見出し画像

【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】リスト (10-2)

「そう。私、看護師なのに、気づいた時は、もう手の施しようがないほど進行していて。可笑おかしいでしょう」
 都築はその言葉を理解したくなかった。
「ミエちゃんがガンなんかなるはずがないよ。そんなヤブ医者の言うことなんか、真に受けちゃいけねえよ。どこかの大学病院の有名な先生に改めて見てもらったらどうだい。ほらセカンド何とかって言ったろ」
 美枝子は小さく首を振った。

「ううん、MRIの画像を看せてもらったもの。私もどんな状態にあるか、わかるわ」
 美枝子は微笑みながら、涙を流していた。都築は視線を外す。
「酒なんか飲んでいて、大丈夫なのかい」
 都築は美枝子がそんな言葉を求めているのではないと分かったが、他の言葉が出なかった。
「今更どうなるものでもないわ」

「それで、山ちゃんは知ってるのかい?」
「ううん、まだなの。娘にはもう話したんだけど、あの人にはなかなか言い出せなくって。娘は私に似たのか結構気丈でね、それに母親だから強いわ。でもあの人、強面こわおもてで強そうなイメージあるけど、案外気が弱い所があるのよ」
「でもよう……」

「きっと私の病気と向き合うことに、耐えられないと思うわ。感傷的になって、私と顔を合わせる度に暗い顔をする。そして一番近くにいて今まで気づけなかったんだって、自分を責めることになるわ。看護師の私さえ、自分の不調に気づかなかったくらいだから、素人のあの人に分かるはずもないのにね。
 挙げ句、『あんなヤブ医者の言うことなんか信用できるか』って、あの病院の何とかって先生がいいとか、何とかという治療法がいいとか、どこかで仕入れた怪しげな情報を振り回して、みんなを巻き込んで大騒ぎするのが落ちよ。
 昔、亜希子がおでこを怪我けがした時のこと、覚えてる? 私は忘れもしない。あの時は都築さんにまで大変な迷惑掛けたわね」

「そうだよな。あの時は俺も運転手で、幾つかの病院を回らされたもんだ。『あとが残ったら、ただじゃ置かないぞ』って、おっかない顔で医者をにらみ付けていたっけな。でもよ、俺がどうこう言うべきことじゃないけど、なるべく早く言った方がいいと思うよ」
「そうするわ。でも自分ではどうすることもできないって分かった時の、あの人の顔を思うと、どうしてもね。ごめんね、湿っぽい話で」
 美枝子はハンカチで顔を覆い、鼻を啜る。

「いや。だけど美枝ちゃんは強いな」
「そんなことないわ。私だって気が狂いそうになるくらい恐いわ。どうしたらいいか分からないほど怖い。自分がいなくなった後の世界が想像できないの。あの人、私のお葬式ちゃんとやってくれるかなとか、あの人一気に老け込むんじゃないかとか、ちゃんと毎日食事摂ってくれるかなとか、家に籠もりきりになるんじゃないかって……。もう私が何かしてあげることはできないんだから、色々気をんでも仕方ないんだけどね」

「ミエちゃん……」
「私ね、職業柄、死に接する機会が多いから、もしそういう場面でも自分は冷静でいられるんじゃないか、平気なんじゃないかって漠然と思ってたんだけど、やっぱり駄目ね。怖くて震えちゃって。体が竦み心が冷たくなって、眠れない夜もあるわ。
 仕事中だったり誰かと一緒にいる時は気が紛れるんだけど、夜一人になったりすると急に恐怖が足下から這い上がってきてね。怖くて、悲しくて、悔しくて。死ぬことも怖いけど、それよりあの人ともう一緒に居られなくなることの方が、もっと怖いの。堪らなく辛いの」

