみるとそうですね。

──大学時代にAI研究の松尾豊氏と出会います。
松尾先生は、AIを開発というよりもAIで社会システムがどう変わるかを研究していた。世の中がこうなる、と聞くのがとても面白かった。こういう世界になったらいいと自分でも考えるようになって、ああ、私未来を創る人になりたいんだとわかったんです。

──就活はぴんとこなかった。
だって今世の中にある仕事や会社は、未来にはないかもしれませんよね。迷っている時に英国に留学したら、海外の子たちは自分のなりたいものがあって、そのために自分が何をすべきか考えて努力していた。どこの会社に就職したい、ではなかった。

──大学院に進み、5月にシリコンバレーに旅行したのが転機に。
たくさんの起業家たちが活動していて、未来を創る人たちがここにいた! と。いったん帰国して即、スタンフォード大への留学を決めました。そこでクラウドファンディングを知り、これを日本でやりたいと思ってわーっと調べ尽くしました。

──そして翌年に「READYFOR?」(当時)の事業を開始。従来の寄付サイトとの違いは?
お金を出す行為と使われる行為がつながっていないと思いました。自分が出すことによって何がどう変わるのか体験できない。参加感と、資金がどう使われるかの透明性を作ることが鍵だと思いました。

──日本ではよく「寄付文化がない」と言われます。
それは思い込み。やり方がよくなかっただけです。期限を区切って資金目標を明示する。お金が集まったら何が実現するのかきちんと説明し、目標額を達成したら「お礼」もする。READYFORでは「キュレーター」と呼ぶスタッフが伴走し、達成率は75%という業界有数の高さです。この仕組みで社会起業家が持続的に活動できるようにして、貧困をなくしたり、地方の問題を解決したり、未来の社会を変える成果を出していきたい。
(朝日新聞日曜版より転載)

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