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運命の女神 (10)


   十四、




 鈴木優は総合病院の産婦人科で自分の順番を待っていた。ずっと来ることを躊躇っていたが来てみればそこは何一つ恐ろしい場所ではない。意にそぐわない一晩からもうひと月半が経過していた。「佐々木さん」とは連絡が取れなくなっていた。次の日に緊急避妊薬を処方してもらうべきだったが、誰にも「佐々木さん」との関係を説明することができず、産婦人科に来ることがひどく恐ろしく感じて、こうして生理がこなくなるまで来ることができなかった。たった一晩の行為で本当に妊娠するわけがないと思い込もうとしていたが、結果は思い込み通りに行くことはなかった。
 一人でどうしようもない不安を抱え、それを一人で抑え込むことに優は疲弊して、待合室のソファーでカバンを抱え込みどうしてもっと早く来れなかったのだろうと後悔していた。
 診察を待つ廊下に、不意に突然泣き声が響いた。
 「ああああーーー嫌だよぉーーー!お母さんになりたくないよぉーーーーあたしまだ誰にも愛されてない。誰かを愛するなんて無理だよおー
 私が誰にも守られてないのに、誰かを守るなんて無理だよー
 辛い時に笑ったりできないよぉー
 男なんて結局セックスがしたいだけじゃん
 結局自分が気持ちよければそれでいいんでしょ
 どうして私だけなの?やりたいように勝手にしたのはあっちじゃん!なんであたしに全部押しつけられてるのー?
 あいつのこどもなのにー
 逃げるなら死ねよーーー」
 泣き声を宥めるような穏やかな声がする。診察室の扉が厚く、何を言っているかは聞き取れない。
 そのやりとりを聞いているうちに、いつの間にか自分も泣いていた。私にはこれが足りなかったなと優は思った。
 (もし大声で泣いていたら、誰かが聞いてるかもしれない。目の前の人じゃなくても、今の私みたいに)
 それに、私はもうずっと泣きたかったのだ、と優は思った。
 優は産むのも殺すのも怖かったが、きっと探せばまだ打つ手がある、そんな気がしてきた。





   *




 総治は月に一度、診察のため聡子を病院に連れ出さなければならない。しかし、それは「家」から出ることが難しい聡子にとっても随行する総治にとっても負担が大きいものだった。
 聡子のその日の体調と周囲の状況によって、聡子の調子は変動し、例の如く叫び出すこともあった。
 その日は診察を待つ頃に聡子の調子がかなり悪いところまで行ってしまいそうだった。一度科の受付に事情を話して外へ出ようとした時、ちょうど通りがかった女性が「まだ開けていないから」とペットボトルに入った飲料を渡してくれた。そして総治に飴を二つほどくれた。女性は「ありがとう」と総治が言い終わる前にその場を立ち去っていった。





   *





 アイドルグループの心はハバジャガ好きらしい。ラジオで紹介されてから、ハバジャガの売り上げが前より伸びているそうだ。
 ファンが買っているのだろうか。数の力は強い。
 経理の総治にはなんだか関係のない話のようで、盛り上がる社内の空気を総治も感じた。





   *




 通報した時、明幸は情けないくらいしどろもどろして、自分が何語を話しているか不安になるほどだった。電話を切った後、なぜか申し訳ない気持ちばかりが湧いてきてスマートフォンを握り締めながらその場にかがみ込んだ。
 その後、美杏の父親である拓也と遭遇したのは偶然と言えるのか、それとも気になって毎日覗き込んでいれば当然と言えるのか、どちらにしろ、明幸は彼に何かを言わなければいけない気がして出し慣れない声を絞り出した。
 「美杏ちゃんのお父さん!」
 ちょうど明幸の脇を通り過ぎて行った拓也に至近距離から睨みつけられ、明幸は声を出したことを後悔したが、いつもはなんの言葉も通さない口から言葉が溢れていった。
 「あ、あ、あ、あの…自分は、何も…何もできないって、思っちゃうんです。子供の頃。本当は自分がなんとかしたいと思って、家の中の悲しいことを。何もかも解決できるスーパーマンになれたらって。大切な人だから。こどもだから。きっと一番目の前にあるから。でもそれがきっと一番難しいことで。スーパーマンにも。本当は。だから自分には何もできないんだってすりこまれちゃうんです。でもきっと回り道して、できることを探したら、きっとあるって。思い込んじゃった大人もこどもも。すぐにはできなくても。スーパーマンになれなくても。僕は…」
 拓也は何も言い返さずその場を離れていき、偉そうなことを言ってしまったとやはり申し訳ない気持ちになってまた明幸はその場にかがみ込んだ。
 それにしても、明幸はその後自分の客にも同じことを口走ってしまったのは何故なのか、よく分からなかった。
 その後も口は滑り続けて、弟にまで被害は及んだ。
 「だったら料理ができるようになってくれ。うまかったらちゃんとそう言うから」と出来合いばかり食べたがる弟が言った。





