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運命の女神 (6)


   八、




 スーパーマーケットの思い出といえば、六つ上の兄が値下げシールの貼ってある惣菜ばっかり買ってくるってことだった。あとはパンとかも値下げ品。米も値下げ品。よくポソポソの寿司を食べた。兄の始末に負えないところは、値下げ品ばっかり買ってくるくせに賞味期限に全く気を使わないことだった。遅い時間に半額の惣菜を買ってきて、製品表示の賞味期限はその日の内なのに、次の日の夕食に食わされることがしょっちゅうあった。「だったら、俺はカップラーメンの方がいい」と言うと、「野菜も食わないと」とか俺の体を気遣うようでいて、賞味期限切れの惣菜ばっかり食わせる。遅い時間にわざわざ惣菜を買いに行く。兄はバカだ。救いがないタイプのバカ。ワゴンに乗ってるっていう理由だけで、高いーもちろん相場よりは安いけどー果物などを喜んで買ってきてしまう。違う。そうじゃない。
 「生の野菜買ってきて料理すればいいじゃん。カレーとか。あと肉が食いたい。寿司ばっかりは嫌だ」
 じゃあ、お前がやれ。とか兄は言うタイプではなかった。へらへらっと笑って次の日の夕食に三十%引きのから揚げが出てくる。違う。そうじゃない。
 こうなったのも、俺が兄のこんこんちきな料理を「まずい」と言いまくったせいだったのかもしれない。小さかったので、まずいものは「まずい」としか言いようがなかった。俺がまずいと言うと父も「まずい」と言っていたので安心してたのかもしれない。スーパーの惣菜より、こんこんちきな料理の方が温かかったけど、もうスーパーの惣菜を嫌だ、と言えなくなっていたし、俺が「おいしい」って言っても兄はそれが嘘だと見抜いてしまっていただろう。
 カレーぐらいだったら作れる歳になっても俺は作らなかったし、家庭科の勉強で味噌汁の作り方などを教わっても絶対にそのことを家で言わなかった。兄が負っている食事係に俺は絶対なりたくなかった。俺はその頃誰にも見つからないようにひっそりと生きていた。学校でも、ちょっと小突かれても我慢した。とにかく目立ちたくなかった。世界の誰にも見つかりたくなかった。でも髪が伸びてくるのは嫌で、坊主でもいいから散髪屋に連れて行ってもらえるとほっとした。髪を伸ばしている兄のようになりたくなかったのだ。でも兄だって伸ばしたくなかったに違いない。
 夜。目を覚ましてしまうのが嫌だった。目を開けてまだ辺りが暗いと不安になった。
 兄が父に「女」にされるのを見た。何度も。
 いつも早く眠りたいと思って目を閉じるのに、声が、聞こえてきてしまう。ふとんに包まると目が覚めているとばれる気がして、耳を塞げない。
 「ほらもっと声を抑えないと貴幸が起きるぞ?」
 と猫撫で声で父が兄に言って、兄はくぐもった呻き声を出す。
 だから俺は、兄が父にされていることを兄と話すことができなかったんだろうか。隣でやってるんだからばれてるに決まってるのに。誰に命令されたわけでもないのに、誰にも言うことができなかった。そういう、そういう風に思わせる力があれにはあった。
 いつの夜だったか、父があれの最中に、兄に「うまいか?」って聞いてて、兄は口を開けたまま何かを詰め込んだまま「はい」って言ってて、その頃にはそれがどんなことの最中なのか俺には分かってて、それがおぞましくて、なあそれがどれくらいぞっとすることか分かる?
 俺は一生「うまい」なんて言わないと決めた。
 そのせいで俺の人生がうまくいかなくても。だってそうでもなきゃ、





