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韓国ワーホリ生活 44【最終回】

夜が明けてきて、5時を過ぎたので、3人で店を出た。

それから、電車でうとうとしながら家に帰った。

家で軽く寝てから、出かけた、僕もさやかやちゃんも帰る前日だった。

二人が、私たちの事はいいからって言うので、お言葉に甘えて、最終日は別で行動した。

さやちゃんかやちゃんは、ヨギガで昼間からイベントがあるから、ホンデへ行った。

僕は、先生とご飯を食べる為にシンチョンへ。思い出の味としてソルロンタンを食べたような。

サンヒと会って、特にどこというわけでもなくうろうろしたような。もう時間が無いので一緒にいられればいいやという気分だった。

今書いていて思い出したけど、サンヒと2回映画に行った。一回は知り合って間もない頃で、アイアンマンを見にって、トイレが我慢できずに映画の途中でトイレに立った。映画の途中でトイレに立ったのはそれが初めてだったので屈辱的だった。そもそも始まりにも少し遅れて入ったし。もう一つ見た映画は、最高の人生の見つけ方。モーガンフリーマンとジャックニコルソンが出ている映画。何でそれを見たいと思ったんだろう。

僕とサンヒはぶらぶらして、どこかでご飯を食べて酒を飲んだ。

その夜に帰るつもりだったけど、結構酔っぱらって、近くで泊った。

翌日起きて、さやかやちゃんは午前中に帰るとこだったので、しまったーと思って少しでも早く帰ろうと、サンヒとタクシーに乗ってハスクに帰った。

ハスクの部屋にはさやかやの荷物は無かった。やっちゃったなーと思った。

まぁ、荷物が無いって事はちゃんと帰ったのだから良しって事にした。

それで、サンヒを横目に荷物を纏めた。

帰る準備が出来て、ちょっと一息ついてサンヒと話していたら、ハスクのお母さんからおーいって声掛けられた。部屋からでたら、お母さんは、寺に行くからそのままでてってくれたらいいからと言った。お母さんは仏教徒だ。お母さんにお礼を言った。

それで、僕も部屋に戻ってじきにサンヒと出た。

帰る時の事考えてバックパックの90ℓを買っておいたので、一纏めで楽だった。韓国の登山ブランドのブラックヤックのバックパック。ある程度の物は送っておいたし。

そうして、サンヒとJ-STATIONへ行った。先生に挨拶して、まだ時間があったので、そこにいた大山とお粥屋に行った。二日酔いだったのであのお粥屋に行こうと思った。シンチョンのスクランブル交差点のとこの2階にあるシックなお粥屋。

そこで大山とサンヒと僕でお粥を食べた。大山はその店は初めてらしかった。

大山は、出されたお粥を食べて、お粥だ~って言っていた。そりゃあそうさ。

お粥屋を出て、大山はそこで別れた。あえてあっさりのさよならを装う所が大山らしかった。

J-STATIONに戻って、2時間位あった。中途半端に長い。

みかちゃんが来て、花子が来た。

みかちゃんと記念写真を撮った。

先生が生徒達にメッセージを撮るぞというので、動画で喋った。

そうして時間が来て、先生の車の助手席に花子、後ろにサンヒと僕で乗った。

それでインチョン空港までの1時間ちょっとを先生が走らせた。

みかちゃんに手を振った。

車が走り出したら、泣けて泣けてしょうがなかった。つられてサンヒも泣いていた。

そんで先生と花子が、なになにめそめそしてーと冷やかした。

車がインチョンに着いて、あーついちゃったなーと思った。

搭乗手続きを済ませて、そろそろだなという感じになってきた。

搭乗口に歩きながら、先生達に何か言わなきゃあと思ったのだけど、寂しい気持ちで頭がいっぱいであまり考えられなかった。

搭乗口より少し前の角の所で、先生が気を使って、俺と花子はここで行くよと言った。

それで、僕はとにかく何か言おうと思って二人に、短い間でしたけどありがとうございましたと言った。

言おうと思うと泣けて泣けてしょうがなかったけどなんとかそれだけ言えた。

二人は笑って去って行った。

二人が行ってしまったのを見届けて、振り向いたらサンヒが見当たらなかった。ちょっと影のとこで泣いていた。それで、少しの間サンヒと話すでもなく一緒にいて、それではと別れた。

あんなに泣ける事って滅多に無い。

それから飛行機に乗るまではシュッとしてたけど、飛行機に乗ってから到着するまでずっと泣いていた。

そうして、2時間位で中部国際空港に呆気なく着いた。家族が迎えに来てくれた。

1年とは言え懐かしいのと、2時間で着いちゃうというのとでちょっと変な気分。準備不足のまま次の展開みたいな。

それで、そのまま家族と実家の方に車で戻って焼肉屋に連れて行ってもらった。

韓国の時間と日本の時間は同じ線上にあるといった感じだ。

僕は日本に着いても韓国気分で、家族が喜んでくれてるのを気にせず韓国の事ばかり考えていた。

数日たってから感じ悪かったと言われて、そりゃあそうだと思った。申し訳ない。

韓国から帰って、焼肉に連れて行って貰って、家に着いて、先生にメールした。

先生から、年取ると涙が出ないねというメールが来た。


それが5月。もう15年前になるけど、今でも連絡取る人とは取っているという感じ。

帰ってから7回か8回韓国に行った。

韓国に最後に行ったのはその時が前回行ってから7年ぶりで、先生と会って10年の時だったから、5年前だ。

その時は、シネちゃんとか先生、サンヒの赤ちゃんの顔も見た。もちろん僕の子供ではない。

サンヒはカナダのビクトリアに留学で行っていたので、その時に遊びに行った事もある。

その5年前に会った後に連絡していて話したのが、僕たちがこうして子供が生まれて孫が生まれて(僕は結婚もまだだけど)その子供や孫に、自分たちが若い時に日本人または韓国人とこんな風に出会って思い出があるんだという話をするだけで世界は少しでも平和に近づくんだろうなと思った、という事だった。

去年は、埼玉に住んでいる花子とトッキさんの家に遊びに行った。子供はもうじき中学生だった。
トッキさんはLINEで働いていて給料が良さそうだった。

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