   *




 こんなこと、バレたら絶対にまずい、と思いながら、貴幸はにんじんを一つだけハートに刻んだ。そしてすでにカットされた大量のにんじんに紛れ込ませると、ああこれはバレないな、と思った。
 あんなに料理を作れるようになりたくなかったのに、貴幸はなぜかスーパーの惣菜調理のバイトしていた。調理と料理は違う、少なくともスーパーの惣菜調理と料理は違う、と言い訳をしながら、接客の必要がない今のバイトを気に入っていた。
 いつもと同じ作業をこなすだけで良かったのに、今日に限ってなぜ妙なことをしているのか、それは多分、兄が脈絡もなく言ってきた言葉に理由がある。
 いつの間にか兄は違う場所へ行くことができたのだ、と貴幸は思った。そう思うと、自分にも何かできそうなそんな気がした。





   *




 パックに詰められていた時にはよく見えなかったハートのにんじんに総治が気づいたのは、ポテトサラダを皿に移し替える時だった。これは偶然できたものだろうか、とはしでつまんでじっくり見てみたが、それはもはやどちらでもよく、この形のまま崩れなかったことが、そして、突然自分の食卓に現れたことが相当な低い確率である気がして気付かず笑みが溢れた。盛りつけたポテトサラダのてっぺんに崩れないようにそのハートのにんじんをそっと置いた。そしてスマートフォンで撮影した。





   *




 「スーパーで買ったポテトサラダにハート形のにんじんが入っていたんですよ」
 巧は総治からそんな報告を受けたことを意外に感じた。
 相変わらず総治は会社に来ている。
 スーパーでポテトサラダを買うようになったことも、ささいなことを自分に報告してきたことも巧には意外だった。
 総治は会社にいながらどこにも交わっていなかった。それが、一度昼食を共にしたとはいえ、巧とささいな話題を共有しているとは。ポテトサラダなんて、スーパーの定番サラダであるのに、俺が教えたからかな?などと少しだけ誇らしく思い、巧は総治に興味だけではないものを感じそうになった。いくら生活していくために一緒にいるだけとはいえ、一日の大半をともに過ごすとはこういうことなのかもしれない。無関係というわけにはいかない。思いもがけない方向から思いもがけない弾を食らう。
 相手がいるとかいないとかそういうことは、実は結局差異なんてなく、毎日の食事や仕事に終始振り回される連続だ、ということを、巧はそれとなく伝えたいと思った。ポテトサラダの作り方の代わりに、あの二人にも。





   *




 あのなかのくの投稿を当の本人はどこまで気にしているのか。知らないが。
 「そういうのよくないと思いますよ」と裕史は言いたかったのだと思った。それでいて、他人がやっている悪いことの恩恵を安全な場所で受けたいと思ってしまうのだ。そして気を散らされてしまう。結局自分が見ているのが一番悪い。それが一番助長している。そのことに自戒を込めて。
 「そういうのよくないと思いますよ」
 と裕史は送った。




   *




 交子から別れを告げられた後、なんで動画配信?などと言われないぐらい遅れて参入して、祐基はカメラを持って色々な人間に会いにいく動画を配信することにした。それは全て口実で、単純に野球少年に会いに行ってみようと思ったのだった。と言っても最初の動画にするにはあまりにも視聴者を納得させる理由がなかったので、いくつか作ってみてから、前嶋夫妻に許可を取って本人に会いにいった。
 「夢破れた時どんな気持ちだった?」
 流石に下世話だろうかと思いつつ、直感で聴いてみたいと思ったことを投げかけると、意外にも秀明は笑って、
 「うわー、それ、あの頃聴いてほしいって、誰かに話したいって思ってたなぁ」
 と答えた。
 その後ももちろん話は続いていったが、秀明のその笑顔に祐基は身震いするような、何かが報われるような感覚を得て、秀明と会話を続けながら、自分が切り出すものについて思いを馳せた。





   *




 思いついた時に「前島 夫婦」などと検索し、検索候補に「前島 夫婦 離婚」が出たりしてビクビクしている自分をやめたいと尋人は思っていたが、その動画を見つけた時、この行為がこういう結果をもたらすこともあるのだと意外に思った。それはまさしく尋人が出会いたいと思っていた動画だった。
 彼は教える側に回って野球を続けていたし、ちゃっかり彼女もいて(いや、いるタイプだと思ったが)、自分とは違った。
 良かった。
 例え他人のものでも誰かの幸せな選択に出会いたかった尋人はホッとしてその動画の彼に見入った。





   *




 総治は久しぶりに電話で尋人と話した。ポテチサラダの話、動画の話。特に何か特別なことを話したわけではなかったが、楽しかった。難しい話はできなくても、それは確かに本心からの話で、ただそんなどこまでも取り留めのない話が、したかった。





   *




 聡子の滅亡の話は相変わらず真実味を持って続いている。聡子との毎日は、何かを乞われて応じる日々だ。
 夢の話を聡子がする時、やっぱりそれは言葉にならなかったが、総治は質問を投げかけるようにすることにした。「どんなものが出てきた?」「聡子は何をしていた?」というように。それらが聡子のいう美しい夢の大半を霧散させてしまうことを知っていたし、それすら分からない時もあったが、分からないまま焦がれていることよりも、聡子と対話できることの方が総治にとって幸せだった。
 なぜそう思うようになったかを言い表すことはできない。
 ただ昔、死を選んで生き返るような、その強烈さを選ぶことでしか自分を幸福にできないような気がして、そしてそれを選べずにいた。あの頃思っていた強烈さではない場所にいることを間違いだと思わなくなった。もしかしたら、それこそが死だったのかもしれない。それはささやかな訪れだった。



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