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うつと筋トレ〜日本一あかるい鬱日記〜 #5 罪と妻

テーブルで、スマホがブルブル震え上がっていた。

画面の表示は、営業チームのメンバーK。彼が「いい報告と悪い報告あります」という時は、結局どちらも悪い報告。そんなナイスな後輩だ。
来るべくして来た、バッドニュース。いや、ワーストニュース。テレフォンパンチとは、よく言ったものだ。意味ちがうけど。

在宅勤務日だった私は夕食の支度を中断し、ひと呼吸おいて通話をONにした。
「Kですけど今いいですか?」
「いや」
「あのチャット、メンバーみなさん入ってますけど大丈夫ですか?」
今いいですか?ってなんで訊いた?
「草冠さんの書き込み、みんなザワついてます」
・・・あぁやっぱり。

「大丈夫大丈夫」
嘘。せんぜん大丈夫じゃない。思わず繰り返したら、ごまかしている証拠。
「分かってて書いたから」
残念ながら、こちらはなかば本当だった。だからこそ弁解の余地がない。
私はそれ以上なにも言えず、不器用に心配してくれるKを遮って、電話を切り上げた。いや、逃げた。

この数時間前、大型受注が決まった。
そして私は気持ちをたかぶらせたまま、メンバーへの報告にこうチャットしていた。
「この受注で、ノルマの、1/4をクリアできますが、私ひとりで、とりました。チームで、助け合えないなら、会社は寄生するところでは、ありません」
他人を責めるときだけ敬語になるヤツっている。私だ。読点が不自然に多く、文章も通ってない。自分が怪文書を打っていることに、その時は気づいていなかった。

受注までの準備期間、私は抑うつ症状に苦しんでいた。
不眠。めまい。焦燥感。過呼吸。メンタルクリニックから出された抗うつ剤と安定剤は、ミンティアのペースで消えていった。
朦朧としながら書いた提案書が、翌日読むと支離滅裂。やり直した資料の保存を忘れ、先祖返りを繰り返す。タイピングする指はもつれ、毎日入力しているはずのPCパスワードが分からなくなったこともあった。
脳機能の低下が失敗を招き、リカバリーするために睡眠時間が削られ、また脳が働かなくなるという負の円環構造にはまっていた。

「誰か、サポート入ってくれない?ちょっと体調悪くて」
何度かメンバーに出したSOSに応答はなく、孤軍奮闘はまさかの孤立無援へ。それでも援軍を待ってしまう時間は、不信感に火が点く時間でもあった。
そして導火線の先にあった、大型受注の興奮。

恨み言をぶちまければどうなるか、知れきった末路だ。ハラスメントのイエローカード。一発レッドでもおかしくない。
いや、会社が建前で決めたコンプラなんかよりも、メンバーを信じられなくなったことのほうが問題だった。信じ抜かなければ、信じてもらえることもない。

分かっていた。分かってはいたが、もう、理性が働かなかった。
キーボードを打つ指が止まらない。ジェットコースターは途中下車できない。意識と無意識のアップダウンが、断片的な記憶として、うっすら脳裏に残っている。錯乱というレールに翻弄されるがままだった。

そういえば筋トレの後も、情緒が不安定になるのが癖になっていた。今の私は、アドレナリンに要注意。忘れていた。
必要な記憶が、必要な時に取り出せない。これも脳機能の低下か。いや、もともとな気もする。

忙しかったメンバーもいただろう。あるいは、誰も私を助ける気にならなかっただけかもしれない。
いずれにせよ、周囲が自分に都合よく動いてくれると疑わず、彼らに依存しきった自分に気付けなかった私は、裸の俺様だった。

「魔がさしました」「被告は当時、心神喪失状態にあり」「記憶にございます」あらゆる自己弁護が頭をよぎり、後悔に上書きされていく。
本当なら、嬉しい報告になるはずだったのに。次、どんな顔でメンバーに会えばいいのか。

後悔のストレスで目が回り、吐き気がこみ上げる。二日酔いに似ていた。こうなる前に戻りたい、というタイムスリップ願望までそっくり。
立っていられず、ソファに身を投げた。バネがヘタりきり、尻のカタチに凹んでいる。私にふさわしい墓穴だった。

「メシはどうした?」
状況を察した妻が聞いてくる。
「ごめん。今やる」
「おお。大丈夫か。ええわ。アタシがやったるわ」
「ごめん」
「アンタ、あれらしいで。12年に一回くる、運の悪い時期らしい。天中殺」
契約社員である妻は失業対策として最近、占いを勉強し始めた。
「マジか。いつまで?」
「今年と来年」
「それカウント二回じゃない?」
「12年に一回って本に書いちょった」
健全な短期記憶が羨ましい。
「じゃあ不運期が、12年間ずっと続いてたら?」
「それはねーわ。アタシと結婚できた時点で、アンタは幸せもんやで」
弱ったメンタルと占いは、混ぜるな危険の取り合わせ。しかも占い師が連れ合いで、見立てが我田強引水という逃げ場のなさ。本当に天中殺なのかもしれない。

その夜は、寝付けるわけもなく。多めに飲んだ睡眠導入剤は、悪夢への導入剤だった。

掃除道具のような箱の中、水が流れ込んでくる。蹴破ろうにも狭すぎる。
私は顎を上げて水面から顔を出そうとするが、首、耳、そして口鼻へと水位が上がり、トプン。
息ができない、できない、できない。これ、棺桶じゃないのか?

