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靴を脱いで、点字ブロックを感じたら、見えてきたこと

価値観を変えられてしまった授業がある。
人生が、その授業の以前と以後に分けてしまえるほどの。
それほどまでに重要なのに、講義名は、忘れた。
たしか心理学か認知学だったと思う。
しかし講義名は忘れても、講義の内容は忘れない。

人間は、自分の意志で動いているようで、実はそうとばかりは言い切れない。
環境のさまざまな要素が人間に影響を与え、感情や動作が引き出されている。つまり、人は環境に操られることもある、ということ。それをアフォーダンスという。
たとえば、箱に丸い穴が空いていれば、空き缶やペットボトルを入れてしまう。
ドアノブが球状ならひねってしまうし、棒状なら押すあるいは引いてしまう。
ガードレールに何気なく腰掛けてしまう、なんていうのもそう。

「だから諸君。自分を3mの上空から見る、ということです。人間は環境からの影響を遮断することなどできない。ならば自分が何に影響を受けているかを意識する必要があります。自ら踊るか、誰かに踊らされるか。その違いです」
そんなことを教授は言っていた。気がする。

人間は自由意志で生きている。それを疑ったことすらなかった大学一年生の私にとって、それこそコペルニクス的な価値観の大転換だった。
その後「どいつこもいつも踊らされやがって」と、世の中を斜めに見る社会人になって、今に至る。ありがたい教え、台無し。

そして。約25年ぶりに、アフォーダンスという言葉に再会した。しかも今回は座学ではなく、体験として。

場所は「だれもが文化でつながるサマーセッション2023」。

東京都やアーツカウンシル東京が上野の東京都美術館で主催したイベントだった。

公式サイトには
「芸術⽂化による共⽣社会の実現に向けた"新たなコミュニケーションのあり⽅"を創造する、9⽇間。"誰もが楽しめる鑑賞体験" とともにお楽しみください。」
とあった。漢字が多い。よくわからん。
かろうじて「誰もが楽しめる鑑賞体験」だけが理解できたので、行ってみることにした。アフォーダンスの講義で価値観が変わったなどと嘯いても、この程度の仕上がりである。

会場には、実にさまざまな作品、インスタレーション、記録などが展示されていた。

60数台の車いすを白く塗り上げ、サイバーな感じで並べたもの。
「60数台の車いすが白く塗られてサイバーな感じで並んでいるな」
という以上の感想がわくことはなく。

解説には
「多様な知覚や身体感覚、異なる他者とのコミュニケーションについて問いを投げかけます」
とあった。
解説を読んでわかったことは、その投げかけ、私にはキャッチできそうもない、ということだけだった。
アンテナが明後日の方向をむいちゃってる。というか、そもそも絶望的に低性能である可能性が非常に高い、という現実に向き合えた。それもまた一つの学びだ。

一方で、惹かれてやまない作品もあった。
西成のkioku手芸館「たんす」に集まるおばちゃん、おばあちゃんと、美術家・西尾美也が立ち上げたファッションブランド「NISHIANRI YOSHIO」。
めっちゃくちゃかわいい。とくにジャケットが好みだった。私に似合うだろうか。
ショップは西成にあるらしく、なかなか行ける距離でもない。が、オンラインショップもあるらしい。がんばってお金貯めて買おう。
久々に「欲しい!」と思えるブランドに出会えた。価格帯は¥15,000~30,000といったところか。
それにしてもヨシオってなんだ。

こちらはアンテロス美術館東京分館の「手でみる」作品展示。いろいろな絵画に”触れることができる”というもの。
いわずもがな、視覚に障害のある方も美術を鑑賞できるように、という趣向もあるだろうし、アートの新しい楽しみ方、という側面もあるだろう。
私は迷わず「最後の晩餐」の前に立ち、目を瞑って作品に触れた。
これから裏切りにあい十字架にかけられるキリストの尊顔に触れた。
と思ったら、ペテロとヨハネの顔を撫で回していた。手の鑑賞、難っ。
「最後の晩餐」は、構図や人物配置にさまざまな創意工夫、カラクリ、秘密があるという。あちこちを目で詮索するのも楽しいが、両手を同時に動かして、触覚で体感するのも楽しいだろう。
「解説してくれる人がいたら、1,000倍は深く鑑賞できるんだろうな」
と思いつつ、癖になりそうな石膏の感触が指の先に残った。美しい絵は指先にも官能的のかもしれない。

