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運命の女神 (3)
五、
難しいことは、もう手の出しようがないよね。分かるとか分からないのレベルじゃなくて気づきすらない。魔法みたい。あーいいなって思う遠い世界。今写真を撮りましたけど、このスマートフォンの仕組み説明できます?できません。使うことはできるけど。簡単なことは驚くほど簡単で、はい、今撮った写真を全世界に晒しました。指一本で。簡単なことと難しいことの間には大きな溝があって、簡単なことから難しいことに飛び移ることはできない。できない。できない。格差。
知りたい、分かりたい、と思う大事な欲求が、低レベルに消費されている。気がする。これは難しいことには飛べないっていう諦めなんだろうか。ううん、そんなことすら考えてない。そうだね?手近な情報端末からちょっとネットの情報を検索して、その辺の噛み砕かれてるのか切り刻まれてるのか分からない誰かの説明を見て、そんで勝手なこと言ったりして満足しちゃうよね?だって向こうからこっちに流れてくるんだし。俺たちがレベルなんだよ。
簡単なことから難しいことに進もうとすると時間がかかるし、時間は細切れだし、時間てつまりお金ってこと。自分の労働力という売り物。自分の生活を保証してくれるもの。この生活に難しいことが影響を与えてるのは知ってる。でも、生活からじゃ点にしか見えない。そこをつなぐ線は見えない。点だってちゃんとは見えていない。遠いからかな?疲れるからかな?
だから分かったような気になれる誰かのゴシップとか、日常の話とかばかり見てしまうんだろうか。自分も、してしまうんだろうか?
分からない話より、分かる話の方が楽しいよね?
『この前テレビに出てた「なかのく」の交野見ちゃった。こんなところで何してたんだろーね?』
ああ、出会いたい。
簡単とか難しいとかに関わらずどんな情報も世界に確変を起こす可能性を孕んでて、この無意味な行為も何かの意味を持ってるかもしれない。自分を全然別の場所に連れて行ってくれるかもしれない。
君はどこへ行こうとしてたんだろう。もうみんなに広めちゃったよ。もしそれが良いことなら、独り占めなんてずるいよね。
*
「こんなことをしたい訳じゃないのに、とか思わない?」
「ラーメンの写真撮ってアップするのやっぱりかっこ悪いですかね?備忘録と、ちょっといいお店宣伝したいなーって気持ちなんですけど」
「いや、それはいいと思うよ。自分が楽しいことはしたらいいよ、迷惑にならないなら」
「なんの話ですか?」
「ほら見て、これ『この前テレビに出てた「なかのく」の交野見ちゃった。こんなところで何してたんだろーね?』。なかのくで検索したらさ。これになんの意味があると思う?ラーメンの写真をあげるのもさ、ラーメン食べてることが目的ならいいの。けど、写真あげるだけのためにラーメン屋に来るのって虚しくない?」
「それは、写真映えする写真を撮るために流行のお店に行くことを否定…」
「は、してない。だってそれ自体を楽しんでる訳でしょ。そうじゃなくて、やめたいのにやめられないことの話。何をやってもさ、なんだか自分のやりたいこととは違ってる気がして結局ネットに戻ってきて無駄な時間を過ごしているんだよ。ときどきちょっと心にひっかかる何かがあって。でもだからって何が変わるでもない。それだけ」
「つまり裕史さんは今楽しくない」
「いや、楽しいよ。でも巧はそういう時ないの?」
「退屈ってことですか」
「こういうことを退屈って言うのかな」
「公園行ってぼーっとするとか。運動するとか。そういうことじゃないならそれは俺達が自分でどうにかする範囲を超えてると思いますけど」