と、ここで目が覚めた。
しかし、まだ息ができないまま。原因は過呼吸だった。急いでベッドを抜け出し、リビングで精神安定剤を飲み下す。
ダイニングチェアに腰を下ろし、懺悔の姿勢で窒息が過ぎ去るのを待った。
どこかで、朝刊の原付バイクがストップ&ゴーを繰り返している。叫びたいほど、耳障りだった。

油汗の臭いが立ち上り、うなだれる顔面を覆う。
首元、胸元、背中、脇の下は汗まみれ。股間、尻、内腿まで。

股間、尻、内腿まで?
汗まみれどころではない。びたし、だった。とくに下半身。おもに下半身。
滝のような汗というが、汗の滝壺は聞いたことがない。
そっと手を伸ばす。
・・・これ、汗じゃないな。

あまりに信じられないことが起きると、人は笑ってしまうという。泣いてしまうこともあるのだろうか。
汗と涙は同じ成分らしい。
尿はどうなんだろうか。

私は、重くなったステテコと下着をおろした。そしてシャツも脱ぎ、それらをくるんだ。
結果、全裸。今度は本当の裸だった。
粗相一式を洗濯カゴに入れることは憚られ、かと言って夜明け前から洗濯機を回せば、隣近所の迷惑になる。
応急措置として、風呂場で踏み洗いするしかない。

ジャッジャッ、ジャッジャッ。
ジャッジャッ、ジャッジャッ。
真っ暗な洗い場。マーチのリズムで足踏みをする、すっぽんぽんの男。ほぼ妖怪。
「おぉっ!?」
背中でドアが開き、妻の声がした。子ども部屋で寝ていたところを、シャワーの音で起こしてしまったらしい。
「どうしたん?」
パチっと明かりがつき、怯えと優しさがないまぜになった声できいてきた。

私は振り向くことができず、鏡ものぞけないまま、自分の足に向かって答えた。
「うん。おねしょしちゃった」
「よくあることやな」
間髪入れずに、妻が言う。彼女の肝は、据わっている。
「ごめん」
「あやまらんでいいよ」
「これ、どうしよう」
「洗濯機いれとってくれたらええわ」
事務的。あえて気を使わない、という気づかい。私は彼女に手を合わせたい気持ちだった。愛しさと切なさと心強さと。確かに、私は幸せ者に違いなかった。

服を着てリビングに戻った。
「そういえば、あんたの性格また調べたらな」
「うん。なんて出てた?」
妻は私の気分を変えようとしてくれていた。現実から目を逸らせるなら、なんでもよかった。
「社交性ゼロっち」
現実直視。占うまでもなく、見てりゃわかる。
「知ってたけどな。今は、占いの答え合わせする練習やねん」
練習問題に選んでくれたことに感謝。
「ほんでな。あんたの属性は、陽。太陽の陽な」
これは意外。
「陽にも2種類あってな。陽は陽でも太陽じゃなくて、あんたはろうそくみたいな陽」
闇前提なんですね。
「明るさは弱いくせに、いったん倒れるとボワッと一気に燃え広がるらしい」
「的中じゃねぇか!」 
たまらず笑った。笑ったら負け、笑わせたら勝ち。夜明けに思い出す、我が家のルール。
「な?占いもバカにできんやろ?」
妻もニヤリとした。
「次なんか会社で炎上したら、しょんべんで消したったらええねん。ヒヒヒ」
天中殺が、嗤った。

その日はそのまま家族の朝食を作り、寝間着とシーツを洗っている間、仮眠をとった。今度は少し眠れた。
そして、メンバーに謝ろうと決めた。
ごめんなさいとありがとう。この二つが言えないヤツは信用でけん。かつて妻がそう言っていたことを、目覚めと同時に思い出したからだった。
かろうじて残った脳機能は、妻に恥じないことに使いたい。そう思った。
十分に恥ずかしいことは、ついさっき起きたばかりだったけれど。

ちなみに。
後日、クリニックの担当医に報告したところ、顔色一つ変えず
「おねしょしづらい薬に変えましょう」
と言われた。
拍子抜け。どうやら、珍しいことでもないらしい。天中殺に効く薬も、一緒に処方してくれないものか。


(終わり)

最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければこちらもご一読ください。


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