 都築は、美枝子の抱える闇にずるずる引き込まれそうな気がした。しかし、それで彼女の気が少しでも休まるのならそれでもいいと思った。
「それにね、女は命を産み出すじゃない。いくら医療が発達したからといって、今も昔もお産が命懸けなのには変わりないわ。その時、女は生と死の狭間を経験するの。そして子どもが出て行った後の腹の中に、そうね、覚悟みたいなものがどーんって居座るの。
 死ぬほどの痛みに耐えたんだ。もう怖いものなどありゃしない。矢でも鉄砲でも持って来いみたいなね。文字通り腹に何かがわるのよ。昔から言うでしょ、女は弱しされど母は強しってね」

 美枝子は涙顔に笑みを作った。
「私ね、生きている間に是が非でもやっておかなくてはならないことがあるの。ずっと考えていながら、なかなか実行できなくて、先延ばしにしていたことがあるの。そういう意味では、ガンになったこと自体は不幸なことだけど、見方によっては仕合わせなことかもって思うの。だって期限が切られたわけだから、あれこれ迷っている時間なんてないもの。何も考えずにやりきるだけよね。
「……」

「私ね、余命宣告された患者さんを見てると、動けるうちに家族と旅行に行ったり、美味しいもの食べたり、やり残したことをやったり、限られた時間をそういうことに使えばいいのにって、いつも思っていたの。でもみんな、今までと変わらない生活をしてるのよね。それがどうしてか分からなかった。
 だけど、いざ自分がそうなってみると、あの人達の気持ちが実によく分かるの。一番大切なのは普通の生活なのよ。家族と一緒にご飯食べて、特に昨日と変わりなかった今日のことを話して、でもたまには外食でもしてちょっぴり贅沢ぜいたくを楽しむ。笑って、泣いて。でも本当は互いに少しずつ年取って、体もその分くたびれてくるんだけど、そうやっていつもと変わらない日常を、一つ一つ積み重ねていく。そういうことが幸せなのよ。
 だから、私も遅ればせながら、今一日一日を大切に過ごしているの。都築さんとこうやってお酒を飲みながら、愚痴を聞いてもらうのも、私にとっては大切なことの一つよ。人生の終わりに私をこんな気持ちにさせてくれるなんて、この病気に感謝している……」

 美枝子は途中で言葉を切った。膝の上で握りしめたハンカチが震える。
「うそ。うそ。そんなの全部きれいごと。本当は感謝なんかしていない。できるわけない。私、病気を恨んでいる。憎んでいる。
 私、あの人ともっと一緒にいたい……。もっと生きていたい……」
 美枝子は唇を強く噛みしめる。きつくつぶった目からみるみる涙があふれ出した。ハンカチに顔を埋めて、両肩を激しく震わせた。都築は美枝子の肩に手を置いて、じっと待った。しばらくすると美枝子は、嗚咽を飲み込んで、顔を上げた。

「ごめんなさいね。見苦しい所、お見せて。ずっと溜め込んでいたものを吐き出したら、すっきりしたわ。もう大丈夫。ありがとう。ここまでの話、娘にだってできないし、ましてやあの人には死んでも言えない。病院にも、こういう病気のためのカウンセラーがいるんだけど、全くの他人に話すのもどうかと思えてね。近すぎても遠すぎてもダメ、夫の親友くらいの距離が丁度いいのかも。
 よかったわ、私には都築さんのような人がいて、しかも今日会うことができて。都築さんに会うまで、ずっと暗い気持ちを引き摺ひきずっていたの。
 笑顔を作ろうとするんだけど、なかなか上手くできなくて。このままじゃ帰れないって思っていたの。あの人には、私の笑顔だけ覚えておいてほしいから」

「都築さんとの付き合いも長いわね」
「そうだね。山ちゃんが途中からうちの会社に入って来た時からだから、もう四十年ちかくになるか」

「何か、俺にできることはないかい?」
「あの人を助けてあげて」
「助ける? 俺が山ちゃんをかい?」
「そう。あの人、きっと自分の気持ちをどうしていいのか、分からなくなると思うの。娘にも頼んではいるけど、やはり男の人じゃないとできないことがあると思うの。だから都築さん、たまには飲みに誘い出して、色々聞いてもらえない?」
「ああ、それくらいお安い御用だよ。山ちゃんが嫌だって言ったら、首になわ付けてでも引っ張って行くよ」
 都築がシャツの袖をまくし上げて太い腕を誇示した。あまりに芝居がかった仕草に、美枝子が笑った。