   *




 男を好きな男の中にはね、ただ不幸が好きって男もいるんだよ。
 女の不幸はうんざりしてしまう。男の不幸は胸に迫るものがあって好き。それって、やっぱり男が好きってことなのかもしれないね。
 特に若い子はいいね。全体的な裸体の美しさもそうだけど、きっと、不釣り合いなのがいいんだと思う。泣き叫ぶのもそうでないのも、おじさんのせいでこんな目に合わなかったら全然違う可能性の中で笑ってるのにって思うと、羽箒で背骨の上をなぞられるみたいに身震いするほどぞくぞくしてしまう。君たちの一番大切なものを掠め取って奪っていく感覚。おじさん達側だけがするおいしい思い。自分が優位に立って踏みにじっているという愉悦感。基本的にはひどく扱って怒らせたり、苦しませたり、逆にとっても悦ばせたりして混乱させる。どの場合にしろ、みんな前の時点には戻れない。完全に作り変えられてしまう。しっちゃかめっちゃかさ。分かるかな。これが影響力を持つということなんだ。歳を取るほどこうはいかない。ただ壊れるだけ。育ってきた年月は思った以上に頑強だよ。君たちが持っている可能性はこんな風に不安定で、それは素晴らしい訳じゃない。最高にも最悪にも振れる。可能性が素晴らしいものだと信じているのは、守られて咲くことができた美しい花だ。それは守るに値する。でもね美しく咲いたから守られるんだ。守られたものはずっと守られる。作り変えられたものは、それが不出来だったら守られない。もし万が一美しく作り変えられることになったら守られるかもね。手を加えられることはその子にとってとてもリスキーで、だからみんな天然培養を良しとする。ああ、この場合のみんなは常識的な大人という意味だけど。
 でもおじさん君みたいな子も大好きさ。
 おじさんの話分かるよね?でも考えない。何も考えられない。そう作り変えられているから。泣きたくても泣き叫べない。助けを呼べない。だからおじさんみたいな人に近づかれても逃げられないし、踏みつけられると怒るけど、それだけ。君みたいな子は鈍いだけで傷つけられてもその傷を体が癒す以上の治療を何一つできない。傷がどんどん蓄積して今まで以上に鈍くなっても、嫌だな、って気持ちだけがずっと続いていくんだ。そういう子が最後にはどうなっちゃうか分かる?
 君は「教えて」も言えない。
 その存在の悲しさがおじさんは好きさ。その悲しさに僕は癒される。
 ああ、清々する。
 この瞬間だけが自分の深い穴と向き合ってるって気がするんだよ。





   *




 めたくそに言われて、ひどいことされるのが御山明幸の仕事だった。頭が悪くて、彼は自分にはそれくらいしかできないと思っていた。彼が何度も頭を下げて頑張ると、みんな喜ぶ。彼は実は頭を下げるくらいなんとも思っていない。意味のあるのは周囲の人間ばかりだ。みんなの持ってる意味と彼の持ってる意味は違うんだなぁ、というのが、彼の冷静な分析である。彼の客を彼は正直どうかと思っているが、生きていくためと、彼には弟がいるので頑張っている。でも自分が格好悪くて、見る人から見れば、汚いと言われることも知っているので、毎日肩をすぼめて、抜き足差し足で歩くような人生だ。
 何しろ目に止まったとしても、彼には自分自身を語ることができない。ただ誰かの話に笑ったり、同意を示したりする以上の言葉が彼にはない。自分の番が回ってくると、頭が真っ白になってしまう。と言うわけで必死に、盛り上がっている時は盛り上がり、笑わなければいけない時は歪んだ笑顔を浮かべ、誰かの愚痴に神妙な顔をしている。そういうことにもだいぶ慣れてはきたのだが。
 明幸は最近気になる子ができた。
 それは彼の出勤途中にあるアパートの二階左から二番目にある部屋に住んでいる斉藤美杏だ。
 初めて目があった時、分かった。
 この子は自分とおんなじだ。
 つまりは虐げられていると思った。実際、彼女はベランダに閉じ込められていた。彼でなくても分かったのだが。
 一瞬で、明幸は彼女がどんな風な生活をしているのか分かった。分かったというより、自分の人生をそこに重ねて見てとった。明幸はその人生の全てを具体的に思い出すことすらできないのだが、おんなじ目をしてるな、と思ったのだった。あの頃の自分と同じ目。
 ―私をどこかへ連れてって。ここじゃないどこかへ。誰か。
 あの頃、生きてるってよく分からなかった。どうして自分に体があるのか。どうしてこんなに痛くて、苦しくて。気まぐれでそこから抜けると、はっと今までの分の息も吸うような。でも肩の力は抜けない。
 そういう日々が続いて、いつか突然終わりが来る。
 この間ずっと明幸と美杏は目が合っていた。気を抜くとずーっと目が合っていそうだった。明幸は少しだけ笑って、手を振ってみた。美杏も少しだけ笑って手を振り返した。今度はずっと手を振り合っていそうだった。この時間がずっと続いたらいいのに、と明幸は思った。この時間が全てを埋め尽くしてしまえばいい。
 しかし、もう少し大きく手を振ってみようかと明幸が考えた時、通行人が不審そうに明幸を見ながら通り過ぎていくのを見た美杏は、手を振るのをやめてベランダの柵の中に隠れてしまった。
 そこで明幸と美杏の邂逅は終わった。
 以来ずっと明幸は美杏が気にかかっている。
 自分は生き残った。けれど、最近は、いつかくる終わりが最悪の形になってしまうことだってある、とニュースがどんどん明幸を責め立てるのだ。



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