「思うんだけどさ、結婚してこどもができてたら、こんなことしたい訳じゃないって思わないよな。そんな暇がない。って考えるとただ暇なだけなのかもしれない。けどこどもが大きくなったりして一息つくだろ、その時思ったりしないのか?こんなことをしたかった訳じゃないのに。その時俺は、いやまあでもこどもがいるじゃん、って思うのか。そう思えるだけの家庭が出来上がってるのか?すら怪しいけどその家族を相手にさ、俺はこんなことしたかった訳じゃないって言うの。これみよがしに浮気したりしてさ。された方は堪らなくない?それとも言わずに我慢するの。それはどちらにせよ、今感じてるこんなことしたい訳じゃないの比じゃなく苦しいはずなの。その時そういうものが何もないならなおさら」
*
「結局一発逆転を狙っちゃってるんだよ」
「もっと着実にいったらいいんじゃないの」
「まだぎりぎり、今なら取り返せるんじゃないかって思ってるんだろうね。でも今から間に合わせるなら、着実にやってもさ、もっと前から着実だったやつに追いつけないんだよ。だからリスクを取ってばーんってさ」
「それ賭け事に負ける人の心理じゃない?」
「客観的に見たらそうだよ。でも自分のこととなるとそうはかないんだよな。馬鹿だなって思うけど信じてるんだよ、辛いことがあったなら、その分幸せになれる、今までのこと、全部肯定できるような、ああこのためだったんだって思えるような…」
「そういう相手ねぇ…夢見過ぎじゃないかなぁ…ってずっと言ってるけどさ」
「巧がそう言うの分かる。分かってるんだよ。むしろ巧の態度は優しいくらいってことは。手近なところからでもとにかく始められないやつは見下されるだけだ。こういう態度を続けてて、俺はもっと年取ってどうにも首が回らなくなってから、ようやく諦める。でもその頃には何もないんだ。今、選んでいかないと。でも、選びたくない。こういう自分をなんとかしたいと思ってるよ。自己啓発本とかさ。でもそういう本に書いてある「あなたはそれでいい」ってメッセージも、あなたは過去にこういうことがあったからっていう解説も、私はこうしたから今こうなってますっていう経験談も、結果なんだ。過ぎ去っているところから書かれてるんだ。俺は今の自分を持て余してるんだよね。俺もようやく分かってきたよ。あれはそういうエンタメなんだって。それ以上でも以下でもない。いつかの自分として都合よく重ねて、気持ちをそらしてるだけなんだ。っていうかそういうの書いてるのは大抵もう相手がいるんだよね」
「その理屈で言ったら結婚アドバイザーは消滅するんじゃない」
六、
相手がいることと、いないことの間にそんなに違いがあるかね?
ということを、兵頭巧は西野総治を見ていて考える。相手がいるからって幸せじゃないやつだってたくさんいる。現に西野総治はいつも俯きがちで幸せそうではない。逆に相手がいなくても幸せなそうな人間だっている。
全て憶測でしかないので、巧は西野総治と昼食を一緒にとってコミュニケーションをとることにした。
西野はいつもデスクで弁当をつついているのだが、それでは踏み込んだ話が聞きづらいので、前日の内に外食に誘う。
「西野、明日の昼外に食べに出ない?」
「え、は、はい」
西野の言葉も出ないびびりっぷりに、巧は思わず「嫌な時は断っていいから」と付け加えたが、西野は「いえ、行きます。嬉しいです」と答える。嫌でもそう答えるよね、押し並べて先輩と後輩の力関係はこのようである、と巧は思い出しながらも、誘いを取りやめはしなかった。
次の日の食事も、当然のように会話ははかどらなかったので、巧が一方的に、業務のことや最近のトピックスについて話した。
「西野っていつも大変そうじゃない?早退することもあるし。大丈夫なの?」
「すみません、御迷惑をおかけして」
「いや、そんな直接的にかかってきてる訳じゃないし。それに、ごめん、ちょっと聞いちゃったんだけど、家族の事情なんでしょ」
「はあ……」
西野がまた俯くのを見て、巧はこの話を続けるか少し悩んだ。西野のプライベートに切り込んでいけるほど、巧は西野と仲が良いわけではなかった。
いや、むしろ、仲が良い、とは?