他にも情報保障とデバイス、ろう者と表現など、非常に興味深い展示ばかりだった。
「QDレーザを体験した盲学校の高校生と写真家の池田晶紀による作品の展示」なんて、写真をとる喜びや可能性と、網膜にレーザーをあてて視力に関係なく見えるようにするテクノロジーも凄かったのだが。

とにかく印象に残ったのが、これ。
その名も「たっちめいろ」という。先天性の盲ろう者である触覚デザイナー・たばたはやと氏と、「つなぐ」をテーマに制作を行うmagnetチームが協働で作り上げたという。

とてもポップなアスレチックのよう。塩ビパイプで組み上がっている。
目をつぶりながら、パイプの感触だけを頼りにぐるり一周するというもの。

パイプはジェットコースターのようにアップダウンするだけでなく、ところろどころ途切れている。手をジャンプさせれば届く短距離もあれば、一度パイプから手を離したら最後、次のパイプまで迷子になってしまう長距離もある。
ミソは、パイプの始まりと終わりには”触覚パーツ”なるサインがついているということ。手を上下左右どの方向に動かせば次のパイプを掴むことができるか分かるようになっているので、触覚でそれを汲み取りながら進んでいく。
つまり「触覚のアフォーダンス」を実装している、ということだ。
さっきは「手で見る絵画」があったが、こっちはさながら「手で読む迷路」とでも言えるだろうか。

私は目をとじて、パイプに手をかけた。バレエのレッスンのように、背筋を伸ばして。体の中心線をブラすと、パイプを握っていても迷子になってしまう気がした。
手の感触だけを頼りに、パイプづたいに一歩一歩あるく。リハビリの歩調。前後左右だけでなく、上下という空間を把握しながら。

サインの指示をうけ、手をジャンプさせる。崖の向こう側へ飛び移る心境。着地。よかった。次のパイプに手が届いた。
次のサインは手を天井へ。あ。手の甲が次のパイプを打った。ここか。

サイン。手をピョンとさせる。着地。
サイン。手をピョン。着地。
徐々に慣れて、少し歩調がスムーズになる。
スリル。遊具として最高に面白い。
またサイン。慣れた手つきでピョン。

スカッ。

あれ?届かない。次はどこだ?
どこまで手を伸ばしても、パイプが手に触れてこない。
どこだ?
不安。ここで目を開くような、興を削ぐようなことはしたくない。しかし、怖い。

「足元を見てみてください」
横からスタッフさんの声がきこえた。
目をつぶっているのにキョロキョロしているおじさんを、見るに見かねたのだろう。

「おぉぉ!?」

そこに点字ブロックがあった。正式名称、視覚障害者誘導用ブロック。
まったく気づかなかった。サインは足元にあった。注意。進め。
「ぜんっぜん気づきませんでした」
「ははは。そうですよね」
足元に点字ブロックがあるとわかってもなお、足裏に点字ブロックの感触は伝わってこなかった。

そこで私は、靴を脱いでみた。

「ああ、これならわかります」
まさに触覚のアフォーダンス。

なんであれほど驚いたのか。
思いもよらない点字ブロックが足元にあったから。もちろんそれもある。
しかし、驚きの正体は、それだけではなかった。
点字ブロックは触れるものである、という実感が、自分に著しく欠けていたことに気づいたからだ。
点字ブロックは、触れるもの。人によっては足で、あるいは白杖で。もちろん目を凝らして見る人もいる。
点字ブロックの存在だけではなく、意義をあらためて発見した気分。

逆に言えば、それまでの私は、想定していなかったのだ。誰かが、なんらかの方法で触れるものであると。
自分にとって点字ブロックは、いつのまにか踏んでいて、気づかないまま通り過ぎるものだった。自分が点字ブロックを使うことを想定していない生活。それはつまり、誰かが使うものであると想定しきれてない生活であったかもしれない。

視覚障害に限った話ではない。他のあらゆる障害、あるいはジェンダー、国籍、疾患、宗教など。
頭でわかっているつもりの何かは、理解というには到底心もとない。

私はこれまで学んできたことを、ちゃんと学べていたのだろうか。きちんと知れているのだろうか。
積み上げてきたつもりの何かが、足元でガラガラと崩れていくような感覚があった。

やはり私の学びは、いつまでたっても鈍いままだ。アフォーダンスの講義を、もう一度思い出していた。

(おわり。最後まで読んでいただきありがとうございました)


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