小宮山量平さんに送った最初の手紙 高き峠についに立った
小宮山量平さんに送った最初の手紙──高き峠に、遂に立ったこのところ「草の葉」は、言葉の果実の贈呈をしばしば受ける。そんななか小宮山量平さんの『昭和時代落穂拾い』(週刊上田新聞社発行)が送られてきた。まさに黄金の果実である。「回帰の時代によせて」という副題がついている。長野県上田市で発行されている「週刊上田」に連載していたコラムを一冊に編集して上梓したのだが、上田は小宮山さんの郷里であった。ここで太郎山塾という、いわば人生の学びの塾を主宰してもいる小宮山さんの輪郭を「草の葉」で特集することにするが、しかしここで待ちきれずこの本にふれたいのだ。
小宮山さんの主要な著書である出版三部作とでもいうべき「子供の本を作る」「出版の正像を求めて」「編集者とは何か」(いずれも日本エディタースクール出版部刊)を読んだとき、私は即座に気づいたことがあってこう提案したことがあった。「こういう小さな短文雑文ではなく、もっと言葉の大木を打ち立てるべきです」と。それもまたずいぶん無礼千万な言い種だったが、さらにあつかましい私は、筑摩書房をおこし晩年に『安曇野』という全五巻の大作を残した臼井吉見さんを引きあいに出し「ああいう大地にしっかりと根をおろした生命の樹を打ち立てるべきです」と言ったものだ。
それは小宮山さんの文章の底に流れているものは、それまで書かれていた種類の文体によってではないと思ったのだ。対象に突き立てるその角度の深さ、言葉が響きあうその波紋の広がり、なによりも小宮山さんのなかに溢れる烈々朗々たるロマンの輝き。言わば小宮山さんの声と歌を刻みこむのは、もっとちがった文体が必要なのだと。
この新著を手にしたとき、思わず私はつぶやいたものだった。ああ、とうとう小宮山さんは文体を確立したのだ! と。この文体に到達するために七十有余年の歳月が必要だったのだ! と。長き道程であった文章道の高き峠に、遂に小宮山さんは立ったのだ。例えば次の一文を見よ。
つがる海峡冬景色
敗戦。それはただならぬ音響として甦る。「混迷」という主題を奏でれば、あんな騒音となるものか。ぐわーん、ぐわーんと、耳もとで鳴らされる銅鑼のひびきだ。秩序が崩れ去るときには、耳の内外には、あんな音が夜となく昼となくつづくものなのか。
炭鉱での強制労働から解放された朝鮮人たちが、全身に活力をみなぎらせて歩き、日本人は肩をすくめて側道(わきみち)を歩く。背負い切れない程の荷を負って急ぐのは、復員してきた兵隊たちか。その後方にとぼとぼと従うのは、今日の糧を仕入れてきた女たちだ。
函館駅には、次々と列車毎にそんな人びとが吐き出されては、構内の騒音を更にさらに高める。焼きイカの煙が立ちこめ、売り手の叫び声が高まる。誰が指揮するのでもなく、誰もが何かを待っている。ほんの少し動いた群衆が、ハイそこまで! と区切られる。一夜が明け、その日の夕暮れになってようやく最前列となり得たかと思うと、押され押されてようやく船上の人となった。
烈風吹く甲板からは、もう漁火(いさりび)の列が見えた。港外のその舟の列を割るようにすべり出た連絡船の船橋で、私は連れの老紳士を将校マントに包みこんでいた。小樽の財閥の頭領で貴族院議員なのだが、今やそんな身分や肩書の特権を行使する余地などは全くない。縁あって郷里柏崎までの同行を依頼されてはみたものの、ひたすら体温を伝えてやれるのみだ。
「すまないネ」と私に凭(もた)れかかる相手を、「さあ、私に寄りかかって」と労った拍子に、胸の内ポケットの拳銃が凸起した。私はそれを取り出すと、そっと空の明りで確かめ、ひょい! と波の闇に投げ捨てた。つづいて方五センチほどの弾丸包みをも放った。それが軍隊と私との決別のしるしであり、いのちの甦りであった。──そんな気配を察してか、老人は頼りなげにひしひしと身をよせてきた。
新聞連載の六百五十字という制約のなかに刻みこまれた、これはまあなんという見事な世界だろう。わずか六百五十字ながら短編小説を読むような深い響きがある。あるいは小宮山さんがこよなく愛する、黒沢明の名画の一シーンそのもの。たった二、三行で出会った人物を描写していくそのスケッチの確かさ。人生の断面にすぱっと切り込む言葉の冴え。深い悲劇を宿した名画のように仕立てあげた造型力。波の音。漂う深い霧。その潮の匂い。見事な文章だ。
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