職場の人間関係なんて、ただ同じ時期に同じ場所につっこまれて仕事してるだけで、仕事の話がしやすいように、世間話ができるくらいの関係を目指しているだけだ。
「家事とかどうしてるの」
少し遠回りするように巧が話題を振ると、西野がわずかに顔を上げる。
「僕がやってます」
「そっか。大変だよね、病気の人間を支えるのはさ」
(おっと、そこまで自分のプライベートがバレてるってのは嫌だよな)
言いすぎたかな、と巧が西野の表情を確認すると、西野は不快というよりも、驚いて呆けた顔をしていた。しかし、あ、と巧が思う間に、西野は苦笑して視線をそらした。
「野菜炒めばっかりだね、って言われます」
「そうなの。だったら自分で作ってほしいよね。無理なんだろうけど」
じゃあ、と巧が電子レンジでじゃがいもに火を通しポテトサラダを作ると楽だと巧が教えると、西野が笑った。
「なるほど。ありがとうございます。作ってみます」
「いや、別に感謝されるほどの情報じゃないよね。こういう簡単なレシピってさ、ネットを探せばいくらでも見つかるじゃない。それに今日日(きょうび)ポテトサラダなんてスーパーどころか、コンビニでも売ってるからね。飯なんて大変なら買えばいいじゃん」
「そう、ですね…」
西野が何か言いたそうに言い淀んだが、時計を見ると昼休みが終わろうとしていた。
「まあ好き好きだけどさ。さ、そろそろ戻らないと」
*
(あーあ、結局聞けず終いだった)
巧はパソコンを立ちあげ直しながら、西野との会話を思い返した。
(でも聞かなくてよかった。あそこで立ち止まってよかった)
もしあのまま軽はずみに西野の心情に関わる質問を向けたとして、西野が喘ぐように辛さを告白した時、巧にはそれを受け止めるだけの覚悟はなかった。何を言えば良いのか。どこまで自分ができるのか。そんな話が出るほど信頼されていると思ってもいなかったが弱っている人間ならどう転ぶかなんて分からない。
職場の人間関係に、100%心を許す余地なんてありはしない。もたれかかることはない。それが暗黙の了解で、それぞれの仕事外の生活があり、そこでの各人の苦しみを抱えられるほど、お互いの生活に余裕があるだろうか?関わりたいと思うだろうか?お互いが、まず腹の中を隠したまま関わり合っていく中で、幸せも不幸せも話のネタでしかない。余裕があったとして、それはさらなるパフォーマンスや自分の人生のために消費されるのだ。ただ、一時期を一緒に過ごす、過ごさなければいけないだけの人間関係で、私情を挟めば仕事は滞っていく。目の前の効率が落ちる。どんなに仲が良くなっても、友達ではない。
巧が西野に目をつけたのは、西野が弱っていて、自分よりも弱くてがらりと崩れた理性から彼の私情が見えそうだったからだ。
もし西野が暗黙の了解を忘れて職場の人間関係以上に踏み込もうとしても、先輩として、そして弱っている彼との力関係で、「まあ頑張って」だけでそれを退けらるだけの確信があった。彼が傷つくとしても、こちらは傷つかない。一方的に搾取するだけの関係。それは聞こうとするまで表層化してはいなかっただけで。
(相手がやりかえさないの分かっててこっちの思いどおりにしようとするのって完全なハラスメントだよね)
こっちでどうにかできるのはここまでだからって線引きから、確実にはみ出してしまう西野は、どうにかされないまま、ハラスメントを受けるか、ずっと線引きの外で放り出されているのだろうか。
(西野は仕事やめるかな)
生きるために働いていて、給料がでること以上のことを職場に期待してもしょうがないけれど、もし総治に職場以外の人間関係がないなら、あの俯いた肩の荷をどこで下すのだろう。
孤独。
重さ。
しかし、たいていの人間が踏み込まずにできることといったら、たいしたことないポテトサラダの作り方を教えるとか、それぐらいのことだ。
でもさ、それを分かってくれというのもあいつにとってみたら勝手な言い分ではないか、とあの驚いた表情を思い出して自分に問いかけてみるのだ。
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