「お願いね。こんなこと頼めるの、都築さんしかいないもの。本当、会えてよかったわ。ごめんね、都築さんに話したら少し気持ちが軽くなった。ありがとう」
「いいって、そんなこと。でもよ、なぜ俺なんかに?」
「あの人の回りの、気の置けない人に知っておいてもらいたかったの。都築さんならきっと力になってくれる、支えになってくれる気がするから」
「随分買い被りすぎじゃないか。分かった。そういうことなら山ちゃんのことは俺に任せてくれ」
「ありがとう。そろそろ帰らなくちゃ。あの人、待っているだろうから」
「俺の方こそ、ありがとうだよ。そんな大事なことを話してくれて」

「あっ、そうそう。都築さん、お願いついでに、もう一ついい」
「何だい?」
「私が死んだら、二週間後くらい経って、この手紙を投函してほしいの」
「死ぬ、なんて……」
 都築は差し出された封書を手に取る。
「誰だい、山下幸子って?」
「私がいなくなった後、あの人に変な気を起こさせないおまじないみたいなものよ。それ以上聞かないで」
「そうかい。何だかよく分からないけど、出すだけいいんだね。わかった引き受けるよ」

 ありがとうございました。女将が店の前に佇んで二人を見送る。都築が小さくうなづくと、女将はそれに答えるように少しあごを引いた。
「悪かったね」
「何が?」
「いや、そうとも知らずに、彼女の話なんかして」
「いいのよ。私の周りの人が幸せになるのに、悪いことなんかないわ。とっても嬉しいことよ。とてもいい人じゃない。幸せにしてあげてね」

「ミエちゃんだって、山ちゃんに一番に打ち明けたかったと思うぜ。だけどよう、自分が死んで目の前からいなくなるなんてこと、世界で一番好きな山ちゃんに、どう言うんだよ。何て言うんだよ。どんな顔すればいいんだよ。いつ打ち明けたらいいんだよ。
 ミエちゃん、苦しかったと思うよ。悲しかったと思うよ。結局事故でああなってしまったけど、そうじゃなかったらミエちゃんのことだ、その時が来たら、ちゃんと自分の口から言うつもりだったんだと思うよ。ミエちゃん、山ちゃんのことが心配だって、ずっとそんなことばかり言ってたよ」

 精一は俯いたまま身じろぎもせず聞いていた。
「ミエちゃんから硬く口止めされていたら、俺は墓場まで持って行くつもりだったよ。だけど、そうじゃなかった。と言うことはミエちゃんは、いつか折を見て、山ちゃんに話して欲しかったんだと思うんだ。それが今日でいいのか、俺には分からないがな」
「ありがとうな。あいつの話、聞いてくれて」
「さあ、飲むぞ。お代わり」
 精一は乱暴に目頭を拭いた。

 女将は都築の頬の傷に気づいたが、都築が頷くと何ごともなかったような顔で注文を受けて下がって行った。

 精一の呂律が回らなくなってきた。
「お前、ここの女将、何って言ったっけ……」
「明美だよ、立花明美」
「そう、その明美さんと一緒になれ」
「何だよ、やぶから棒に」
「だって、あいつがそう言ったんだろう。俺にとって、あいつの言うことは絶対だ。だから、お前は明美さんと一緒になれ」
「筋が通ってないよ」
「いいんだ。もう二度とは言わないぞ。一緒になれ」
「わかったよ。山ちゃん、飲み過ぎだよ。帰るよ」
「よし」

 都築は精一に肩を貸して歩く。うずき出した頬を冷たさを増した風がそっとでて行った。

<続く>

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。