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運命の女神 (4)


   七、




 今日は、ようやく野菜炒め以外のものを作ることができた。帰りにスーパーに寄って安くなっていた食材を買い、夕飯の支度をした。総治はどこかほっとした気持ちで食卓に料理を並べた。
 「ポテトサラダにハンバーグ」
 「なんかお子様ランチみたいなメニューになっちゃったな」
 「ううん、どっちもおいしい」
 ぱくぱくと料理を口にする聡子の姿を見ていると、不思議と総治の心は癒された。
 買ってきた惣菜では、与えている感覚が小さくなるからなんとか作ろうとしているのかもしれない。これはこれで与えられており、そのために無理をしている。
 相変わらず聡子は世界の滅亡の話をしている。その懸命さは、そこから何かを掴もうとしているように、総治には見えた。
 「夢を見たの」
 夢の話も聡子がよく話す話題だった。
 「どんな?」
 総治はいつも、聡子の言葉にこう返す。しかし聡子が言葉を返すことはない。聡子は口を開けたまま、黙り込んでしまう。それは、消極的な沈黙というより、何か言葉を紡ごうとしているのだが、聡子の話そうとしているものと言葉がかみ合わず、そのため何も発することができない、というような沈黙だった。聡子は時々何かを話し始めようとするかのような声を発した。聡子の中には一体何が秘められているのだろう?聡子の中を膨大な情報が駆け巡っているのか、それともひどく感覚的な何かなのか、あるいはその両方なのか、総治には想像もつかないが、同じものを分かち合えたらいいのに、と総治は思う。そして余計に総治は、聡子の言語である、世界の滅亡の話を聞き入ってしまうのだった。聡子が話そうとしていることはなんなのだろう?美しいというその夢はどんなものなのだろう。
 以前聡子は、何を話していただろうか。どんな表情を見せていたのだろうか。何をして、何を好み、何を聞き、何を考えていただろう。「ふつう」はどんな風だったろう。なぜそれはおぼろげになってしまったのだろう。聡子の笑顔が好きだったような気がするが、その顔すら、あまりよく思い出せなかった。聡子本人を目の前にしても。
 それでも、総治は聡子から離れがたい。それはなぜなのか。
 何も、分からなかった。ただ、何も分かっていないことだけが分かった。
 なぜ今日、自分の意識は復活したのだろう?
 ―『そっか。大変だよね、病気の人間を支えるのはさ』
 あの時総治は兵頭の言葉に驚き、すぐに言葉を発することができなかった。
 これまで総治は聡子との間にある悪いことは全て自分が悪いと、自分のせいだと思っていた。全ては自分が選びやってきたことの結果であると。それを労われるということ、辛いと他者に認められることがあるとはその時の総治は思ってもいなかった。そして、それは大きく自分の中の憂鬱を消してくれるものなのだと、総治はこれまで知らなかった。





   *




 何も分からない。
 ということはとても恐ろしいことだ。
 分からないということは、分からないということすら分かっていない。
 その致命的な事実に気づくことができない。
 自分が今、何も分からなくなっていることが分かるということはなかなか難しいことだ。例えいつか無力な自分に打ちのめされながら分からないということが分かったとて、その後の理解の第一歩目をどう踏み出せばいいのか分からない。それは当然のことかもしれなかった。気づかないことについては考えておくことすらできないからだ。そして、なぜそんな状態が自分に訪れているのか、ということをも分かる契機を逃している。無知に気づかないまま滅んだ世界を闊歩している。
 (俺は、何も分かっていない。何も分かっていなかった)
 総治はそう思った。
 通り過ぎて、そうと分かることは多い。ようやく、分からなかったこと、から離れ、客観的な視点を持つことで考えることができる。だからこそ人は後悔に苛まれる。通り過ぎてきた時間について。
 一体いつから、分からなくなっていたのだろう?誰かのせいにできれば、楽になれるだろうか?いや、失われたものは、失われたのだ。もう返らない。
 嘆きの中に多くのことが想起され、また新たな何かを手放してしまいそうになる。
 大切なことは何なのか。
 総治は考える。しかし、その思考は日常の様々なことで分断され、散り散りになっていく。
 それでも何かを変えなければいけなかった。また同じところへ返らないように。
 それにしても、分かるとは何を一体分かろうというのだろう。総治にはそれすら分からなかった。そもそも考えて、ただ考えるだけで答えが出てくるものだろうか。
 変わらなければならないこと、分からなければならないこととは、一体何なのだろう。考えなければならないこととは。
 食器をスポンジでこすりながら、総治は考える。しかし食器を洗いながらだからだろうか?考えはそこから前には進まなかった。
 洗剤を水で流していると、聡子が近づいてきて、そっと総治のパジャマの腰のあたりをつかんだ。
 「聡子」
 総治は濡れた手を拭いて聡子の髪に触れてみた。そのまま恐る恐る聡子の頭を撫でてみる。聡子は総治に何も言わなかった。何も言わずに総治のするままに任せている。
 総治の脳裏にふとよぎる。
 (一体いつまでこんな生活が続くのだろう?何も分からないまま)
 会社にもいつまでも今のように甘えているわけにはいかない。
 しかし5年後どころか、1か月後の生活も想像できなかった。今日、そして今の自分自身すら分かっていないことが分かったばかりの人間にそんなことが分かるはずもなかった。不安定な聡子の状況によって変わるようなこの生活とどう向き合っていけばいいのか。
 考えながら総治は床に就き、ただただ早く寝ることを考えた。明日も仕事だ。
 総治は電気を消して目を閉じ、隣で眠る聡子の寝息を聞いた。





   *




 生活と向き合うと言っても、総治にとって思いつくことと言ったら、会社で必死に机にかじりつき、帰りにスーパーで食材を買って、なるべく料理らしい料理を出し、少しでも部屋を掃除しておくくらいのものだった。今はそれが彼の限界だった。しがみつくように、一つ一つをこなしていくだけだ。
 相変わらず聡子の世界の滅亡の話は続いていた。それでも聡子が総治の作った料理を食べているのを見ると総治は自分の体の重みを忘れることができた。
 そんな風に過ごすうちに、一週間が、一か月が過ぎ去っていったが、やはり将来の展望が自分の中に現れる訳ではなかった。
 兵頭巧とは、一度共にした昼食以降あまり話さない元の関係に戻っていた。
 生活の中で、総治は自分がとてつもない孤独の中にいるのではないか、というようなことを唐突に思った。ただ毎日の中にいる日常は月日の流れがあまりにも速い。
 聡子がいても、テレビでも、その孤独は癒すことはできなかった。映画は映画館に辿りつけなかった。本は最後まで読み切ることができず、本屋でもぼんやりと立ち尽くした。何かを選び取ることができなかった。あまりにも多くの選択肢が目の前に広がっていて。何かを選んで、もし間違っていた場合、金も時間も消費されるのだ、と思うと余計に何かを選ぶのに億劫になった。生活を整えることに忙しく、何かに集中するだけの時間をとることができないままその間々月々の接続料で無限に垂れ流されているインターネットでの他者同士のやりとりをぼんやりと眺めた。他者の意見。それは、確かに自分以外の他者が存在しているということではあったが、特に難しくもない何か一つのコンテンツを見ているようだった。
 総治が足しげく通っている近所のスーパーマーケットにも他者は存在しているのに、総治には目の前の商品と、遠い消費者が通路の障害物のように点在しているだけしか把握できなかった。レジにいた若いアジア系外国人が近くの大学生であろうジャージ姿の若者たちと話しているのを見て、留学生なのか、と思ったことはあったが、それだけだ。もちろん、スーパーでは一消費者であるだけの総治にはそれだけで十分だった。棚に商品があり、その一部は値引きされていて、献立を組み立てながら商品を選び、必要な金を持ってきちんと購入さえできれば、その裏でどんな人間がどんな仕事をしているかなんて、特に問題ではないのだ。「地元応援」なんて名目で売り出された野菜を見ると、ちらりと農家のことを思い浮かべるくらいで、商品というものが須らく誰かから生産されたものだということを一々考えたりしない。商品の運送も、スーパーで働いている人間のことも深く考える訳でもない。そういう”システム”なのだ。どこかで自分もその一端を担い、金を得て、その”システム”を利用する。”システム”が機能しているならば、そこに、他人の人生へ思いを馳せる必要はない。そこで誰がどんなことを考えているかなど。



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